93.“南”
「ふふふ、始めましょか」
たった一言。
それだけで
世界が再び閉じていく錯覚を覚えました。
「………え?」
いえ、錯覚ではありません。
まず世界が色を失いました。
白と黒だけの世界。
殺風景になった視界の中で、わたくしと仔猫、そして仔猫を抱えた女性だけが色彩を保っています。
武器を手にした男たちも。
左右に立ち並ぶ雑居ビルも。
空をゆく雲さえも。
まるで死んでしまったかのようにピクリともしません。
「えらい驚いてますなあ?
あんたはんの脳に干渉して、加速させるだけの他愛ない小技どす」
ゆらり。
まるで前兆を感じさせないかのような淀みのない動きで一歩を踏み出してきました。
少しずつわたしに近づいてきます。
脳を加速させる。
死に際に体感する走馬灯や集中しすぎて体感がスローモーションになるゾーンのことは聞いたことがありますが、それはあくまで主観的なもののはず。
仮に彼女の言っていることが正しいとしても、それならばわたし以外は全て白黒になっていなければならないはずです。
それとも文字通りここは閉じた世界だとでもいうのでしょうか。
色を失っていないわたくしたちだけの。
「……一体貴方は何者ですか」
今まで現実離れしたことを何度か見たり経験したことがあるけれど、その中でもこれは極めつけ。
ただ目の前の女性が原因であることだけは間違いがないように思えます。
「そんなんいわはっても」
女性は少し困ったように首を傾げて微笑みます。
ちらっとわたくしは止まった世界に視線を巡らせました。最初この女性は伊達政次の一味かと思いましたが、同じく一味と思われる男たちはわたくししか目に入っていないように見えます。
まるでこの女性が此処に存在していないかのように、何人もいる男たちのうち誰ひとりとして視線を向けている者はいないように見えます。
「あては、あんたはんにプレゼントしにきただけどすえ?」
プレゼント。
言葉通りなら贈り物。
見知らぬわたくしに一体何を贈ろうというのでしょうか?
とりあえず返す言葉は決まっています。
「要りません」
すこし間があって、
「なんでですのん?」
「初対面の貴女から贈り物を頂くような謂れはございませんので」
「……なんぎやなぁ」
まるでこちらをからかっているかのように、のらりくらりとした返答が返ってきました。
それを警戒しながらも、女性が抱いている仔猫に気が向いてしまいます。相手もそれに気づいているようです。それにしても目隠しをしているのに、本当にどうやって見ているのでしょうか。
「かいらしいお嬢はんやわぁ、そない心配せんと。ミケはんをいじるような趣味はおへんえ?
そもそも連れてきたんはミケはんやったら、あんたはんの気配感じはるからどす」
「!?」
女性が手をすこしだけ動かすと、抱かれていた仔猫の姿が一瞬にしてかき消えました。
同時にわたくしの腕の中に消えたはずの仔猫の姿がありました。
間違いなくあのときの仔猫。
みぃみぃと嬉しそうに鳴くその声を忘れるはずもありません。
…そういえば、以前手紙で引き取った猫の名前を愛称ミケことミケランジェロにしたと充さんから教えてもらいました。充さんは素敵な殿方なのですが、さすがにそれを聞いたときはネーミングについて少し教育が必要だと思った覚えがあります。
見たところ外傷もないようですし、毛並みや艶も悪くありません。
健康なのを確認するとほっとひと息。
「やすけないはしまへんえ。でも余り時間をかけるわけにもいきまへん」
仔猫を抱いていた腕は、ゆっくりと上げられ指先がこちらに向けられます。
ピリ…ッ。
少し痺れにも似た甘い感覚が身体を包みます。
まるで全身から力が抜けてしてしまったかのように感覚が消失、大きく動くことが出来なくなったことに気づいたのはそのすこし後です。
「ああ、間違いあらへん」
陶酔するかのように女性が声をあげました。
「月音・ブリュンヒルデ・フォン・アーベントロートはん。
あてが探しとりました相手はあんたはんに間違いありまへん」
万感が篭ったかのような響きで、彼女は告げます。
「ほんま、なかなか見つからへんから、どないなるか思いましたわ。
寄りにもよって、言い出したあてがべべになってもうたら立場があらしまへん」
「どういう意味…ですか」
わたくしにできたのは口を動かすことだけ。
それに対する返答は意外にも何度もあの男に聞かされた言葉。
「あんたはんは特別、いうことどす」
聞き飽きた一言。
この期に及んでそれが出てくるだなんて。
「ああ、あねはんが思てはる特別とは違いますえ? そういう意味で言わはるんやったら、むしろ特別ですらない言うほうが正確どすなぁ」
わたしの不満を感じ取ったのかフォローするかのように言葉を続けていきます。
「今、月音はんは、あてのプレゼントを要らん言わはった。そやけどほんまに必要かどうかは先に話を聞いてもらわはったほうがよろしおす」
背景が白黒になってしまった世界では、女性の赤いキルト地のジャケット含め衣装が鮮烈に目立ちます。いえ、むしろまるで世界という舞台で、彼女が主演女優でもあるかのように一挙一動全てが目立っているといっても過言ではないのかもしれません。
そして―――-
「あてが差し上げたいんは“力”どす。
あんたはんが感じてはる不条理を根こそぎひっくり返すに足るだけの」
―――彼女の言葉に甘い毒が混じりはじめます。
「重要NPCはんとか、一般NPCはんとか、はたまた主人公はんとか、具体的なことはわかってはらへんみたいやけど、もう世界には変えられへん枠組みがあるんは薄々わかってはりますやろ?
あての手を取ってもろたら、それだけでその不条理を正せますんえ?」
「……………」
……確かにもう知らないフリはできません。
初めて聞かされたときは何を言っているのかと本気にはしていませんでしたが、何度も聞かされ、そしてその言葉を肯定するかのように伊達政次はどんな所業を行なっても咎めを受けることはありません。
普通の人で構成される一般NPC。
伊達政次の言うところの特別な人間だけが属する重要NPC。
そして―――最初から世界に優遇されるべく生まれつく主人公。
その絶対的なヒエラルキーで構成されたこの世界。
まるで冗談か夢物語のようなそんな仕組みを。
生半可なことではその理を変えることはできません。
それはわたくしが一番よくわかっています。
だからもし女性が言っていることが本当であるならば、それはこの上なく魅力的な提案であることも事実です。彼女の手を取るだけでそのための力を与えてくれるというのであれば、それが一番簡単で楽な方法でしょう。
ですが―――
―――わたくしは知っています。その仕組みの中でもがいて前を向いて進んでいる彼を。
『ただ、その男。俺の誇るべき友人である充は、主人公ですらありません。今のところただのNPCです。そのうえで今回貴女のために伊達先輩に立ちふさがりました』
残酷なまでに格付けされた世界で、わたくしのために主人公に立ち向かってくれた充さんのことを。
ただのNPCである、というその言葉を信じるのであれば彼の行動は危険に満ちたものです。
生徒会室でのやり取りなど主人公である伊達政次と正面から戦ったりもしたのですから。見ていて寿命が縮んでしまいそうなほどギリギリのやり取りでした。
でも結果、彼は一時的ではありましたが、わたくしの側から伊達政次を排除することに成功しています。
本当に主人公が絶対であるのならば、彼が賭けに勝利することなどなかったはず。
それを知っている以上、例え仕組みがそうであったとしても、彼女の言う“力”があろうとなかろうと人はそれを変えることはできると確信できます。
「………」
誘いの言葉に乗らず毅然とした視線で答えるわたくしを、女性は少し驚いた様子で見ています。
ふと何かを思いついたかのように、アイマスクで隠された視線をこちらに向けるかのように顔の向きを微妙に変えます。
途端、
きゅ、んッ!
「…ッ!!?」
一瞬目から何かが抜けるような感覚がして思わず瞬きをしてしまいました。
何があったのかわかりませんが、直前の行動から直感的に女性に何かをされたと思い、その彼女を見ると―――
―――彼女は満面の笑みを浮かべていました。
美貌に彩られた笑みはとても美しく殿方であれば見蕩れる方もいるだろうと思うほど。でもそれはどことなく底冷えするかのようなの恐ろしさをかすかに感じさせてもいます。
彼女はわかりやすいほど喜悦を見せ、
「あは! あんたはんは素敵な方どすなぁ!!
まさかもうすでに接触済みやったやなんて!!! 見誤っとったんはあてのほうやったやなんて!! あはは! ほんま、かんにんしてなぁ?」
「…………?」
「わかりまへんやろのか。知ってはりますんやろ? 三木充を」
「ッ!!」
目の前の女性の口から出た名前に思わず動かない体を強ばらせようとしてしまいました。
わたくしが充さんを知っていたことに対して、いきなり彼女は声をあげて笑います。どうしてこのタイミングでそれに反応するのでしょうか。
もし最初から知っていたのであれば今更ですし、かといってわたくしは彼女にそれを言ったりもしていません。まるでわたくしの考えることを読みでもしたかのような。
………まさか!?
わたくしの推測を他所に彼女は感極まったかのように空を見上げ、
「あんたはんは間違いなく、あてが探し求めた相手……いや、それ以上どす。すでに接触済みやなんて、他の2人より間違いなく近いはずやし」
再び歩みを再開する女性。
「猫神の幼生と出会ってはったのも偶然では無さそうやし。ああ! ほんま、あのお方がどないな顔をしはるんか、楽しみやわぁ!!」
まるで楽しみな未来を語るかのような前向きで明るい声を出しながら、わたくしのすぐ目の前までやってきます。
そして路地の入口と出口の男たちに視線を向けます。
「その充はん……おそらくこの主人公はんたちの親玉に一番憎まれてますんやろな?」
「………ッ!!?」
「あてがあんたはんに与える“力”……それがあれば彼を助けるのも容易おすえ?」
まるで蕩けるように甘い誘い。
その力が無くても世界を変える力そのものは元来人間に備わっているという考えは変わっていません。でもそれはあくまで可能性の話。
わたくしにこれだけの人数が来たということは、今もしくはそう遠くないうちに充さんがまた巻き込まれるのは避けがたい事実でしょう。
少なくともあの伊達政次は例え小さな賭け事だとしても自らが受けた敗北を濯がないような相手はありません。特にわたしに関することなら尚更。
自分が傷つくのはもう気にしていません。
でもあれだけわたくしのために頑張ってくれた充さんだけは何としても助けたい。
問題はそのときにわたしが未だに無力であるということ。
ただ目の前で充さんが伊達政次に傷つけられていくのを、いや、それどころか殺されてしまうかもしれないのを見ているだけしかできないかもしれない。
それは本当の悪夢。
想像した途端、わたくしの心に湧いてきたのは―――
それを自覚した瞬間。
わたくしの心が綻んだ一瞬の隙。
想いに染み入るかのように女性の髪が一瞬にして恐ろしいほど伸びて広がります。びっくりしたミケが腕から飛び降りると同時に、さながら銀の繭のように髪がわたしを包みます。
「見せておくれやす。あんたはんの“魂源”を」
わたくしという存在を全て見透かすかのような、そんな声色。
ふと、思い出したかのように女性は最後に付け加えました。
「そういうたら自己紹介してまへん。すっかり忘れとりました…かんにんしておくれやす」
しゅるしゅる、と。
銀の髪がわたくしを縛りあげていきます。
動けないままのわたくしは為すがままになっているだけ。
ただ静かに彼女が名乗り上げるのを聞いていました。
「あては“南”。覚えといておくれやす」
不思議な響きの名前。
完全にわたくしの視界が無くなる直前に彼女の最後の言葉が耳に届きました。
「あんたはんが4人目どす。
あの何考えてはるかわかりまへん変わり者の“北”はそもそもこの賭けをしはるんかわかりまへんけども。きばっておくれやっしゃ」
そして視界が完全に途絶えるのと同時に意識も薄れていったのです。
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登録してくださった皆様、ありがとうございます。
感想もたくさん書き込んで頂き、作者が回収描写するのを失念していた伏線とかもご指摘頂き大変助かっています。
皆様の応援あってこそ更新できるのだなぁとしみじみ思いました。
本当にありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。




