79.拒絶
一瞬何を言われているのかわからなかった。
まるで夢でも見ているかのように実感が湧かない。
生まれてから今日までずっと暮らしてきた家。庭の木々や、置かれた高校祝いに買ってもらった自転車、その自転車のタイヤに空気を入れたまま放り出された空気入れ、春先にツバメが作った軒の巣。目に映るあらゆる光景が今朝と変わっていないのに、今のこの状況だけはまるで違っていた。
「……どちらさまですか?」
実の母親からかけられたこの言葉。
もちろん言葉の意味するところはわかる。
わかるけど……、
「い、いや…何って…オレだよ、充だって」
咄嗟に口を動かすが気の利いた言葉は出てこない。馬鹿みたいに自分の名前を名乗るだけ。もしこれが電話なら何かの詐欺みたいじゃないか。わかっていても他に浮かんでこなかった。
それに対して母親はますます怪訝な顔をする。
オレのことをじろじろと確認して、
「ああ、もしかして祐の友達かしら?」
思いついた、とでもいうように手をぽん、と打ちながら兄貴の名前を出す。
やっと納得した感じで二階に向けて兄貴を呼ぶ。少しすると、呆然としているオレを尻目に兄が階段を降りてきた。
「母さん、どうしたの?」
「祐、充君って人が来てるわよ? 何か用事みたいなんだけど」
読みかけの雑誌を手に母親の横に立つ兄貴。
話を聞いた彼は明らかに不審そうにオレを見た。
「誰? そいつ。知らない奴なんだけど」
母親と同じ視線を向ける。
縁も由もない見知らぬ誰かを見る目。
おそらく何を揉めているのか気になったのだろう。途中から、リビングへの扉のところから父親が様子を窺っているが、何も変わらない。
家族の誰もが同じ目をしていた。
ここまでくれば何が原因かはわからずとも、何が起こっているのかは理解できた。
それでも、心は納得してくれない。
「いや、だからオレは弟の充で……ッ」
「ふざけてんじゃねぇよ!」
名前を言った途端、兄貴に肩を突き飛ばされた。
予想もしていなかった対応に、構えていなかったオレは体勢を崩し尻餅をつく。
「…え?」
自分でも間抜けな声を出していたと思う。
きっと、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をしてたんじゃなかろうか。
「何がしたいのか知らねぇけどな、生憎とうちはオレ一人なんだよ。兄弟なんかいねぇんだ。
新手の詐欺か悪戯かどっちでも構わんけど、とっとと帰るんだな」
兄弟喧嘩をしたことはある。
だけどそんなときからは想像もつかないような嫌悪感を滲ませた声を浴びせかけられた。新手の詐欺、という言葉に母親は合点がいったとばかりにこちらを睨みつけてくる。
ばたん。
目の前で玄関の扉がしまる。
尻餅をついたままのオレは、何も出来ずにその光景を見てることしかできなかった。
少ししてからハっと気がついて再びインターフォンを鳴らす。だが今度は出てきてすらくれない。
信じられない。
わけがわからない。
鸚鵡のように頭の中では同じ言葉が巡る。
もしかして、冗談だよ~なんて言いながら家族が出てきてくれるんじゃないだろうか。
そんな想いをかかえてインターフォンを押し続けていると、
バシャアッ!!
玄関から出てきた兄貴にバケツに入った水を浴びせかけられた。
「お前、頭おかしいんじゃねぇか!? どっか行け! 警察呼ぶぞ!」
もう夏も近いから別に水が冷たかったわけじゃない。
だからこの感じている冷たさは別の何かが原因なんだろう。
「……………」
兄貴が扉を閉めた後、インターフォンを押す気力はもう残されていなかった。
とぼとぼと行くあてもないまま歩き出す。ぽたぽたと体から垂れる雫が道路に染みを作っていった。
「は……はは…は…っ」
口から洩れるのは乾いた、それでいて空虚な笑い。
「一体…なんなんだよ………」
それしか言えない。
今朝までは普通の家族だったはずだ。
そりゃあ世の中のどんな家族よりも、とはいかなかったかもしれないが皆仲がいい家族だったと思う。
いつも明るく家族の話を聞いてくれるくらい面倒みがよく、ボクシングの試合の縁起担ぎで、わざわざ朝は減量用で小さいトンカツを作ってくれた母親。
普段は寡黙で物静か。でも幼い頃母親に怒られた後落ち込んでいると、こっそり外に連れ出してアイスを食べさせてくれたくらい、不器用ではあるが子煩悩な父親。
よく兄弟喧嘩もしたし朝起こされるときも乱暴ではあったけど、進路のころで悩んでいるときには相談に乗ってくれたり、いざというときは頼れる存在だった兄貴。
ずっと変わらない愛すべき家族がいた。
ほんの数時間。
たったそれだけで全てが変わってしまっている。
一体なぜなのか、それはわからない。
もしわかるなら逆に教えて欲しいくらいだ。教えてくれるなら何だってしよう。
すこし歩いて振り向く。
ずっと育った自宅が見える。
思い出がたくさんある慣れ親しんだ家。
ただ1点だけ。
帰ってきたときには気付かなかったことに気づき、違和感を感じた。
―――表札が「三樹」になっていたから。
「……………」
なんなんだ、と叫び出したかった。
もしかしたら表札を変えて家族全員が共謀してオレを担いでいるんじゃないか、なんて想像が浮かぶ。もしそうならそれでもよかった。むしろそうであってほしい。
オレの帰る場所がちゃんと残っているのならそれが一番なんだから。
「………よし、もう一度話してみよう」
そう考えた次の瞬間。
さらに気づいてしまった。
家の前の通りの奥、20メートルほどいったところに普段はゴミ収集所として使われている、金網で出来た壁と天井に囲まれた小屋があった。入口の扉には鍵がかかっており、町会の人間以外は使えないようになっている。
壁になっている金網は結構厚手で細かく、中身は見えるもののカラスが入ったりは出来ない。
そのため、通常のゴミ収集は朝にならないと出してはいけないが、ここは前の日の夜に出すことも可能になっていた。
「…嘘…だろ………」
思わずそちらに走り出す。
不安を胸に全力で。
気づいたそれが勘違いであることを必死に願った。
近づくにつれ、その儚い望みが無駄であることに気づくとしても。
辿り着く。
震える手で扉に手をかけた。
前にゴミを出した人がかけ忘れたんだろう。
ゴゴゴ…。
重たい金属の扉をスライドさせていく。
そして見た。
―――そこにあったのはオレの私物。
見間違うはずがない。
本や雑誌はもとより、洋服、文房具、パソコン、貯金箱、アルバム……。ベッドや本棚、机などといった家具すら解体されてここに置いてある。
オレの部屋にあったほぼ全て。
愕然としながら近寄った。
無意識に手近にあったアルバムを手に取って捲る。
「…………ッ」
オレが幼いときから今に至るまでに撮った写真。
父親も母親も写真に残すのが好きな人だったから、オレも兄貴もたくさん撮ってもらった。それこそ生まれた翌日から運動会といった行事に至るまで事あるごとに。
「アンタたちが結婚して親になったときに、これを見たら母さんたちがどれくらいアンタたちを大事にしてたのかわかるでしょ」
それをオレはオレ、兄貴は兄貴で一冊にしてもらっている。撮ってもらってアルバムにしてもらったときはちょっと気恥ずかしかったけれど、本当に赤ん坊の頃から節目節目で撮ってくれていて感動した覚えがあった。
これはその一冊。
15年間の全てが入っているから、その厚さも結構なものだ。
開いた瞬間。
―――瞳から熱いものが流れるのを止めることが出来なかった。
全ての写真から、オレ以外の家族が映っている部分が切り取られて無くなっていたから。写真が破られているのもショックだったが、その切り取られ方がまるでオレの存在だけ要らないとでも言うかのように感じて。
逸脱した者
最初にその言葉を聞いたのはいつだっただろうか。
今になってしまえば直感的にわかる。
逸脱する、というからには、脱する対象である何か規定のものが無ければならない。そんな簡単な言葉の意味にすら今に至るまで気づいてこなかった。
でも朝と今の違いがあるというのなら、それしか心当たりがない。
おそらく羅腕童子との戦いでレベルが上がったと思われる逸脱した者。
それが原因だとするのなら、エッセならどうしてこうなったのか知っていたのかもしれない。
いや、どうして突然こんなわけのわからないことになってしまったのか、原因がなんであれ突き止める手伝いをしてくれただろう。
短い付き合いだけど、それくらいはエッセのことを理解してるつもりだ。
―――だけど、ここに彼女は居ない。
紛らわせていた彼女との別れのシーンを思い出す。よみがえるのは喪失の悲しみ。
床に水が滴っているのは、ぶちまけられたバケツの水のせいだけじゃなかった。
「う゛う゛ぅ…ッ…ぅ゛ぁ゛ぁぁ……」
笑っちゃうくらいの不格好さだとわかっていても、嗚咽を止めることができない。
でもそれくらいは許されるだろう。
今日だけで二度、喪った。
一度目は、エッセを。
そして二度目は、家族を喪ったのだから。
それからは何をどうしたのか曖昧にしか覚えていない。
ただ捨てられたオレの持ち物を手当たり次第に掴んでは隠袋に放り込んだ。サイズ的に袋の口を通らないもの以外は全て。
その間だけでも何も考えたくないとばかりに無我夢中で。
路頭に迷う。
その言葉がこれほど実感される日が来るとは思っていなかった。
家を追い出された。
正確には追い出されたというより、もうあそこはオレの家ではなくなっているのか。
頭が混乱していて何をどうしたらいいのか判断がつかない。
ようやく思いついたのは出雲のところに行くことくらいだった。
幸い、というか何というか、出雲は一人暮らしだ。部屋も余っているしこれまで何度も泊めてもらったりしている。冷静に状況を判断するまでの間くらいは泊めてくれるだろう。
頼るべきは親友だ。
ゾクリ。
鈍っていた頭がそのときだけ動いた。
気づかなければよかったのに。
でも思いついてしまったのだ。
―――今も本当に親友か? という疑問を。
家族ですらオレのことを全く忘れてしまっていた。
原因が何なのかはわからないが、まるで最初から存在しなかったかのように存在していた痕跡すら消そうとするほどに。
何かがあったのは間違いない。
ならば。
幼馴染である出雲はどうなのか。
覚えていてくれるだろうか。
それとも同じように忘れてしまっているのだろうか。
それは確かめてみなければわからない。今ここで推測を重ねても結論など出やしない。どうなっているかなんて出雲の家に行って…いや、行かなくても電話の一本を入れれば済むだけ。
ただわかっていても、確かめることに途方もない恐怖を感じた。
覚えていてくれればいい。
もし覚えていなかったら?
それは背筋が凍るほどの想像。
長年連れ立ってきた親友からすら、オレは消えているとしたら。
あらゆる人から、オレは消え去っているんじゃなかろうか。
おそらくはもうひとりの幼馴染である綾の記憶からも。
向けられた家族の視線を思い出す。
まるで異物を見るかのようなその白い目。
なまじ温かい身内の関係を知っていただけに、そのショックたるやかくや、というものだ。
それを幼馴染たちも向けてくるとしたら。
そんなものは想像したくない。
でも有り得ないことだと言い切れるだろうか。一度してしまった悪い想像は消えもせず、どんどん膨らんでいく。
家族も、幼馴染も、友人も。
誰もがオレを知らない世界。
それはつまり―――
―――世界にただ一人の孤独。
ぞくりと震える。
その震えを止めることもなく歩き出す。
もう出雲のところへ行く度胸はなかった。
ただあてもなく足を進めていく。
思いついたのはとりあえずは街中だろう、ということくらい。
駅のほうへいけばどこか夜を明かせる場所のひとつやふたつ、あるはずだ。カプセルホテルでもいいし、なんならネットカフェでもいい。
暗い道を照らす街灯の下を歩いているのはオレだけ。
孤独と影を背負い、歩きながら願わずには居られない。
これが夢であることを。
きっとオレは対抗戦で疲れて家に帰るなりバッタリと寝てしまったんだ。最近はいつも朝起きれていたけれど、今日は寝坊してしまっているからまだ覚めないだけ。目覚めて明日になってたら全てが元通りで、何事もなかったと安堵する。
そんな都合のいい展開を。
自分すら騙せない妄想にすら縋らないと立っていられない。
そんな自分に気づいていたから。
三木 充というNPCは死んだ。
否、あの日に、すでに死んでいたのだろう。




