77.モーガン・ル・フェイ
先ほどまで眼下に広がっていた雲を抜けていく。
地表に小さく見える森や街が徐々に大きくなるのがわかる。
ゴォォォォォ……ッ。
轟音を響かせつつ飛行機が沈んでいく。
それはビジネスジェットと呼ばれる小型の飛行機。公共の輸送機関として使われているジャンボジェットとは違い、個人や企業などが所有して個別の人員輸送に使われているものだ。
軽い衝撃。
そのままギアが擦れるような音と共に滑走路に着陸した。
しばらく滑走路を走りつつ速度を落とした後、プライベートジェットが止まるとすぐにタラップが取り付けられる。
それを待ってから、アタシはゆっくりと出口に向かう。
カツン、カツン…。
タラップと靴とぶつかる音が響く。
出てきたのはアタシ一人。
つまりこのプライベートジェットはアタシだけをここまで移動させるために使われていたのさ。
ウェーブのかかった艷やかな亜麻色の髪をたなびかせ歩く。
アタシが手に持っているのはこの国においてダレスバッグとも呼ばれる医者が持つような大容量の鞄だったが、かけているサングラスと緑を貴重としたスーツにマッチするようにコーディネイトしておいたから、それほど違和感はないはずだ。
「まったく……何度来てもこの国のジメジメとした暑さには慣れないねぇ」
蝉の鳴き声が聞こえる空を見上げる。
胸元を暑そうに扇いでみると、プライベートジェットから機械を使って荷物を運んでいる作業員が思わず視線を向けそうになるが、バレそうになって慌てて業務に戻った。
ふふ、まぁこのアタシの豊満な胸に思わず目をやってしまうのは仕方ないだろうさ。それもこれもアタシが魅力的すぎるのが悪いのさね。
日本。
それが今アタシが到着した国の名。
普段アタシが居を構えている国とは地球の反対側と言っても過言じゃないくらい遠い国だ。とはいえ、国々を旅するのは今のアタシの趣味のようなものだから、そこまで苦ではない。本当に面倒なら転移魔術で行けば済むところなのだから。
直行便にも関わらず12時間。だが幸いプライベートジェットのスタッフたちの高品質のサービスによりそれほどの不自由は感じないで済んだけどね。
この暑苦しいジメジメした季節だけ除けば、別に日本のことは嫌いじゃあない。
食事は美味しいし、治安も悪くない。道行く庶民の学力水準も高いし、親切だからのんびり観光と洒落込むにはいい国。何度も来ているので言語もばっちりだ。
だが残念なことに今回やってきた理由は観光じゃなかった。
言うなればビジネス。
だからこそあまり気乗りしない季節であってもやってきたのさ。
「しかし……アタシを呼び出すとは、アイツも随分と偉くなったもんさねぇ」
ちょっとした昔のことを思い出すとそんな言葉が口をついて出た。
呼び出したのは弟子だ。
いや、元弟子、というべきだろうね。
魔術を教えて欲しい、と言いつつ一人前になる前に逃げ出した馬鹿者だった。その際にアタシの研究室から物品をひとつ盗んでいる。物そのものはそこまで珍しいわけじゃなかったから、これまでは見逃していたが、ことここに至ってはそれも追求する必要があるかもしれない。
だがそれは馬鹿弟子もわかっているに違いない。
その上でアタシを呼び出したのだ。それ相応の用意があるはず。もし何もなければそれこそ命取りになる、それくらいの判断力はあるだろう。無いようならばそんな無能に用はない。
なにせアタシは才能がない奴は大好きだが、無能は大嫌いなのだから。
入国審査官のゲートが見えてきた。
急いでいるときは穏便に突破してしまうこともあるが、まだ待ち合わせ時間には遠い。ここは会話の妙を楽しむとしようかねぇ。
普通の旅行客のように列に並び、自分の番を待ってから審査官の前に進み出た。
パスポートを開いて渡す。
少し会話を交わし、顔写真をチェックし終わると審査官はパスポートに判を押す。
そのまま笑顔でパスポートを返してきた。
「ようこそ、日本へ。モーガンさん」
モーガン・ル・フェイ。
古今東西並び立つ者などない稀代の魔女。
それがアタシさ。
□ ■ □
空港を後にし、待ち合わせ場所に急ぐ。
待ち合わせとして指定されたのは小洒落たカフェだった。
名前を出すと来賓用の個室に通された。なるほど、ここであれば邪魔は入るまい。
からん。
グラスの中の氷が溶けて澄んだ音を立てた。
先ほどまでアイスティーが入っていたグラスには氷が溶けた水しか入っていない。外があれだけ暑かったから仕方ない。その気になれば魔術で自分の周囲の温度を強制的に維持することはできるが、アタシの趣味じゃない。そんな風情のないことは御免だね。
もう一杯をウェイターに頼んですぐに、待ち合わせの相手が入ってきた。
予定の時間の5分前。
待ち合わせに遅れたわけではないが、基本的にアタシは待たせるのはよくても待たされるのは嫌いなんだ。ちょっとイラっとしたので、
「アタシを待たせるとは、随分と偉くなったものだな?」
じろりと睨む。
入ってきた東洋人の青年は一瞬言葉に詰まるが、気を取り直したのか愛想笑いを浮かべる。
もし普段の彼を知っている者がいたら目を疑うだろうというくらい、およそこの青年に似つかわしくない行動だ。
「……お久しぶりです、師匠」
まだ若い、眼鏡をかけた長髪の男。
普通に考えれば取るに足らない年頃の若造。東洋人は比較的みな若く見えるが、今回は普通に若い。まだ十代だから、アタシから見れば子供もいいところ。
だがその外見で侮れば痛い目を見ることになるだろう。
かつて弟子入りしたときと違い、今の彼はそれなりの実力者。
もっともアタシには勝てないだろうが。
それでも主人公と呼ばれる一般人の枠を超えた連中の中でも、上から数えた方がよい程度の力は持っている。
日本地域の序列第4位、伊達政次。
それがこの青年だ。
「ああ、久しぶりも久しぶり。
弟子入りしたアンタが、逃げ出す駄賃に人の研究所から“瞳”を盗んだとき以来かねぇ? そのアンタから取引の申し出があったときには驚いたもんさ。一体どんな言い訳を聞かせてくれるのか、楽しみで仕方がなくって」
ざわり。
体内の魔力を少しだけ高めて威圧する。
たったそれだけ。
それだけの行動が最強の魔女たるアタシならば十分過ぎる威嚇。
通常、魔術の行使には様々な手順が必要だ。威力が大きければ大きいほどそれは複雑で手間のかかるものになる。だがアタシの周囲には常に待機状態にされた様々な魔術式が展開されていた。
高めた魔力を注ぎ込むだけで、その全てが起動する。
ひとつでも放てばこの店ごと破壊するだけの力があるだろう。それをわかるだけの相手にとって、この魔力の高まりは脅威以外のなにものでもない。
「その節は申し訳ございませんでした」
放った威圧をどう解釈したのかわからないが、肝心の元弟子はあっさりと頭を下げた。
「勿論、師匠がお怒りになられていることは…」
「その呼び名で呼ぶな。耳が腐るからね」
何とか会話を続けようとするのに対し、ぴしゃりと言う。悪いけど元弟子はあくまで元だ。そのへんのケジメはつけておく必要もあった。
そこで先ほど追加注文したアイスティーが届けられた。
ウェイターで出ていったのを見計らって伊達は続ける。
「………モーガン様がお怒りになられていることは重々。
ですがその上で取引をさせて頂きたい。当然モーガン様のお怒りの代償に見合う以上のものを提示できるつもりでおります」
そこで一度話を区切ってこちらの反応を確認してきた。
アタシは無言のまま、視線で続けろと促す。
「ボクのほうでご用意させて頂きましたのは、まずこちらです」
手にしていたケースを取り出した。
中に入っていたのは、長さ20センチほどの紫に輝く六角柱の水晶。
それが3本入っている。
それが何か知っている。
この世界で最も強い力とは何か。
それは地脈である。
星そのものの生命エネルギーと言えばいいだろうか。
地脈そのものはある一定の条件を満たせば、その流れを変更することがあるが、偶然にも同じ場所で流れる霊力が溜まることがある。その場所を永年霊土といい、その土地では一定の濃度を超えた地脈が霊力の塊を結晶化して吐き出す。提示された紫の水晶柱がこれに当たる。
結晶化した霊力は自らが魔術を行使する際に使えるように加工することができ、これが一般的に魔水晶と呼ばれる。
ゆえに魔術を使う者は魔水晶の素材を産出する地脈の管理者となることが多い。魔術師同士の戦いの原因の多くはそういった地脈の縄張り争いによるものだというデータもあるくらいさ。
紫水晶を手に取った。
一瞬触るだけでその容量の大きさがわかる。
なるほど。
これだけの魔水晶の素材であれば、取引を申し出たのもわからないでもない。
確かに希少品ではある。
並みの魔術師ならば飛びつくかもしれない…が、生憎とアタシは違う。この程度のレベルのものであれば、いくらでも、というほどじゃないが、それなりの数持っている。
「……………それで?」
「それは手付代わりです。後払いの報酬としては―――」
静かに告げてきた内容。
それはさすがに予想外でアタシは目を見開いた。
確かに魔水晶の素材も貴重なものだったが、最終的な報酬はそれ以上に価値があるもの。少なくともアタシにとっては、だけども。
「対価として用立てたものはわかった。
それでアンタ自身の要求は…つまり、アタシに何を望むんだい?」
アタシが話に乗ってきた、と判断したのだろう。
紫水晶を入れたケースを閉めて、真っ直ぐこちらを見据えてきた。
「まず……」
右手で自分の目を押さえた。両目が片目になるのと同時に隻眼が淡く光る。
どうやら“瞳”はすでに身につけられていたようだ。
「この“瞳”の正式な譲渡、及び―――」
その要求は予想通り。
「―――その機能である“無限の矢”の拘束解除を」
伊達が身に付けている“瞳”は正式な譲渡が行われていない。つまり所有者としての権限は未だにアタシが有している。それはすでに目玉を取り替えた今であっても変わらない。
もしアタシが即座に機能を失えと命じれば1も2もなく機能を止めるだろう。これまで伊達がアタシに居場所がわからないようにしていた理由。もっとも、単にアタシが本気で探さなかった、というのもあるんだけど。
さらに“瞳”にはいくつかの能力制限がかかっている。初歩の魔眼的な機能はあるから簡単な幻惑や魅了などにも使えるものの、メインである能力については使えないよう拘束術式がかかったままだ。
仮に所有者権限を移譲したとしても、この解き方についてはアタシに教えてもらわなければならない。一流の魔術師ならともかく伊達程度では独学での解除は無理だろう。
「ふぅん……?」
少し思案する。
腑に落ちないところもいくつかある。
だが取引としては悪くない。むしろ破格かもしれない取引だ。
何を企んでいようとも、伊達ではアタシに対してどうもできないのはわかっている。ならば、ありがたく取引を完了させておくべきか。
一口アイスティーを飲んでから、軽く手を挙げる。
パチンッ。
指を鳴らした。
「ッ!!?」
伊達が一瞬驚愕の表情を浮かべる。
「何を驚いてるんだい? アンタの望み通り権限の移譲と制限の解除をしてやったんじゃないか。もう少し喜んでもらいたいもんだねぇ?」
くっくっく…。
分不相応にもアタシと対等な取引、なんてことを考えた元弟子のその表情を見つつ笑いを堪えた。まぁこれ以上虐めても仕方ない。
「“無限の矢”の名が出てきたってことは、その“瞳”の使い方はすでに調べているんだろう? なら、使い方までわざわざアタシが説明してやる必要はないさね」
ゆっくりと立ち上がる。
取引は終了した。
これ以上この男と顔をあわせる必要もない、ということ。
「そっちの報酬については後で届け先を指定するよ。耳を揃えて届けておくれ。
よもやまた手違いが起こって、つまらない事態にはならないだろうね? そうなったらお互い残念なことになるだろうさ」
念のため釘をさしておく。
“瞳”を持って逃げた件については、物がそれほどアタシにとって重要じゃなかったせいもあり放置しておいたが、今回は正式な取引。
もし約を違えることがあれば今度は本気で追われることはわかっているだろう。そうしないとアタシの沽券にも関わるからねぇ。
「しかと心得ています」
緊張した面持ちで頭を下げる伊達。
だが別段興味も無かったので無視して店を後にした。
これで用件は終了だけれども、せっかくだ。
もう少しそのへんを散策してみることにしようかねぇ。




