72.絶望の貌(1)
リング上で拳を突き上げる少年。
彼に対し、老人は素直に拍手を送っていた。
紳士然としたその物腰は優雅さを感じさせる。整えられた髪と口髭も相まってまるで執事のような気品を漂わせていた。
その隣には同行者が興味深そうにリングを見ている。
「ちなみに、貴方の目から見て、あの偽鬼はどうだったのかな?」
同行者―――和服を着崩している男が問うた。長い黒髪は首元で申し訳程度に無造作に留められているが、まるで徹夜明けだとでも言うようにボサボサの頭。締切明けの作家だ、と言われたら納得してしまいそうな風貌だった。
「そうですな…速度、力共に悪くはありますまい。あくまで人が造ったもの、としてはですが。あの出来であれば、鬼属の末席くらいには加えてもよいかもしれませんな」
「やれやれ。褒めているだか手厳しいんだか」
苦笑しながら男は懐から扇子を取り出して広げた。
静かにその細い狐目が老人を見る。
「ただ、それに勝ったということはあの少年、なかなかの逸材かもしれないな。確かに酒鬼が気にかけるだけのことはある」
「御館様に偽りなど申しますまい。とはいえ……」
「ああ、すまない。今は榊、だったね」
ぱん、と扇子を畳む音が響く。
「いいだろう、行動を許可する。どうももう1匹うろうろしているようだから、その経過を見て自己判断で行動して構わない」
「我侭を聞き入れて頂きありがとうございます」
老人は深々と礼をした。
「というか、そもそも私の許可が要るのかい?」
「無論でございます。事と場合によっては、小僧っ子を躾ねばなりませぬゆえ。いつの世も若者はえてして暴走するものでございますからな」
「……………耳に痛いなぁ」
男は困ったように頭を掻いた。
そのまま視線を、リングから退場する少年に戻した。
「三木充君、だったか。キミも色々と苦労するね」
□ ■ □
ジャイアントキリングに沸く場内。
拳を突き上げたままの姿勢のまま、ふと思う。
……えぇと、どうしようか。
実はもうフラフラ。
緊張の糸が切れたようで足にもあまり力が入らない。
正直周囲の人の目が無ければそのまま倒れ込んでしまいそうだ。
このままここに立ちっぱなしってのもおかしいけど、動いたら倒れちゃいそうだしどうしようかと考えていると幸いなことに俊彦先輩がリングに上がってきて、肩を貸してくれた。
「よくやった、充」
短い褒め言葉だが、万感の思いを感じてなんか照れる。
肩を貸してもらいながらリングを後にする。
出口のほうへと歩いていきながら、ふと振り返る。
10分にも満たないそのわずかな時間。
だがその密度たるやどれほどだったろうか。
一発一発かわした拳のやりとりが濃密なものだったのを知っているのは、当事者である二人のみ。
なんでボクシングが男を引きつけてやまないのか、わかった気がした。
……うん、まぁオレは二度と御免だけどね。
そこでふと思い出して、出口へ向かう前に俊彦先輩の頼んで道を外れる。
向かうその先にいるのは、ひとりのイケメン。
紛うことなきうちの副生徒会長。
「…………」
徐々に近づくオレに対して、何の用だとばかりに視線を向けてくる伊達。
その目の前までたどり着く。
そしてゆっくりと右手を差し出した。
はっはっは、イケメンが歪んでやがる。
なんたる屈辱!的な表情だ。
ざまぁ見やがれ。
しばし奴は葛藤した。
なんてことはないただの友好の儀式。
その隠された意味がわかるのはごく少数のみ。
これは宣言にも等しい。
賭けに勝利したことを相手に告げ、約を、月音先輩に手を出さないことを履行するよう求める儀式。
勿論蹴ることも出来るだろう。
ここでオレを抹殺しに来るかもしれない。
だがここには他の上位者もいるし、重要NPCも数多くいる。そこまでのリスクを犯せるだろうか?
そして一度やった約束を破るには彼は気位が高すぎる。
その彼が自ら小細工して万難を廃したにも関わらず賭けに敗れた。それだけでも間抜けだというのに、この上、約定を反故にするようなカッコ悪いことを選べるだろうか?
答えはすぐに出た。
ぐ、と伊達が握手を返したから。
いやぁ、イケメンが悔しさに表情を歪めるのは見てて気分いいなぁ。
にやけそうになる顔を隠しながら手を離す。
今度こそそのまま会場を後にした。
さて、大変だったのはその後だ。
控え室に戻って俊彦先輩が連れてきたドクターのチェックを受けた。
結果、鼻、頬骨、そして顎が折れていることが判明。
そりゃ上手く話せなかったわけだ。
そんなこんなで、そのまま気絶したまま起きない石塚と共にタクシーで病院に直行。
下手をしたら入院コースだったが、そこはそれ。
運ばれる前にこっそり出雲から河童の軟膏をダースでもらっておいて、トイレに行くフリをして塗りまくった。全部使い果たしてしまったがお陰で、なんとか回復することに成功する。
さすがに完全に傷を治してしまうと怪しいことこの上ないため、打撲とか軽い怪我くらいまで治ったらそのへんで止めておいたけど。
骨折ということで話を聞いていた医者に驚かれつつ、とりあえず大事はないということであっさりと解放され、病院を後にすることになった。
時刻は午後二時くらい。
「いや~、なんやトピーが顎砕けとるとか言うから、心配してもうたやないかぁ。昔っからアイツは心配しすぎるトコあるからなぁ」
付き添いにきていたジョーが隣でうんうん頷く。
いや、実は俊彦先輩のが正しかったんだけどね?
【うむ、あのような雰囲気の中、ちょっとした挙動でそれを見抜いた俊彦とやら、さすがひとつの道を極めようとする者じゃということかの】
ちなみにジョー以外のメンバーについては一度帰宅し、その後見舞いに来るとのことだったがオレがなんともなかったことは携帯で伝えてあるので、見舞いそのものが中止になっていた。
「大したことないって言っても、とりあえず全身が痛いからさっさと帰りたいトコだけどな」
「なんで? せっかく終わったんやし、ここはぱーっと打ち上げするべき違うん?」
「えー」
「そうか? 残念やなぁ。商店街に美味しいたこ焼きの店が出来たんやけど…。あー、ミッキーにも見せてやりたかったなぁ。あのアツアツのたこ焼きの上にかけられた濃厚な特製ソース、上に乗っ取る鰹節がはためき青のりの香りが食欲をそそる中、口に入れたらトロットロの食感で…」
「うん、行こう。打ち上げ最高!」
あまりの空腹に、目の前で美味しそうな話をされて耐え切れなかった。
よく考えたら昼を食ってなかったしな。
なんかちょっと負けた気がするが、ジョーの案内に従って分塚商店街へと寄っていく。
着いたのは「旨タコ」という名のたこ焼き専門店。
チェーンのたこ焼き店だとたこ焼きも色々あるこのご時世、この店はメニューもたこ焼きひとつっきりという潔さだ。
たこ焼きを1パック頼んだ。
「ここの店な、元々店長が関西で同じような店やっとってんけど、嫁さんがこっちの人でな。結婚を機に移住してたこ焼き屋始めてんで」
「へ~」
よくそんなこと調べたな。
たこ焼きを受け取る。ほかほかの出来立てのたこ焼きを爪楊枝で刺し、口に運んだ。
「…っはふはふ…っ」
美味い!
さすがに関西出身でたこ焼きにはうるさそうなジョーが案内するだけのことはあった。
1パックあたり400円で結構大きいたこ焼きが8個というのも、なかなかリーズナブルな値段だ。こりゃ帰りの買い食いに欠かせない店になるかも。
「この店…はふはふ、なかなかええ、はふはふ…やろ?」
「はふはふ、食べてから話そうな?」
しばし無言で店の前のベンチに座り、たこ焼きにむしゃぶりつく。
試合の緊張感から解放されたせいもあるんだろうけど、苦労した後に美味いもの食べるのはホントたまんないよなぁ。
「ごっそさん」
「ごちそうさまでした」
「まいど~」
食べ終わり、たこ焼き屋のおっちゃんに見送られながら立ち去る。
「さて…んじゃ帰るか」
大きく伸びをするジョー。
よく考えたらこいつも試合出てたんだし、ぱーっと何かしたかったんだろうなぁ。
そこでふとやるべきことに気づいた。
「あ、悪い。ちょっと買い物で寄ってくとこあるから先帰っててくれよ」
「えー? なんやったらその店で買い物しとる間、待ってるさかい、一緒に行こや」
そうしたいところだが、さすがに加能屋とか斡旋所にジョーを連れていくわけにはいかない。ちなみに用件は河童の軟膏の補充と、今後の昇級について具体的な段取りを聞くことだ。
「ごめん、ちょっとワケありでさ」
「……ホンマミッキーはいけずやでぇ」
よよよ、と冗談で泣き真似をするジョー。
そんなこんなで「また明日学校で」と言って別れた。
さて、んじゃ向かうとしますか。
歩きだしながらスマートフォンを取り出してステータスを確認してみた。
あれだけの戦いだったんだから、ちょっとは拳闘上がってるんじゃないかなと思って期待しつつ。
三木 充
称号:な し
年齢:16
身長:170センチ
体重:63.7キロ
状態:良好
種別:???
属性:???/???/???/???
斡旋所ランク:10級
評価ポイント(貢献ポイント):100(100)/100
筋力:11
敏捷:9
巧緻:9
技術:8
極め:10
知力:7
生命:13
精神:10
運勢:0
所持金(P)/借金(P):390/2700
総合Lv:11
所有職:
逸脱した者 LV.1
武芸者 Lv.11
潜伏者 LV.9
拳闘士 LV.10
技能:
杖 11.57
刀 2.04
見切り 10.31
投擲 3.22
拳闘 10.98
初歩隠密 9.78
感知 1.01
武器:乳切棒(白樫) 種別:棒(杖) 使用条件:腕力7、技巧8、杖8
小太刀 種別:刀 使用条件:腕力9、技巧10、刀5
防具:百眼の小手 種別:手防具 使用条件:な し
:紫印の手甲 種別:手防具 使用条件:腕力4
:隠衣(弱) 種別:背装備 使用条件:な し
その他:抗魔の朱毛(5) 尻子玉(1)
おぉぉぉ……。
なんか予想以上にすっげぇ上がってた!
このままだと杖術抜いて一気に拳闘がトップに立ってしまいそうなくらいだ。そう考えると対抗戦のために助っ人したことは無駄じゃないよな。
あと朝はなかった拳闘士があるのがちょっと不思議だ。今朝の時点で拳闘レベルはそこそこあったはずなんだけど。
何か獲得するのに必要な条件があってそれを満たした、とかかな? 違っている点といえば拳闘のレベルが2桁になったことと、試合に出たことくらいなんだけども。
それだけじゃなく見切りが上がっているのもありがたい。何を使って戦おうと見切りは伸びることから推測して、どんな戦いでも使う技能だろうから。
気を良くしたオレはそのまま加能屋に向かった。
そこで河童の軟膏を5個ほど買い込んだ。前回の依頼の足りない分を買ったりと最近河童の軟膏ばっかり買いまくってたんで、「うちは薬屋じゃない」とか何とか弥生さんにブツブツ言われたけども、やっぱりこれがないと安心できないからしょうがないよね!
るんるん気分で加能屋を後にした。
そして5分ほど歩いてふと気づいた。
いつからだ?
夕方の商店街だというのに人影がない。
いくら商店街の中心から外れているといっても明らかにおかしい。
まるで狩場のような……。
グルルル……ッ。
背後のほうから聞こえてきたのは何かの唸り声。
振り返りたくない。
振り返ってはいけない。
何かが警報を全開にして訴えかけていた。
ブチ……、
続いたのは何かが千切れる音。
ブチブチ…ィ…ッ、
嫌な音がさらに続く。
ばきん…っ、ごりゅ…ッ
我慢できなくなって振り向いた。
否、振り向いてしまった。
そこにいたのは昼間戦った石塚をも遥かに凌ぐ怪物。
肘から先しかない細い人の腕を、ゆっくりと咀嚼し嗤う鬼。
ぶちぶちと腕の腱を噛み切りながら、時折骨を砕きつつゆっくりと嚥下していく。その不快な音はオレが振り向いてからも止むことはなかった。
「………馬鹿な」
全身が硬直する。
ガタガタと歯が震えた。
有り得るはずがない。
ここは狩場ではないのだから。
魔物が出現するような場所ではないはずだ。
だが現実にそれは其処にいて、狩場のように周囲から人払いがされている事実。
ならば目の前に立ちふさがる鬼は一体何なのか。
スマートフォンで検索するまでもない。
なぜならオレはそれを知っていたから。
はちきれんばかりの屈強な4本の腕。
いびつに伸びた角。
人肉を食い千切る乱杭歯の如き牙。
そして何より、その邪悪な笑みを忘れようはずもない。
―――羅腕童子
もうひとつの仇。
鬼は絶望の貌で嗤った。




