69.偽鬼の暴
石塚の豪腕が唸りをあげて襲いかかる。
それを彼が寸でのところで回避する。
それだけの行為がまるでリピート再生のようにリング上で繰り返されていた。
ただ時折充から放たれる踏み込みの浅いジャブで、それが単なる繰り返しでないことは明らかだ。
出雲が時計を確認すると、すでに時間は1分を超えていた。
相手の攻撃を避けることに集中している充は徐々に息が上がってきているにも関わらず、あれだけの空振りを繰り返しているにも関わらず石塚は一向に疲労した様子がない。
確かに相手はライト級で優勝したくらいの男ではあるからスタミナはあるのだろう。
だが同じ階級の選手のガードごしにダメージを与えるほどの強打を、しかもあれだけ連打して息ひとつ切らさないのは明らかにおかしい。
主審も違和感に気づいているだろう。
これはその長い審判活動の経験に照らしても明らかにおかしいのだから。
だがどうすることもできない。
計量時点からの途轍もない増量。それを見た相手陣営からの抗議を受けて、リングドクターにより急きょ薬物含め様々なチェックがすでに行われた後だからだ。
結果は問題なし、と出ている以上それ以上何を追及すればいいのか。
ライトウェルター級の選手対ヘビー級の選手。
しかもライトウェルター級の速度を持ったヘビー級だ。
石塚がライト級だったことを考えれば若干スピードが落ちていると言えなくもないが、ヘビー級という体重を考えれば、あり得ない速度である。
勝ち目がない、などというレベルではない。
これがもしスピードで勝っているとかであれば、アマチュアルールを活かし小刻みに突いてポイントアウトを狙うこともできたかもしれないが、スピードが同じであれば、あとは技術とリーチ、そしてパンチ力がモノを言う。
そして今見ている限りでは、その全てにおいて石塚が勝っていた。
その事実を踏まえれば、今充がなんとかやりあえているのは堂目に値する。
ぎゅっ…。
隣にいた綾に袖を強く掴まれた。
真剣に試合を見ているが、やはり不安なのだろう。あの様子を見ればそれは仕方ない。
勝てるかどうかは出雲にすらわからない。
それだけ劣っている充が、劣勢とはいえ今なんとか渡りあえているのは一重に、2つの力のおかげでしかない。
まず狩場で本物の命のやり取りをしてきたことからくる覚悟。例えば普段柔道をやっている者が目への攻撃や金的をアリにした柔道をやれと言われたら、予期せぬ攻撃を警戒して精神的にかなり消耗するだろう。いわばその逆。例えば黒羽の鴉は平気で目玉を狙って攻撃してきたり、蜘蛛火に攻撃されるのは少し弱い火炎瓶を投げられるようなものだ。そんな中で戦ってきた充だからこそ、ルールのあるボクシングでは普段の覚悟の分だけ精神的に余裕がもてる。
そしてもうひとつは同じく様々な攻撃を見てきたことにより発展してきた見切りの力。鴉のような鳥から蜘蛛火のような不定形、はたまた槍毛長のような異形まで様々な相手と戦い磨いてきた見切る力は、人間のように体格からリーチがわかりやすい相手であれば十二分に効果を発揮する。
逆に言えば彼が自らの手で掴んできたそれを以てしても、劣勢。
それも当然。
目の前の相手はボクシング史上見たことがない怪物。
そしてその怪物を作る方法について、出雲はいくつか心当たりがあった。そして最も確率が高いであろうそのうち1つを口にする。
「偽鬼の法、か…」
それは人工的に鬼を作る方法。
かつて討伐された百足童子の角を削り出して作った“鬼百足の黒手”を遣って編み出された外法。鬼の圧倒的な身体能力、再生能力を擬似的に再現した兵を作るための術。
そうであればあの体格も納得ができる。
脳に干渉し一時的に身体機能を高める。
いや、高めるどころではないかもしれない。今石塚の心臓はおそらく100メートル走を走っているくらい鼓動をしているだろう。膨大な血流を生み出しそれを用いて、これまた高められた筋肉や内臓が通常を超えたパフォーマンスを発揮する。
それならば、計量後に取り入れたエネルギーをごく短期間で消化し、身体を作り変えることも可能だろう。
無論代償も大きい。
24時間休むことなく内臓含めて全力疾走しているような状態だ。感覚を遮断することで苦痛や疲労を感じることはないだろうが、体は確実に蝕まれる。
ニトロを遣ったエンジンが焼き切れて使いものにならないように、遠からず体が壊れて死んでしまうだろう。心臓が破裂するまで一カ月もかかるまい。ゆえに非人道的で短期しか効果がないとして廃れた術のはずだった。
だがその非人道的な術を敢えて使うことが出来る人物を知っている。
「…そうか。3年前のイベント戦で百足童子を仕留めて戦利品を得たのは奴だったな」
記憶を探り当てて、推測を確信に変える。
「伊達……どこまで腐っている」
カンッ!!
同行者に聞こえないほどの小さな呟きは1ラウンド終了のゴングにかき消された。
□ ■ □
「はぁ…ッ…、はぁッ…はぁ…ッ」
1ラウンドが終わりコーナーに帰ったオレは出された椅子に座ったまま、荒い呼吸を整えていた。たったの2分だというのに、滝のような汗が流れているのがわかる。
折れた鼻の中は出血で息がしづらくなっており、セコンドはそれに気づいて綿棒を使って鼻を血を取り除いてくれている。多分口の中も切ってしまったのだろう、一度吐き出したマウスピースも血に染まっていた。
「随分とやられたな、充」
リングサイドから俊彦先輩が声をかけてくる。
返事をしようとすると、
「ああ、喋らなくていい。呼吸を整えながら聞くんだ」
「…………ふ…ッ…ッ…フぅ…っ…」
お言葉に甘えてゆっくりと確実に呼吸を整えていく。
「どんな手を使ったかわからないが、相手は予想以上の化け物だ。
ただスピードは互角であるのなら、相手から距離を取ってこちらから絶対に仕掛けなければ、負けてもダメージは最小限で済ませられるだろう。今回の試合は無理を言って充に頼んでいる立場だから、もし棄権したい、というのであればそれでもいい。
その上で聞くぞ」
彼は真剣な眼差しで、覚悟を問うた。
「まだ、勝つつもりはあるか?」
逃げに徹すれば負けたとしても致命的なほどのダメージを受けないかもしれない、それどころか棄権すれば痛い思いをしなくてもいい。
正直その提案は魅力的であった。
誰だって痛い思いをしたくなんかない。回避する方法があるのならそれを選びたい。
だが、それでも―――まだ心を折るには早すぎる。
だからしっかりと頷いた。
「よし。時間がないから一度しか言わないぞ。
1ラウンド目を見た限りではアレは石塚に間違いない。重量が増えているにも関わらずスピードや技術は衰えていない。だが本人に間違いないのであれば、事前に練っていた対応策は使えるはずだ。
左ジャブの差し合いをまともにしては分が悪い。基本的にジャブは要所での牽制に使うつもりで多用はするな。その分、体を振って左を外すことだけに集中しろ。充から見て相手の右側に常に位置取りをするつもりでいろ。そこで痺れを切らして打ってくる相手の右を……」
カンッ!!!
俊彦先輩の話が終わる前にゴングが鳴る。
だが大体の作戦はわかった。当面の目標は相手の左ジャブを避けて右ストレートを振らせることなのも理解した。問題がひとつあるとすれば石塚のあのフットワークに対抗して、上手いことこっちが右を誘う位置取りが出来るかどうかだけ。
立ち上がりリングの中央へと進む。
「ぐぅルぁぁアッァァぁッ!!!」
なんかもう獣のような声をあげて迫ってくる石塚。
さぁここからが楽しい回避戦の始まりだ。
いや、まぁ実際は楽しくないんだけど、楽しいと思い込む。
気分はさながら闘牛士だろうか。
俊彦先輩のアドバイス通り軽く体を左右に揺らしながらタイミングを測る。
ボッ!!!
横を石塚のパンチが通り過ぎていく。
それを見送りながらも動きは止めない。
ボッ!!! ボボッ!!
同じ位置にいては狙い撃ちされるだけだ。
一発ならともかく体勢が崩れた状態で何発も避けられるほど石塚のジャブは甘くない。だからそもそも狙いを定まらせないよう同じ場所に居着かない。自らのバランスを保ちつつ足を使う。
ジャブを打とうとしている瞬間に位置をズラしてかわし、打ち終わったらまた位置を変える。常に動いていればジャブを避ける難易度はかなり下がる。
キュッ!! キュキュッ! キュ!
だが敵もさる者。
同じように少しでも当てやすい位置を求めて占位を変える。
打ちやすい位置を求めるものと、打ちにくい位置を求めるもの。
二つのフットワークがリング上で入り乱れていった。
追いかける側と追われる側の速度はほぼ同じ。
ならば理論上それを維持している限り捕まることはない。だがそれは所詮机上の空論でもある。リングは四角で構成された閉鎖空間なのだから、逃げる経路を間違えたり一瞬でも気を抜いてフットワークを緩めれば捕まってしまう。
案の定、しばらく避けているうちにコーナーに詰まりそうになった。
ブンッ!!
危うくそのまま捕まりそうになってジャブを放つ。
石塚が一瞬反応したその隙に脇をすり抜けて離脱。
ふぅ、危ない危ない。
だがこの手が使えるのは数えるほど。
追い詰められるとジャブを出す、と思われたら狙い撃ちすることは容易いゆえに可能な限り温存しておかなければならない。
ボッ!! ボ、ボ、ボッ!!
「………ッ…!」
そして再び再開される弾幕ゲーム。
一撃でも食らったら大ダメージ必至の攻撃が頬や鼻先を通過していく。
ヒリつくような緊張感。
恐怖に染まりそうな心をしっかりと固めて足を動かす。
だがそれを楽しんでいる自分もいた。
ビュッ!!
ジャブを避けながら常に相手の左側、向かいのこちらから見て右側に円を描くように体を移動させる。相手の右拳から一番遠い位置に身を置きながら次の展開を待つ。
だが相手もステップを刻んでさらに左ジャブを重ねてくる。
右ストレートを誘おうにもなかなかノってこない。
だが気にせず同じ行動を愚直に繰り返す。
これは所謂根比べだ。
シビレを切らして動いてしまったほうが負ける。
さらに何度繰り返しただろうか。
これまでと同じようにジャブを避けて回り込むように、相手の左手の外側にステップを刻むと、石塚はそれまでと違う動きを見せた。
右肩が一瞬ぴくりと動く。
……ストレートの前兆かッ!
右ストレートにカウンターを合わせるべく体勢を整える。カウンターであれば、相手の破壊力を利用して大きなダメージを与えることが出来る。右対右であれば尚更だ。
強烈な一撃で切って落とす。
不利な長期戦に持ち込まず、そこで倒して終わりにする。それが正解だと判断したのだ。
その判断が間違いだと気づかずに。
「充! そうじゃないッ!!」
俊彦先輩の警告が飛ぶ。
同時にカウンターのモーションに入ろうとしたオレの顔面を横あいから衝撃が襲う。
ゴッン!!!
「……ッッ!!?」
視界が強烈に揺らいだ。
まるで頭の中に熱湯を注がれたかのように、衝撃が来た方からじわりと痺れが襲う。すこし遅れて鈍痛がやってくる。
「ぐ…っ」
かろうじて視線を向けると、そこには石塚の左拳。放ったジャブを戻し切らずに叩くような、横あいからの軌道のジャブへ変化させて当てられたらしい。
さすが石塚、選抜の優勝者だけのことはある。
やっぱり上手いな……、俊彦先輩の言うとおり、ボクシングの技術以外にも勝負にならないくらい経験の差がある。
ちょっと霞んだ意識をなんとか立て直しながらそんなことを思う。
たった一撃。
それだけで気絶寸前のダメージ。
やっぱり何度考えても理不尽だ。
結果としてそのダメージがオレの判断を遅らせることになった。
「……ッ!!? 不味ッ…!」
右ストレートをフェイントに左ジャブを出した。
それが見事にヒットして相手が動きを止めたとしたら石塚はどうするだろうか?
決まっている。
今度こそ叩き込むのだ、最強の一撃を。
気づいて顔を上げた瞬間、石塚が右ストレートを放った!!
避けられるような余裕はない。それでもなんとか身をよじろうとするが間に合わない!
ズガンッッッ!!!!
世界が暗転する。
妙な浮遊感と衝撃。
闇に沈む意識の中で、ただ恐怖する。
嘘だろ……。
どこかでなんとかなると思っていた。
どんな化け物であろうと槍毛長のボスと同じように、最後は結果オーライで上手くいくものだとタカを括っていた。
だがこれが現実。
意識が消える最後の一瞬まで敗北の恐怖に怯え…、
オレは倒れる。
そしてそのまま意識を失った。
2013/3/18 誤字修正




