67.理詰めのエース
ごぎゃっ!!!
速射砲のような左の拳が頭を揺らす。
殴られた男は一瞬たたらを踏むがそのまま踏みとどまる。
ばンッ!!
その一瞬にさらに左の拳がねじ込まれる。男は咄嗟に手を遣って弾こうとするものの、まるで生き物のように軌道を変えて何度も頭を揺らす。相手の回避行動に合わせて微妙に角度や速度、さらには前兆などまで異なるジャブが乱れ飛ぶ。
手を動かしていれば一部いなすことには成功するものの、半分以上は防御と回避を超えてヒットする。
ぱぱんっ!!!
ひときわスナッピーなジャブを下から突き上げられ、頭が浮く。
…ぞくりッ。
(……拙ぃ…ッ!!)
背筋を這い上がってくる感覚に逆らわず転げるように横に逃げる男。
ぶ、ぉんっ!!
顔があった位置を一瞬遅れて相手の右拳が通過していく。十分な威力が窺えるその一撃は、もし回避していなければ直撃コースだ。
そのまま間合いが開いた。
男たちは互いの様子を探り合いつつ仕切り直す。
「さすがに番格だけはあるなァ…やるやないか。こない上手い奴見たことあらへんわ」
目の前の男は間違いなく強敵。
奇しくも互いに対する評価は一致していた。
「そういうお前も、な」
楽しい。
ヒリヒリするような緊張感。
その悦びの気持ちが隠せないのか両者は笑みを深くする。
「まぁ言うても、そない余裕こいてられるんは今のうちやで」
関西弁の男はゆっくりと腰を落とす。
ぐ、と拳を握る。まるで力をそこに集めていますとでも言うように。
その顔はすでに痣と血に塗れていた。
とはいえ攻撃を受けているのはほとんど軽いジャブのため、見た目ほどダメージはない。ただ軽いとはいえスナップの効いた弾くようなジャブを受け続けていれば腫れてしまうのは道理。
血も鼻と切ってしまった口からだから、こちらも深刻なものではない。
ただこれまでの攻防を経て彼は気づいていた。
細かい技術的なものは相手の方が上だということに。だとすれば正攻法でまともにこれを攻略するのはかなり難しい、と。善戦はできるかもしれないが敗北では意味がない。
「こっからは俺の流儀でやらしてもらうで。どんだけ殴られても一向に構へん。
そやけどな、最後に立っとるんは俺や」
対する男も確信していた。
このままの戦いを続けていれば勝利は彼のものだということに。
だからこそ目の前の相手が何かを仕掛けようとしているということもわかっている。構えを見れば単純明快、手数勝負では勝ち目がないと判断し防御を捨てての相打ち覚悟でゆく姿勢。
おそらくは膂力に自信があるのだろう。
2発入れられても1発入れば帳尻が合うと思えなければ取れぬ戦法だ。
もし負けないことだけが目的ならば簡単。
距離を取って間合いの外から軽い一撃を放り込むだけでいい。倒せる確率は低いが、こちらも倒されないならば負けはない。
だがこれは彼がいつもやっているボクシングではない。
審判もいなければ判定もない。
ただ互いの矜持だけが勝敗を決める。
ならば―――負けない、ではなく、勝つために。
「受けて立とうか」
タン!!
足を打ちならしステップを刻む。
相手を倒すために懐深くまで踏み込む覚悟と共に。
彼は“構え”た。
すでに30分を超える戦い。
だがそれは、さらに長い死闘の幕開けだった。
□ ■ □
「……? どうしました?」
「いや、すこし昔を思い出しただけだ」
劇的なジョーの勝利の余韻に会場が湧く中、ふと隣の俊彦先輩が考え事をしていたので声をかけてみたところ、何か思い出していたらしい。
気を取り直して場内を見回す。
全国2位の中西が破れる。
しかも敗れた相手は無名の一年。
そのインパクトはなかなか大きく、会場は予想外の展開にざわついていた。必然的に関係者を含め周囲の人間の注目が集まるが、金星を挙げた当の本人といえば飄々としている。
「勝ち負けなんて時の運やしな。アレで調子乗ってボクシングなんか始めてもすぐにボロが出るわ」
本格的にやってみては、という話に対する返答がこれだった。
まぁ一発狙いの選手であることがバレてしまった以上、相手は対策を講じてくるだろうし今のままじゃ確かにボクシングを始めても先は見えているのかもしれない。
その一発狙いの戦闘スタイル同様、対策を講じられてしまったらダメになる一度しか使えない手。
出会い頭の事故に近いその結果で浮かれるような男ではない。
「それに、ボクシング言うんやったら、次が本番やろ」
「期待には応えようか」
にやりとジョーを俊彦先輩が視線をあわせて笑う。
次の第三試合はライト級。
春の選抜で優勝をした佐々木俊彦と、ライトウェルター級3位の小林景。
それぞれ結果を残した階級ではないものの、トップクラスの選手同士であることは間違いない。それどころか、石塚が階級をあげて今後もライトウェルターで活動するというのであれば、下手をすれば高校総体の決勝であってもおかしくない好カードだ。
むしろオレの試合じゃなくて、これをトリに持ってくるべきなんじゃね?とちょっと思ってみたり。
両雄がヘッドギアを被り10オンスグローブを填める。
そのまま選手がリングに上がった頃には会場はすでに前の試合の余韻から覚めて、次なるカードに集中していた。
コーナーを背に向かい合うその姿はどちらも様になっている。
静かにゴングを待つ二人の姿に緊張感が場内を支配した。
カンッ!
ゴングが打ち鳴らされた。
タ、タンッ!
ステップ音も同時。
リング上で向き合っていた俊彦先輩と小林は一瞬で肉薄。
シュ、パパンッ!!!
左ジャブを放ちつつ、右で相手のジャブをパーリングして弾く。
攻防兼ね備えた刹那のやり取り。
おそらくそれは挨拶を兼ねた一撃だったのだろう。相手の実力が十分であることを確かめ合い、そのまま距離を取った。
「………わぉ」
感嘆の言葉しか出ない。
今の何気ないやり取りからすでにその実力はわかる。
ただジャブを打つ、これは簡単。だが今回はお互い同時にモーションに入り同じタイミングでジャブを放った。それを二人ともブロックしたのだ。
攻撃するときは防御、防御するときは攻撃がおろそかになりがちだが、この二人には当てはまらないらしい。ジャブを放った瞬間から、それが到達するまでのコンマ1秒ほどの間で反応して弾く。勿論放たれてから避けるのは物理的に難しいから直前のモーションを察知して動き出していたにせよ、その攻防の処理速度は恐ろしく早い。
え? なんで到達速度がコンマ1秒ってわかるかって?
そりゃ前に1秒に何発くらい打てるか気になったときに、実際にやってもらったからだよ。
結果はジャブで9発。しかもこれは拳を放ってから引くまでの動作の回数なんだから、普通にジャブを放って届くまでならそれ以下。つまりコンマ1秒に満たない時間なのではないかと思ったのさ。
さて話を戻そう。
リング上を見ていると、それぞれ体を軽く小刻みに揺らし始めた。
キュッ! キュッキュキュッ!
ボクシングシューズがリングと擦れる音が響く。互いに距離をギリギリまで詰めながら、パンチを放つ前のモーションを隠すために体を動かしつつ機を探る。
目線、肩、拳、ステップ、姿勢……ありとあらゆるものの動きを使いフェイントを交えながら、合間に拳のやり取りが発生する。
パンッ! キュッキュッ!!
俊彦先輩の鋭いジャブが放たれたが、寸でのところで同じようにパーリングされた。そのまま小林は体を少し横にズラし、相手の外側から中に絞るようにパンチを打ち込んだ。
その動きはまさにザ・ボクシングとでもいうような教科書通りの洗練された戦い。体の動き、攻撃、防御、回避といった複数の選択肢を相手の行動に応じて澱みなく処理していっているように見える。
ブンッ!! タンッ!!
そのパンチを俊彦先輩は後ろにスウェーして避ける。
だがまだ互いにクリーンヒットはなし。第一試合の乱打戦、第二試合の序盤ワンサイドなやり取りとは違い、高いレベルで選手同士の動きが噛み合っている。
キュッ!! パンッ! シュッ!
その均衡がしばらく続いた。
あと10秒くらいで1ラウンドが終わる。
手に汗握る。
スパーリングに付き合ってもらっていたので、俊彦先輩の強さは身に染みていた。それとこれだけ戦える小林の強さはやはり全国レベルの選手ゆえか。
カンッ!
1ラウンドが終了した。
攻防の速度もさることながら両者はラウンド中動きを止めずに戦い抜いていた。やはり集中力とスタミナもしっかり持っているようだ。
互いに選手がコーナーに戻ってセコンドが体勢を整える。
「ここまでは結構審判泣かせの展開だなぁ…ん?」
その様子を見ていてふと気づく。
リング上は見事な拮抗した状態。
どちらが有利とも不利とも言えないくらいの、全くの互角の展開。
にも関わらず、
「小林のほうに余裕がない……?」
俊彦先輩はいつも通り集中した表情で淡々としており、比較すると小林のほうはなぜか歯がゆそうな焦っている雰囲気をすこし出している。
「あー、そりゃアレやろ。小林は昨年のトピーのスタイル見とるさかいな」
ヘッドギアを外して解放されたトンガリ頭を手で整えつつジョーが言う。
「そやさかい、最初からギア上げていって早めに勝負つけときたかったんやろけど、アテが外れたんと違うか?」
そうこうしているうちにゴングが鳴らされて2ラウンド目が始まる。
「俊彦先輩のスタイルって?」
「あー、まぁ見とったらわかると思うけど、アイツ慎重やねん。始まってしばらくは相手の戦力の分析いうんか、防御を気持ち重視した感じで探りを入れるんや。
んで、それが十分分析できたとしたら―――」
そこまで言葉を続けたところで、場内が一瞬ざわめいた。
思わずリング上を見る。
「―――そこから一気に攻撃の比率高くして仕留めるんや」
その言葉を示すかのように俊彦先輩の構えが変わった。
少し前傾。
右の拳を顔の近くへ、そして左手のガードを下げ腕をだらんと落とした構え。
その姿は飛び出す寸前くらいまで力を蓄えているようでもあり、ガードを片方落としたせいでリラックスしているようにも見える。
小林はそれを見た瞬間、見るからに警戒度を上げた。
今までよりもガチガチにガードを固めたのだ。
結果、それまでの攻防が嘘のように動きのない展開になった。
ただその中でも間合いをかけながら攻撃のタイミングを窺っているらしく、選手同士は目線や肩の動きなどでフェイントをかけて相手の反応を探っている。
「あない警戒せんでもええのに。手数くらっても一撃で引っくり返したったらええわけやし」
いや、そんなんが出来るのはお前だけだよ、ジョー。
そんな感想を抱いているうちに試合は再び動きを見せ始めた。
じりじりと前に出る俊彦先輩に対し、小林は後ろに下がり始めたのだ。
そのうちロープ際まで追い詰められる。
「…ちっ!」
舌打ちをして小林はガードを固めて姿勢を低くして前に出た。1発かそこらの被弾は覚悟の上で強引に体勢を入れ替えようというのか。
ガッ!!
突然小林の顎が上がった。
「ッ!?」
食らった当の本人が目を白黒させている。
ダメージはそこまでではないようだけど戸惑っているみたいだ。
傍から見ていれば彼が俊彦先輩のジャブを食らったのは一目瞭然。ただし俊彦先輩はあの構えから少し沈みこみながら前に出、同時に下ろしてある左拳をジャブに使っていた。
「あのフリッカージャブ、避けづらかったわぁ…向かい合っとる相手の目線のラインをなぞって入ってくるから急にパンチが目の前に来るんやで」
隣でしみじみとした意見が聞こえる。
つまり下ろした拳と、相手の目を結んだライン上を真っ直ぐ伸びてくるということか。さらに前に出ようと相手が屈み込んだ瞬間を狙うことで結果的にカウンターにもなっているし、小林からはかなり感知しづらいジャブだったろう。
バンッ!!! ガッ!! バンッ! ドバンッ!!
後は一方的だ。
何をもらったかわからない小林が前に出ようとする度に、ジャブをカウンターでねじ込んでいく。見る見るうちに小林の顔は腫れ上がっていった。
途中から小林はおそらくジャブを貰ったのだろうことに気づいて正面のガードを固めるが、結果として手薄になった外の軌道からしなるようにジャブがコメカミを打ってきたり、かと思えば下から伸び上がるようなジャブが跳ね上がったりし、ガードの隙間を抜く。
「~~ッ!!?」
防戦一方、どころの話ではない。まるでどこをどうガードするのかバレていると思うくらい、ガードの意味がない。
加えてそもそも防御は攻撃よりも難しいのだ。
同じ技量同士で片方が攻撃、片方が防御しか出来ない条件で戦えば、すぐに防御が抜かれる。力量差がなければ攻撃を全てシャットアウトなど出来るはずもない。
最早相打ちでも構わない。
その覚悟で相手の攻撃を遮るため、小林は咄嗟にストレートを放った。
まるでそれを読んでいたかのように、俊彦先輩は体をかすかに外側にズラして相手のストレートを呼び込みながら、自らもストレートを放った。
「……カウンター…ッ!!」
呟いて息を飲んだ。
右対右。
大砲対大砲。
がッづんっッ!!
嫌な衝撃音。
小林の右ストレートは俊彦先輩の右肩の上を通過、対する俊彦先輩の右ストレートは相手の顔面を直撃、そのまま小林は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
審判はその様子を見て駆け寄るが、すぐにカウントを取らずに試合を終了させた。
2勝目!とばかりに意気込み第二高校側と、悔しそうに睨みつけてくる第一高校側。
緊張を解いてリングから降りてくる俊彦先輩を出迎えた。
「いやぁ…凄かったですね!」
「思いのほか、癖の強い相手で助かった。性格も読みやすかったしな。
おかげでパンチをクリーンヒットされることがなかったから勝てたが、もしヒットしていたら元々上の階級の相手だっただけにもっと苦戦していたろう」
試合が終わってほっとはしているようだが、快勝したにも関わらず俊彦先輩は控えめだった。
「どうせアレやろ、トピーはいつもみたいにビデオで相手の癖見つけて、1ラウンド目で癖と性格分析して、2ラウンド目で詰め将棋みたいにハメて倒しただけやろ?」
え、そんなことできるの!?
そもそも1ラウンドで癖はおろか性格まで把握できるものなのか?
そりゃまぁ相手が打たれたらこう打ってくる、ってのが性格まで含めてわかれば対処しやすいのはわかるけども、それにしたってありえないだろ。
「? みんなやってるだろうに」
………いや、あなただけです、俊彦先輩。
さすが選抜優勝者は格が違った。




