66.虎穴の戦い
いよいよ始まるバンタム級の試合。
向かう合う両者の構えは対照的。
がっちりとガードを固めたジョーと、ガードを少し下げて脱力した構えの中西。
リング上対角の端同士にいた二人がそのまま距離を縮めていく。
タタンッ!!
先手を取ったのは中西。
軽いステップを刻みながら間合いを詰めて、左ジャブを放つ。
フォッ!!!
鋭い一撃。
見えない、というほどの速度ではないが素人が咄嗟に反応出来る速度ではない。傍から見ていてそれなのだから、まして目の前近距離にいるジョーにとっては尚更だろう。
ぱんっ!!
スナップを効かせた軽いジャブがガードを叩く。
元より中西も単発のジャブでガードを崩せるとは思っていないのだろう。サイドに動いて角度を変えつつさらにジャブで畳み掛ける。
ぱんっ! ぱぱんっっ!
革製グローブがぶつかって弾ける音。
そしてすぐにその場から引いていく。ジョーがガードから攻撃に移る前に、すでに射程の外に移動してしまっていた。
「…早っ」
「このへんはさすがに軽量級だな。文字通り目も眩む速度、というやつだ。元々の体重が重いジョーではあの出入りについていくのは厳しい」
隣で淡々と俊彦先輩が解説する。
基本的にボクシングでは階級が重いほうがパンチ力と耐久力があり、軽いほうが速度に優れる。ラウンド数が多く、1ラウンドあたりの時間も長いプロならば最終的に重いほうが一打逆転、ということもありうるが、ダメージよりも有効打の手数数が重視されるアマチュアでは難しい。
ぱんっ!! ぱぱん、ぱんっ!!
緩急をつけ間断なくジャブが乱れ放たれる。
右、左、下、上…。
フットワークを使い立ち位置を変えながらのジャブがガードを叩く。そのうちガードの隙間から叩き込まれた数発を被弾しているのがわかる。
「……ッ」
ジョーが歯を食いしばる。
いくら軽量級とはいえ鍛えている選手のパンチだ。まともにもらってノーダメージというわけにはいかない。なんとか攻撃の合間を探りながらフックを出す。
ブンッ!! ブンッ!!
だがスピードに勝る中西はその距離からすでに離脱。
虚しく拳が空を切る。無茶な減量のためか動きは重く、単発でしか攻撃が出ない。その1発1発の間に出来る隙に中西はさらにパンチを入れる。
その繰り返しだ。
「ボクシングの試合では中西のほうが圧倒的に上手い。ジョーのほうもパンチ力はあるが如何せん減量苦で精細を欠いている。試合巧者ならばそのへんを上手く誤魔化してどうにかするだけの方法があるかもしれないが、そこまでの試合経験もない。ならば出来ることはひとつしかないな」
時折打ち返しているので、それほど一方的には見えないが圧倒的に不利な状況だ。
ちなみにアマチュアの勝ち方はいくつかある。
ポイント勝ち、棄権勝ち、失格、KO、そしてRSCだ。
ポイント勝ちは第一試合のようにジャッジが有効打をカウントし、その合計数でポイントをつける。
さっきはどのジャッジも第一高校の勝ちにつけていたが、通常ジャッジのポイントは若干バラけることが多いので、3名のジャッジによる得点勝ちの多数決で決まる方式だ(要は、3人のうち2人のジャッジが勝ちと認めた方が勝者となる)。
棄権勝ちは文字通り相手の棄権による勝利。選手やセコンドから危険の申し出があった場合のことで、俗に言うタオルを投げる、というのがこれに当たる。
失格も読んで字の如し。
ファウルをして失格になった場合、相手が勝ちとなることだ。例えばひじ打ちするとかタックルするとか、通常のファウルであれば2度くらいまでは注意や警告で済むが、3度目は失格となる(悪質な場合は
いきなり失格のこともあるらしい)。余談だが当日の計量に失敗した場合もこれに当たったりする。
ダウンの後にテンカウントまでで立ち上がれない場合及び危険と判断された場合はKO。ボクシング漫画とかで逆転の末倒すとかはこれだな。
そして最後がRSCである。
これはある一定の条件下においてレフェリーが試合を止めて試合を終了させ勝者を確定させること。
その条件というのが主に、対戦選手同士に力量差があってワンサイドに滅多打ちされてるようなとき、カットで流血などの負傷が発生したとき、そしてカウント・リミットと呼ばれる1ラウンド中のダウン回数が上限に達したときだ。
今回のジョーのように一方的に有効打を重ねられている状態だと、このRSCのワンサイドに該当する。
要するに、この一方的なジャブ祭りをなんとかしなければ遅かれ早かれ試合を止められてしまう。
つまり俊彦先輩が言っているのはその状況を変える一手。
「喩えるなら…この状況は虎穴に居るに等しい」
虎児を得るためには危険を承知で踏み込まなければならない。
つまり被弾覚悟で攻撃しろ!的な意味だな、これは。
残り時間を確認すると、1ラウンドはもう残り30秒ほど。なんとかラウンド終了まで保ったとしてもポイントで大差をつけられることは避けられまい。
ぱんっ!!
再び弾ける音。
がつっ!!
どうやらしばらくジャブで攻撃していく中で中西は距離感を掴んだらしい。
攻撃の要所要所に右ストレートを放り込み始めた。
右の大砲が当たり始めると、ますます防戦一方に追い込まれていくがそんな中でもジョーはガードだけは外さない。
ぱんっ!! がづっ!!
ぶぅん!
パパパンッ!!
ジャブ、ストレート、スウェー、ジャブ…。
中西はさらに加速していく。自分の攻撃は避けられ相手の攻撃だけを受けているジョーがみるみるうちに消耗し、フックも鈍くなっていった。
全国レベルの選手の名に恥じない洗練された動きがリング上を舞う。
「……ッ」
思わず拳を握る。
ぎらり、と。
ガードの隙間から見えるジョーの目が強い光を宿しているように感じた。
狙っている。
起死回生の一撃を。
相手が打ってくる呼吸を読み攻撃を叩き込むチャンスを。
ガードを固めながら多少の被弾はするがままに任せ、相手の挙動を読むことに神経を集中させている。
「成功しますかね? カウンター」
「カウンター? うぅん……中々難しいだろうな。何せジョーは技巧派じゃないから」
だがその無理を押し通してしまわなければ勝ちはない。
もしここでジョーが負けてしまえば対抗戦そのものも敗色濃厚だ。
頑張れ、ジョー。
そしてそのタイミングが訪れた。
ボッ。
中西の左のジャブ。
それに行動を合わせるかのようにジョーが動き出す。
メキィッ!!
そんな音が聞こえたかと錯覚するくらい力を込めた右の拳を突き出す。
「おぉぉぉぉぉッ!!!」
クロスカウンターを狙っているのか拳を一度右に振って、そのまま外側から中西のほうへ向ける。
一瞬の交差。
ッガンッ!!!
殴られ頭が大きく揺らぐ。
それは中西の頭…ではなく、ジョーの頭だった。
ジャブを読んでのカウンター。狙いは悪くなかったが今回は相手のほうが上手だった。何かを狙っているのを察知した中西がジャブを途中で止め、ジョーが繰り出そうとしている右に対してカウンターを合わせた。
ジョーが右を外側に振った一瞬に自らの右ストレートをまっすぐねじ込んだのだ。結果としてジョーの右拳が行動に入る一瞬前にカウンターをもらった形になっている。
右対右のカウンター。
その響きに背筋をぞくりと震わせる。
互いが持つ最大の武器同士がぶつかりあったダメージたるやどれほどのものなのか。
おそらく手応えがあった中西もそのことはわかっているのだろう。右ストレートを放ったままの体勢で確信の表情を浮かべた。
そして同じくにやりと笑うジョー。
「ようやっと止まったなぁ、ボケが!」
ぐぉんっ!!!
一瞬動きを止めた敵のボディ目掛け、先ほど動き出しかけていた右腕がそのままフックの起動を描いて襲いかかる。
「……ッ!!」
血相を変えた中西が慌てて下がろうとするが動き出しが鈍い。ジョーが一歩追いかけていることもあり避けきれない。そう判断してさらにガードを固めようとした。
ギュラッ!!
前足を捻り体ごと叩きつけるようなジョーのフックが迫る。
ドゴンッ!!!
重い衝撃。
だがなんとか中西はガードを固めることに成功する。
くそ、間に合わなかったか…、せっかくジョーが一撃入れて逆転するチャンスだったのに…。
そしてそのまま崩れ落ちた。
「…………え?」
見ると中西がガードに使った左腕を押さえて苦悶の表情を浮かべている。
その相手とすれ違いざまにジョーは呟く。
「はン、やっぱり闇討ちするようなアホの拳は軽ぅて効かへんなぁ。お前なんぞに鈴木先輩の積み上げた重い拳は勿体ないわ。俺程度の相手がお似合いや」
その本来観客席に聞こえるはずもない、事実審判は聞こえていない様子の小声が、なぜかはっきりと聞こえた。
そのままジョーはニュートラルコーナーへ行き待機。
「よし」
隣を見ると俊彦先輩が小さくガッツポーズ。
リング上では審判が中西に駆け寄り腕の様子をチェックしている。
そしてすぐに大きく手を交差する。
第二試合バンタム級の対戦は、中西弘樹の負傷により丸塚丈一がRSCで勝利した。
リングを降りてきたジョーに駆け寄りタオルを投げた。
「お疲れ」
「おぅ、ありがとな」
タオルを受け取ったジョーはいつも通りの軽いへらへらとした笑みを浮かべていた。
「さっきのアレ、カウンター狙いじゃなかったんだな」
「ん? あー、そやなぁ。まぁちょっと急な減量してもうたし全然体も動かへんやん?
せやからなんかかろうじて動ける1ラウンドでどうにかせんと、勝てへんかったからな。動き止まったら殴ったろ思て」
「…???」
「充、つまりジョーの言いたいことはこうだ。体力のある1ラウンドでケリを付けるつもりで、まずカウンター狙いをしようとした。だが相手が動いて攻撃してくるところに一撃で倒せるようなカウンター攻撃を入れるのはそれなりの技術が必要になる。
それが無いジョーは、そこから一手進め敢えて見え見えのカウンター狙いで誘って、相手の渾身のカウンターをわざと喰らう。
そのまま打ち終わりの硬直を狙って一撃入れる作戦を取った、というわけだな」
「お! それやそれ! なんかそんな感じな気がしてきた!」
「………まぁ本人はそこまで深く考えてなかっただろうがな。どうせいつもの勘頼りだろう。お前ときたらいつもその類稀なパンチ力だけで物事をどうにかしようとしすぎる。
もうちょっと技術も使えばいいものを」
「えー? だって面倒やんか、練習」
うーん、俊彦先輩はよくそこまで見てるなぁ。
今冷静に考えるとボクシング初心者のオレにわかったぐらいなんだから、ジョーのカウンター狙いは中西にはバレバレだったと言われれば反論できない。
「さらに補足すると前半距離の短いフックばかり打っていたのは、中西の出入りを小さくするため、最後の一撃のための距離感の修正のためだろう」
そういうことか。
自分が攻撃をするためには最小限の動きで避ける必要がある。
距離の短いフックばかり打っていれば相手もその距離にあわせた回避ばかりすることになる。1発2発ならともかく、1ラウンド中ずっととなれば多少相手の意識をより攻撃に向けることが出来ただろう。
「いや、そないなことは別に……単に昔よぅ使っとった骨折れてまえパンチを久しぶりに使お思たら急に不安になったから、鈍ってへんか確認したかったちゅうか?」
前言撤回。
そんなことはなかったぜ!
ちなみにどうやら中西は左腕の骨を折ったらしい。
動きが重くなる代わりにジョーは体重を大幅に戻していた。元々階級がはるか上のパンチ力に自信がある選手の渾身の一撃を食らったのだ。あたりどころが悪ければそういうこともあるのか。
「アイツ、生意気にもガードが間に合いそうやったから、ちょっと角度変えて腕の肉の薄いトコ狙ってみたんやけどな。鈴木先輩の借りはしっかり返したったで!」
………確信犯だった。
まぁ仲間のために怒りを覚えて立ち向かった、というあたりジョーらしいと思う。
結果を踏まえて試合前に俊彦先輩が言ったことを思い出す。
もし俊彦先輩が戦う場合、中西はボクシングが上手いから普通にスポーツチックにやって10回に1回かそこらは負けるかもしれないけど、ジョーだと一発が怖いだけだからそれをわかっていれば負けない、そういう意味だったに違いない。
逆に中西はジョーのパンチ力を知らないから一発があることへの警戒心が薄く十二分に一発が有り得る。しかもジョーとの間に階級差があり破壊力の差はさらに開く。この状況であれば尚更ね、と言っていたのはそのことだろう。
あれ?
でもそうすると…、
「俊彦先輩」
「?」
「もしかしてさっきの虎穴に…って話は」
「ああ、なるほど。すまない。あれは中西の立場の話だ。勝利という虎児を得るためには、いつ虎が襲ってくるかわからない虎穴を、油断せずに進まなければいけないだろう?」
つまり、虎はジョーのほうか……。
あわれ中西は虎穴で油断したばっかりに虎に食べられてしまいましたとさ、まる。




