65.予想外の対戦
水を飲みながら軽くストレッチをする。
結局のところパンチ力というのは筋肉の弛緩状態から緊張状態までのインパクトの差。つまるところゴムのように可能な限りリラックスさせておくことが力を込めて伸ばしたときの反動に繋がる。
それを踏まえた上でゆっくりと腕から足に至るまで念入りに伸ばしていく。
そうこうしていると、控え室の扉が開き俊彦先輩とジョーたちが戻ってきた。元々疲れた様子のジョーとは別に、俊彦先輩も何か様子がおかしい。
「…どうかしましたか?」
「やられたよ。これを見てくれ」
一枚の紙を見せられる。
どうやら今回の対抗戦の組み合わせが発表されたらしい。
どれどれ、チェックしてみるとしよう。
『第一試合 フライ級 内田 和樹 対 田中 隆之
第二試合 バンタム級 中西 弘樹 対 丸塚 丈一
第三試合 ライト級 小林 景 対 佐々木 俊彦
第四試合 ライトウェルター級 大石 崇 対 岡田 三郎
第五試合 ライトウェルター級 石塚 毅 対 三木 充』
…………。
うん、なんというのか予想はしてたよ。
ジョーと俊彦先輩、そしてオレか岡田先輩でなんとか3勝を、っていうのが目標だったんだが、俊彦先輩はともかく、無理な減量をしたジョーが全国区の選手と…というのはかなりキツい。
「……なんといいますか、予想と違ったオーダーになってますね」
「ああ。まさか石塚と中西が階級を上げて、その分小林が階級を下げるとは思わなかった」
確かにボクサーが慣れ親しんだ階級をおいそれと変えるというのは予想しづらかっただろう。今回減量をしてみてわかったが、ボクサーは自分の階級に対して真摯に向き合っている。
体の動きやキレ、拳の威力やバランスなど、様々なことを考慮してギリギリのところで試合に臨む。
例えば階級が上の者が減量して下の階級にいけばパワーでは勝ることはできる。だが無理な減量で体力が落ちてしまえば試合の最中でスタミナ切れを起こしてしまうし、あまり下の階級に行ってしまえば軽量ゆえのスピードについていくことも難しい。
そういった階級の上下の特性を勘案し自分がベストパフォーマンスを発揮できる階級を決め、ただ一度の試合のために鍛錬を積み重ねる。
そんなボクサーにとって階級を変えるのは大きな変更だ。勿論俊彦先輩のように体格的な成長が理由でやむを得ず階級をあげたり、ということはある。だがそういった場合でもしっかりとした準備期間を経て行うものだ。それまで試合で試しもせずに、いきなり重要な大会から上げるというのはリスクを伴う。
「……まぁオレが最後の試合、それも一番ヤバいのとやりあうのは、なんとなくそんな予感してたんでいいんですけどね」
取り仕切っているのが生徒会の時点で、ある程度向こうのいいようにされるのは仕方ない。石塚が階級をあげてきたとして、ライトウェルターが複数いるにも関わらずあっさりとオレが対戦相手にされているのは、おそらく伊達の手回しなんだろう。
「ま、決まってしもたもんはしゃーない。なるようにしかならへんて」
もぐもぐと粥をかき込みながらジョーが答える。
無事に軽量を終えられ、これまでの空腹を満たすかのように一気に食べまくっている。
いくら消化のいいお粥だからといって、試合前にあんなに一気に食べて大丈夫なんだろうか?
「…確かに。まるでこちらの布陣を確認して裏をかくようにオーダーされているが、こちらも直前で鈴木先輩に代わってジョーを出している以上、向こうがいつもと違う選出をしていても何も言えないしな」
……。
もしかして直前の襲撃はそのために……なんてことを思いつくが、なにせ証拠が何もない。考えても仕方ないな。
ふぉんっ!!
不安をかき消すように拳を振るった。
調整をすることしばし。
いよいよ試合が始まり、オレたちは試合会場へと移動する。
それぞれがタオルや飲み物のボトル以外にヘッドギアやらグローブやら持っているため、意外と結構な荷物である。
体育館の中心にリングが設置され、周囲にパイプ椅子で観客席が用意されていた。それぞれの観客席にはそれぞれの学校を応援する人たちがまばらに座っている。
真ん中のリング脇には採点をするジャッジとタイムキーパー、そして少し離れた場所にスコアボード。こうやって改めて見ると本当に試合をしにきたんだなぁ、と感慨深い。
リング上で二人の選手が向き合う。
間に挟まれている主審が注意事項などを説明。
カンッ。
ゴングの音と共に試合が始まる。
第一試合はフライ級の試合。第一高校側が内田和樹、対するうちの第二高校側が田中隆之。
オレは相手の内田選手のことをよく知らないからなんとも言えないんだが、俊彦先輩の分析によると4:6で相手が優勢らしい。
「…………」
と、ふと気づいて観客席の隅へと近づく。
そこにいる奴のほうへと。
「これはこれは…本日のメインイベンターの三木君じゃあないか。
試合の前にこんなところで油を売る余裕があるとは、さすがだね」
悠然と憎まれ口を叩くその男。
第二高等学校、副生徒会長。
今日はひとりではなく脇に随分と体格のいい奴が控えている。サングラスをかけ目出し帽を深く被ったこれまた体格のいい男だ。油断なくこちらの一挙手一投足を窺っている。
伊達の部下なのかそれとも護衛者なのかはわからないが、明らかにオレよりも格上な相手。
一瞬気圧されそうになるもののなんとか堪え、
「ありきたりな皮肉をどうも。それよりも副生徒会長はお約束のほう、忘れてはいませんよね?
オレの言うことをひとつ聞いてもらう、っていうやつですよ」
ぴしり。
雰囲気が変わったような気がした。
「そういえばそんなものもあったな。
勝敗がどうなるかはわからないが、言うだけ言ってみるといい。何が望みだい?」
静かな口調。
だがその目は笑っていない。
お互いにわかっているのだ。
このやり取りがすでに分かりきったことの確認だということを。
これからの賭けの前に行われる儀式でしかない。
「…月音先輩に二度と手を出さないでもらいます」
ぎ
し
り
。
空気が死んだ。
ぎち…ぎちぎちぎち……ッ
みぢ…ッ、ギリギリギリ……ッ。
相対するオレに叩きつけられているのは本物の殺意。
感情が質量を持つ、など誰が信じるだろうか。
だがほんの刹那に向けられたそれを感じたことがある者ならば否定はできないに違いない。
それを感じることが出来たのはこの体育館にいたうちの数人のみ。
大半の人間は一瞬の寒気を感じただけだろう。
例えそれがこれから賭けられることを知っていたとしても。
すでにわかりきったことの確認だとしても。
これが、伊達には受け入れられない宣言だということを明確に示していた。
恐怖で膝が笑う。
オレの体は知っているのだ。
伊達が起こす破壊の結果を自らの死という結果を持って。
だが、
「では失礼します」
颯爽と踵を返した。
すでにオレはあのときの何も知らない、ただの一般NPCだった頃のオレとは違うのだ。
今はまだ遠くとも伊達への道のりはすでに見えているのだから。
その様子に脇にいた男が一瞬その体を動かそうとしていたが、伊達が何かに気づいたのか軽く手を挙げると動きを止める。
カンッ!
1R終了のゴングを背にオレはリングサイドへ戻る。
リングの上では青コーナーに椅子が置かれ、田中先輩が座っていた。よく見ていなかったがかなり動き回ったらしく、びっしりと玉のような汗をかいている。すこしだけ水分を補給させ汗を拭いながらセコンドの顧問がアドバイスをし、そのまま2Rに送り出していった。
オレも先輩を応援すべくリングに一番近い応援席で声を挙げる。
「おまエ、結構無謀だナ」
「ッ!?」
耳元にどこかで聞いたような声が響き思わず辺りを見回す。
しかしオレの周囲の椅子は空いている。
「試合見に来たゾ」
声はすれど姿は見えず。これはもしや、
「………師匠?」
「いくら呼ばレても照れルけど、ちょっト嬉しイな」
こそっと周囲に不審に思われないくらいの小声で呟くと確かな答えが返ってきた。
間違いなく隠身さんだ。
「なんでまたこんなところに?」
「刀閃卿に聞いタ。弟子兼友人の応援、一度シてみたかっタ」
「…さいですか」
……なんというのか、今この体育館凄い人外魔境になってるぞ。
なにせ上位主人公が3人も一堂に会している。
とりあえずさっきのセリフについて聞いてみた。
「無謀って何のことです?」
「お前、伊達に何か言っテた。そのとき脇の男、オ前殺そうとしてタ。同時に伊達、何か投げタ。隠身、こっそリ短剣構えてそれ弾いタ。伊達、退いタ」
………え?
いや、なんかあのときは伊達が脇の男の行動を止めただけかと思ってたんだけども、実はこっそり攻撃されてたと……?
怖えぇぇ…。
ちなみに何投げてたんでしょう…?
「ボタン」
「……」
まぁそれくらいなら…いやいや、ダーツがコンクリートの壁に普通にめり込むような技量だ。ボタンひとつでも結構な威力だった可能性がある。
【隠身の気配は探知系の技能がなければ知覚できぬ。となれば伊達にとって攻撃したもののなぜか弾かれたとしかわからぬはずじゃ。それを警戒したからこそ退いたのじゃな】
もし弾けてなかったら、隣の男の行動を止めてたかどうかも怪しいってこと?
よりによってこんな大人数がいるところで暴れたりするほど分別がなさそうには見えないんだけど。
【おぬしこそ忘れておるな。確かにあの伊達という男、上位主人公というだけあって利害を踏まえて行動できるだけの知性がある。
だが、その一方で特定のことに関してだけはそれを上回る狂気を持っておることを、な。
いや、あの月音という娘に対する執着を考えれば、単純に比較し、多数のNPCを巻き込んで大事にするのなど大したことではないと判断したのやもしれぬな】
月音先輩にちょっかいをかける相手を滅ぼせるなら、他のことは全て些事。
例え何人殺そうと、どれだけの被害が出ようとも。
そう言い切れる精神はとても歪だ。
そんな風だからこそ、オレがこんな要らんことをしなきゃならなくなることに気づかない。
「見てルぞ、頑張レ」
「…どうも」
しかしこんだけ人がいて誰も気づかないとは……さすが上位者だけあるな。オレもこれくらいの隠密能力をゲット出来る日が来るんだろうか。
伊達や隠身のおかげで大分対戦相手への恐怖が薄れてきた。
いくら全国優勝している相手とはいえ、あの二人に比べればなんてことはないのだから。
カンッ!
おっと。
そうこうしているうちに試合が終了した。
最後まで戦い抜きポイントでの勝負になる。それぞれ1R毎に20点の持ち点があり、相手との有効打の差によって減点。それ3R繰り返した合計が最終的なポイントになる。
結果は60対56でポイント負け。
1Rでは有効打がほぼ同じで20対20で拮抗していたものの、2Rと3R目で少し疲れが出てきたのか失速し差を付けられてしまった。
これで1敗。
あと2つ取られたら負けてしまう。
いよいよ苦しくなってきた。
「そない辛気臭い顔せんとき。要はオレが勝ってもうたらええんやろ」
ヘッドギアをつけてもらいつつ、ポフポフとグローブをぶつけてジョーが言う。
第二試合はバンタム級の試合、階級をあげてきたフライ級2位の中西との戦い。直前に無茶な減量を強いられ本調子ではないという逆境の中、それでも笑う。
ゆっくりとリングに上がっていくジョーを見ながら俊彦先輩に、
「ちなみに相手の中西なんですけど…どれくらいの強さなんですかね?」
「そうだな。10本やれば1、2本くらいは取られるかもしれん」
うーん、俊彦先輩の凄さしかわからん。
おそるおそる思いついたことを聞いてみる。
「ちなみにジョーだと……?」
「ボクシングルールでジョー相手なら、100戦やって100勝できるだろう」
いや、それだと中西にジョーが勝てないということになるのでは。
さらに俊彦先輩の言った前提に加えて、さっきも言った慣れない減量、不良上がりのジョーには慣れないボクシングルール、そして全国区の選手。悪条件がこれだけ揃っていれば勝利が遠くても仕方がない。
オレが余程不安そうな顔をしていたのだろう。
俊彦先輩は苦笑しながら、
「だが、ジョーと中西が戦るというのであれば―――」
カンッ!
戦いのゴングが打ち鳴らされる。
リング上で向かい合う両雄。
その光景を見ながらセリフを続ける。
「―――ジョーに賭けるよ。まして、この状況であれば尚更ね」
百戦錬磨のボクサーはそう言って友人を誇った。




