42.見捨てられないキミの結論
カリカリカリカリ…。
静かな室内に何かが擦れる音だけが響く。
広げられているのは数学 I と書かれた教科書、参考書、そしてノート。
3人リビングのテーブルに向かい、ただ黙々とシャープペンの先を走らせていく。
カリカリカリカリ……ッ。
まるで写真のようにほとんど動かない三人。
時折ページを捲る音と共にかすかに腕を動かす以外、ひたすらペンがノートと擦れる音しかしない。
その我慢大会にも似た緊迫した空気を壊したのは、
「あー、もうダメ。わからんッ」
オレだった。
お手上げ!とばかりに両手を伸ばして、そのまま後ろのソファの背もたれに体重をかける。
「Xとか√とか、こんなの絶対社会で使わないのに、なんでこんなに出るんだぁ~」
「…確かにそうだけど、それを言ったらおしまいじゃないかな」
思わず文句を言うと、綾にツッコまれてしまった。
「集中するときはするんだが、集中力が切れるのも早いんだよな、充は」
ふぅ、と出雲が嘆息する。
「とはいえ、そろそろ1時間ほど経つし一度休憩を挟むか」
「はーい。あ、私台所いってくるね」
綾が立ち上がって、慣れた素振りで台所へと向かう。
おそらくヤカンに水を入れているんだろう。水音が聞こえてきた。
そう、今日は5月31日金曜日。週明けの3日と4日の2日間の中間テストに備え、兼ねてから話していた通り、出雲のマンションで勉強会がスタートしているのだった。
しかしいつ見てもデカいマンションだな…。
洋室が2部屋にリビングダイニング、さらにキッチンは対面キッチンとどっかのトレンディドラマにでも出てきそうな間取り。ここに一人で住んでいるのだからうらやましい。その広さのせいもあるだろうが、物が溢れて困ってるようなオレの部屋と違い、鏡面仕上げのオシャレな家具に荷物が収納されて室内はいたって綺麗だ。
「……で、前の話なんだが」
「? ああ、前にしていた話か」
先日の生徒会からの誘い以後、警戒のため出雲は綾とくっついて行動することになったため、話ができるのは学校の授業の合間のみ。その短い時間で月曜日にオレが直面した問題について簡単に説明していたのだった。
「確か、ボクシング部として大会に出てくれと頼まれたんだったな」
「そうなんだよ。そもそもオレなんかが出て役に立つかわからないしねぇ…それに普段だったら知り合いに手助けできることはしてあげたいけど、この時期だろ?」
主人公順位 序列4位 伊達政次副生徒会長。
全面的に敵対、というわけではないものの関係が微妙な彼の出方に警戒が必要な時期。
正直なところ目立つ行動は控えたい。
それにボクシングの練習で時間を取られる、ということになれば狩場に行く時間が十分に取れなくなる可能性もあるのだ。ただでさえ早くレベル上げをしておきたい現状でそれは痛い。
出雲は一瞬だけ台所のほうを確認する。
ダイニングを挟んだ先にある台所では綾が何か料理を始めている。そろそろ小腹がすく時間ということもあり、簡単に食べれるものを作ることにしたようだ。かく言うオレも出雲につられて台所を見て、ようやく自分がすこし空腹であることに気づいた。
相変わらず綾はよく気がつく娘だよなぁ。
あー、オレも彼女が欲しい。
【そういうことは自分の身くらい自分で守れるようになってから言うんじゃな】
むぐぐぐ…ッ。
反論したいけど言い返せない…。
しばらく綾が戻ってこないのを確認してから、出雲は話を続ける。
「そうだな…先週の土日はどうしてたんだ?」
土日っていうと…ああ、斡旋所で依頼を受けた翌日か。
えぇと、26、27日の土日は……、
「赤砂山に行ってきた。先週斡旋所で依頼を一個受けててさ。なんか禅釜尚が落とす茶釜の欠片を持ってこい、ってやつだったからそれを狙って」
「戦果は?」
「禅釜尚を6匹狩って欠片が5、蜘蛛火を5匹狩って蜘蛛の糸が4ってトコ。努力の指輪が青と緑に1回ずつ光ったから多分5レベルにはなってると思う」
先週は一気に上がったが、一人で安全にやったので若干上がり方は遅い。とはいえ元々立てていた5月のレベルアップ目標は4。現時点で5なのだから成果としては十分だと思う。
「禅釜尚を狩るなら狩場の違う蜘蛛火は控えたほうがいいんじゃないか? 移動時間はできるだけ控えた方がいいと思うが」
「もう1個依頼で蜘蛛の糸もってこい、ってのがあるんだ。今のオレのランクじゃ2個同時に受けることはできないんだけど、もし禅釜尚の依頼が終わったときに蜘蛛の糸が規定数あれば達成になるらしいから、どうせならやっておこうかな、と」
「……あの人の依頼か。なつかしいな」
「あれ、出雲知ってるの?」
「ああ。昔から何度も何度も同じ依頼が出ていることで有名だからな。俺が駆け出しの頃同じように受けたこともある」
そういえば斡旋所の人も同じようなこと言ってたな。
戻ってきたときにもしあの依頼が無くても、また出る可能性が高いので無駄にはなりませんよ、とかなんとか。
「なんで何度も同じ依頼を出すんかね? 蜘蛛の糸マニア?」
「それはまた……いるとしたら随分と細かいジャンルのマニアだな」
出雲は苦笑しながら続ける。
「依頼主なんだがね、主人公なんだ。
この人は現在結構な金持ちらしいのだが、今代のキャラになる前、先代のときに蜘蛛火に酷い目に合わされたらしい」
「へぇ」
そうか、確かにオンラインゲームみたいなものだとしたら主人公は完全に死んでしまっても終わりじゃない。別のキャラを作ってそこからやり直すことが出来る。
「又聞きの話だから正確じゃないかもしれないが、なんでも蜘蛛火と戦っている途中に続々と蜘蛛火が出てきて、最終的には20匹くらいの蜘蛛火に焼き殺されたとか」
………あれ、どっかで聞いた話だな。
ああ、そうだ。月曜日のオンラインゲームのときの山猫地獄だ。
なんというデジャヴ。
「その恨みがずっとあるせいで、仇である蜘蛛火を倒す依頼を何度も出しているとか。
もっとも都市伝説の類かもしれないがな」
恨みは恐ろしいなぁ。
あれ? ってことは……、
「主人公って前のキャラだったときの記憶は持ってるのか」
「勿論」
当たり前といえば当たり前なことだけど、こうして改めて気づくまで考えもしなかった。
この目の前でのほほんとしている出雲も前世があって、その記憶を持ってるのか。
「ちなみに……」
「俺の前世は黙秘する」
「えー。じゃあ名前だけでも」
「却下。むしろ名前を言ったら黙秘した意味がない」
うぅむ。
よほどの有名な名前なんだろうか。
残念だけどもこれ以上聞き出すのは無理そうだな。
「エッセの話でもあったんだけど、重要NPCになるためにはまず重要NPCと近い人間になるのが一番なんじゃないか、って結論になってさ。とりあえず重要NPCにたくさん人脈作るために依頼受けて、斡旋所の評判上げておこうかと」
「なるほど…」
すこし考え込む親友。
「結局充はどうしたいんだ?」
「へ?」
アドバイスではなく問いが返ってきたことにすこし驚く。
「伊達副生徒会長の出方を今警戒している時期なのは間違いない。ただここ数日の動きを見るに現状すぐにどうこうというわけではなさそうだ。何かを企んでいてその準備をしているだけ、という可能性も考えられるがな」
【確かに。綾嬢に話をしにきたのが先週20日の月曜日。今日がいつかと思えばもう31日じゃ。
10日以上も動きがないことを考慮すれば、様子見をしているのか、それとも何かの準備をしているのかと考えるのが妥当じゃな】
出雲の推測をエッセが補足する。
確かに言われるとその通りだ。
「綾に伊達副生徒会長が言った期限が今学期中、だったと聞いた。つまるところタイムリミットと考える必要があるのはそこじゃないかと考えている。その前に何かちょっかい出してくる可能性も捨てきれないが、それは俺が綾をガードしておけば済む。
むしろ今考えておかなければいけないのは、今学期が終わるときの話だ。タイムリミットを向こうが切ったということは、そこで何か勝算のあることをしようとしているのかもしれないからな。
だから6月中に話が終わるボクシング部の活動については、充がやりたいようにやればいいんじゃないかというのが正直なところだ。
体を鍛える、という意味では悪くない選択でもあることだから」
おぉ、体育会系の出雲的にもボクシングってオススメなのかな?
「鍛錬として見た場合、ボクシングって良いの?」
「武技の優劣は状況次第で変わるから一概には言えないが。基礎身体能力をつける、という意味でいうならボクシングは上位に来る。
日本の杖術や剣術などの技については動きの起こりを消すとか、逆に目付けをするだとか様々なものがあるが、同じくらいの技量の持ち主なら身体能力の高いほうが勝つのは他と同じだ。
反射神経、足腰のバネ、手の速度、体力…いわゆる西洋力学的な身体能力を鍛える最初の一歩としてボクシングは有効だと思う」
えーと、かいつまんで言うと、武器とか使って遣りあう場合に必要な技量については習得する必要があるけれど、そのベースとなる基礎体力をつけるのには有効って意味かな?
「だからどちらを選んでも支障はない。結論として充のやりたいようにやればいい、という話だ」
「………オレは…」
静かに考える。
色々なことが頭に浮かんでは消える。
ジョー、ボクシング部、俊彦先輩、赤砂山、斡旋所……。
思考の中に在るそれらを雑多な感情と共に整理していく。
自分がやりたいこと……。
「……ま、それなら入部するわ」
「だろうなぁ」
あっはっは、と出雲が笑う。
「? なんか面白かったか?」
「いや、予想通りだったからな。充はなんだかんだ言って友人が本当に困ってるときは見捨てられない。だから、たとえここで俺がどうこう言わなくても最終的にはそういう結論になってただろう。それなら最初からそうシンプルに考えていれば済んだ話だ。
にも関わらず本人はどうしようか迷っていたのがすこし楽しかった」
………そんなにわかりやすいかなぁ、オレ。
確かにこうやって結論が出てしまうと、悩んでいたのは友人を助けたいのに状況がマズそうだから困っていただけにしか思えない。つまりオレはもうボクシング部にお邪魔するのを前提としていたってことだから、反論のしようもない。
【不器用な男子じゃのう】
へいへい。
どうせ器用じゃありませんよー、だ。
おっと、もう一個用件があったな。
「出雲には一応言っとくよ」
「……?」
「前に咲弥が伊達副生徒会長の間者なんじゃないか、って話あったろ?」
「そこから情報が出ているんじゃないか、という話題は確かにしたな」
「それを聞いて随分悩んだんだけど…決めたんだ」
どうすればいいのか。
どうしたらいいのか。
悩んで悩んで、ふと気づいたんだ。
「それを確かめることにした。
明後日の日曜日…前と同じようにオレと鎮馬、咲弥の3人で一緒に赤砂山に行く」
自分でうんうん唸っていても解決はしないってことに。
想像の相手を警戒しいつまでも守勢でいるよりも、こちらからの攻勢に出たほうがいいのでは、と。
「……本気か?」
「嘘や冗談でこんなこと言えないよ。もう段取りはしてあるから、あとは日曜日を待つだけだね」
段取りとしては簡単だった。
初めてPTを組んだあの日、狩りを終えた後に友人として携帯電話の番号は交換しあっていた。そこに連絡を取って日曜日の狩りの予定を立てただけ。
ちなみに日曜日にしたのは、おそらく今のオレのレベルだとPTを組んだ場合禅釜尚ではなく虎隠良か槍毛長を狩ることになるからだ。
あけた土曜日は依頼のために禅釜尚と蜘蛛火を狩る時間にあてたかった。
「小心者な充が危険を省みずに行動をするとか、わかっていてもちょっと新鮮だな」
【うむ、まったく。半月前のこやつの弱腰っぷりと来たら……】
なんだよもう!
たまに人がやる気がしたときくらい褒めようぜ!?
料理が出来たのだろう。
綾が食器棚から出した皿を並べ始めたのに気づく。
そろそろこの話題はおしまいだな。
「………気をつけろよ」
「そんなに心配すんなって。ほら、昔から言うだろ、虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってさ」
虎穴は虎穴でも赤砂山にいるのは虎隠良だけどな。
そんな冗談を言って小さく笑いあった。
さぁ、一息ついたら勉強再開といきますか!
……いや、絶対気合入れておかないと綾の美味しい料理食ったら絶対眠くなるから。
午後11時を指している時計を見つつ、そんなことを思った。
高校1年の1学期中間試験の範囲とか、昔のことすぎてうろ覚えですね~。
充君の言うとおり社会人になっても、特殊な職種以外は確かに√とかは使いません(笑)