243.魔王再臨
ボクが狼くんに喰わせた“魔王”最後のピース。
その結果として現れた変化は劇的だった。
硬直した狼くんは突然口を大きく開いて天を仰いだ。
ボ、ボ……ッ。
そこから配管が逆流するかのような妙な濁った音がしたかと思うと、
ボボボボボボボボボッッ―――ッッ!!!!
一気に朱と紫黒の汚泥にも似た液体が吹き出し、空へと一直線に駆け上っていく。それは上空百メートルほどにまで達すると何かにぶつかりでもしたかの如く、傘の様に大きく開いた。
明らかに目の前の狼くんの体内で収まれるわけがない、不自然な量の液体。
それが辺り一面に降り注ぐ。
ああ、勿論ボクはちゃーんと結界で守られているから関係ないですよ?
降りしきる泥雨。
触れた木々や下草が急速に枯れ、生気を失ったままボロボロと崩れ落ちていく。ある程度降った後に地面に出来た数多くの水溜まりは、まるで粘性生物のように蠢き、再び中心部にいる宿主のほうへと戻ろうと這いずりだしていった。
その姿を表現するのであれば、まるで亡者の行進。
表面に苦悶をむせび泣く死霊にも似た顔を浮かび上がらせながら、泥の塊たちは集って狼くんの周りを覆っていく。
そして全てが集まり切った瞬間、ガチガチに固まって一個の岩のようになった。
いよいよかな?
ピシ……ッ。
一筋の罅。
そこから大きく亀裂が走ったかと思うと、一気に砕け始める。
さながら卵が割れるように砕け落ちた後に生れ落ちるのが何者かなど、考えるまでもなかった。
漆黒の髪は元となった人物と変わらない。
だがその銅色に輝く瞳はどこまで深く底の見えない欲望の灼を宿しているのがわかる。
身体も一回り大きくなり、やや細身ながらも偉丈夫といった面持を隠さない。
纏った黒衣の袖からは、薄青い肌と四肢の首に帯びた複数の金の細い腕輪がぶつかって小さい音を響かせていた。ただの装飾品では無くそのひとつひとつが禍々しい呪力を秘めた品だ。
小さく口元から見える牙は相変わらず恐ろしいほど鋭利。
ボクの記憶にある姿と幾分か違ってはいるものの、何点かの特徴と発している気から判断して間違いないだろう。
そんな砕けた岩の中から姿を現した人物は、状況を把握しようとでもしているかのように周囲に視線を巡らせていた。
「やぁ、久しぶり」
軽く手を挙げて声をかけてみると、相手は少し訝しげにこちらを見る。
現実なともかく、こっちの姿じゃさすがにわからないかな~、と思っていたら意外にも納得したようにかすかに頷いた。
「確かに久しいな、旧き好敵手よ」
ラーヴァナ。
羅刹の王。
千年の苦行の後、超越者たる力をその手にした者。
そして古き世において猛悪なる魔王の一柱として恐れられた相手は、小さく笑った。
「調子はどうだい?……って、聞くまでも無さそうだね」
そのはち切れんばかりの覇気を見れば、質問などせずとも答えは自ずと知れた。
「問題ない。問題があるとすれば……むしろ好調過ぎることくらいであるな」
彼がこちらへ少し近づくと、腰に帯びた剣―――“破壊神の月刃”がかすかに揺れて存在を誇示しているように見えた。
「ほんのわずかほど欠けてはおるが……それを補って余りある。これまでにないほど力に満ちておる。今であれば、あのサハスラ・アルジュナは元より、ラーマとて問題になるまい」
欠けている、というのはあの後輩君にわずかばかり残ってしまった欠片のことだろう。全体の比率からすれば1パーセントにも満たない程度ではあるものの、やはり気にはなるようだ。
ただ重要なのはそこではなく、後半。
以前よりも力が増している、ということに関して。
それもそうだろう、と思う。
いくらボクよりも弱いとはいえ、あの狼くんだって曲りなりにも“神話遺産”に分類される存在。それを同じ“神話遺産”が吸収したのだから、その力足るや凄まじいものになっているであろうことは想像に難くない。
“神話遺産”という超越者の二重存在。
主人公的な視点で言うのならば、反則だ、とか仕様外にも程がある、と言われちゃってもおかしくない。
「ふゥん? まぁそれはいいけど、もう少し穏やかに復活できないものかな。
これじゃ人目について仕方ないじゃないか」
先程の汚泥の雨によって、緑豊かだった山中に突如としてぽっかりと土がむき出しになった何もない空間が出現している。
精々枯れて崩れ落ちて土に同化してしまった植物の成れの果てがあるくらいだ。
まさに自然破壊ここに極まれり、ってやつですな。
「よく回る口であるな。抜け目無く結界を張っておったのを隠す意味などなかろうよ。
それともそれすら気づかぬ愚か者と嘲笑っておるのか?」
おっとバレてたか。
ただでさえ先日、管理者の前に姿を現して警戒されているところだし、暗躍するにもちゃんと準備が必要だ。
常時いつでも人祓いの結界を張っておけるようにすることは当然だとも言える。
「だとしたらどうするのかな? いつぞやの続きのように再び戦争と行くかい?」
おそらくそのつもりはないだろう、と推測しつつも言葉を返す。
もっとも、推測が外れていた場合はボクとしても色々考え直さないといけなくなっちゃうけど。
沈黙は数秒。
まだお互い何の戦意も発していない。
にも関わらず睨み合っているだけで間の空間が死んでいくのがわかる。
上位の“神話遺産”というのはそういう存在。そしてその領域まで達した存在について、人は太古からこう読んで崇め讃えるのだ。
―――神、と。
さらに言えば、目の前の男はかつて“神仏に不敗”という特性を得た魔王。事実神々に対して戦いを挑み、王や聖仙を含めて、その多くを下していた。
ある意味では神ですらその後塵を拝すことになる最悪の存在とも言える。
「ここは引いておくとしよう。我は主を過小評価するつもりはないのだから」
「そりゃ光栄だ」
よしよし。
せっかくの数少ない顔なじみとの再会だ。
すぐさま闘争では味気無さ過ぎる。
「一応言っておくと、昔ならともかく今のキミに勝てる存在なんて、“神話遺産”の中を見たところで極一握り。
下手をしたら両手の指の数に足りないくらいなんじゃないかな?」
「そして、その指で数えられる中に主も含まれておる、というのであるな」
「当然」
何を当たり前のことを。
ボクに勝てる奴なんてそもそも誰一人としていないのだから。
とはいえ、目の前のラーヴァナに関して言えば勝つために有る程度犠牲も必要になってくるから、出来れば戦うのは避けたい相手ではある。
具体的には蓄電池的なもの、三つ分くらい。もっと言えば……茨木童子くらいかな?
仕込みをするのも結構手間なんだよね、アレ。
「ちなみに宿主の狼くんの方はどうなのかな? 消えちゃった?」
「然り。最後まで侵食に抵抗しておったようであるがな。
ある一線を越えた瞬間、抵抗を諦めたのか欠片すら残さず消滅した」
ありゃりゃ、ご愁傷様。
最期に見せたあの限界突破は実に見事だっただけに、ちょっと惜しい。
前も思ったけど犬神にしたら最強の式神になっただろうに。
もし消滅を免れてるようだったら、こっそり分離させてどっかのゲームよろしく犬神として育ててみても面白かったのになぁ、残念。
「先に問うておこう。我に何を望む?」
「……ん~?」
「異な顔をするのであるな?
かつてラーマに破れ滅んだ後、霊脈に溶け込むことで長らえ修復していた我が完全に復活するには本来もう少しの刻が必要であったろう。
それを急かしたのが何者なのか、我が知らぬとは思うておるまい」
そう。
結局のところ、魔王ことラーヴァナの欠片について誰も予期できていなかったのはそれが理由だ。
飛散して霊脈に溶け、その流れに乗っている以上は本人ですらどこにどれだけの力の欠片が流れているのか完全把握は難しい。
偶然同じ霊脈を流れる欠片同士がカチあった時にくっついて大きくなってはいくし、大きくなればなっただけ引き寄せあいやすくなるものの、最終的に全てがひとつにまとまるためにはまだまだ時間がかかっただろう。
千年前にボクが茨木童子のような存在に霊力を溜めておくために霊脈を研究していたからこそ、それに気づき、そして長年の研究を経てそれらを誘導することが出来たのだ。
せっかくシベリアに集めた大きな欠片が狼くんに喰われたのは―――そのときに奪還用に送り込んだ結構仕込むのに苦労した犬神が負ける、というまさかの事態も含めて―――正直誤算といえば誤算だったが、それを含め軌道修正し逆に狼くんへ残りの欠片をぶつけるように仕向けることで、こうして結果は修正できた。
ラーヴァナにしてみればこの場で復活したのは、ボクが黒幕なのだから何か意図があってのことだと思うのだろう。
目の前の魔王は闘争と欲望を好む者なれど、その思考は単純でも愚かではないのだから、それくらいはわかっていても当然。
「望み……う~ん。
強いて言えば、ボクが困ったときに頼みごとをひとつ聞いてもらうくらいかな?」
とはいえ、これも嘘ではない。
今現在においては特にしてもらうこともない。
その力を使ってもらいたいのは少し先のことだから。
必要な時に必要な力を振るってもらえれば、前と後はどうしようが知ったことではない。
「よかろう……逆に高くつきそうな内容だが、それでよいというのならそう記憶しておこう」
そう宣言してから、ラーヴァナは静かに浮き上がった。
山の上から遠く、街の明かりが夜の帳の中に揺蕩っている方向へと視線を向ける。その射抜くような視線は街そのものではなく、そこに暮らす人々の営みそのものへ向けられていた。
「久方ぶりの現界だ。下々に混じってその風を感じ、理解することもまた一興である。
神どもに挑むのは精々楽しませてもらってからでも遅くはあるまい」
かつて、かの魔王が生きていた時代より遥かな先。
あの頃とは文明の発達具合に圧倒的な開きがあるのは間違いなく、彼が興味を持つのも当然といえば当然だろうか。
個人的には、その発展と引き換えに神秘とそれに対する畏れが鈍ってしまった人々に対して、何を思うのか非常に興味があるところだ。
面白いと喜ぶのか。
けしからんと憎悪するのか。
どうしてなんだと首を傾げるのか。
くだらぬと白けるのか。
そして、その結果どのような行動に出るのか。
あぁ! 本当に興味深いなぁ。
「自分のせいで兄貴分が死んだ、と知った時の後輩くんの表情の次くらいには興味深いよ。
そう思わないかい? エッセ」
実に興味深い。
興味深過ぎて、もうたまらない。
その瞬間が待ち切れなくて我慢が出来ないほどに。
だから、もっと。
もっともっともっと―――ッ!!
後輩くんを追い詰めていくとしよう。
ラーヴァナを見上げながら、漏れ出る愉悦を吐露するかのように呟いた言葉。
それは答えるものなく風にかき消されるように流れて行った。




