240.兄の務め
ようやく240話目です。
今後ともよろしくお願い致します。
少し考え込んだかと思うと、突然充の身体から青白い汚泥にも似た濁りが溢れだした。
ごぽごぽと泡立つように浮き出す大小の顔を無数に生み出す有様は、間違いなく“魔王”の力。先程までは身体を包んでいた“簒奪帝”の力場に混じるようにしていたそれが、主従逆転でもしたかのように宿主の力を押しのけて表へと出てきている。
「ここからが本番、だな」
相変わらず、充は素直だ。
その本質は例え今のような状況においても変わらないらしい。
そう思えるほどあっさりと、俺の言葉による誘導通りに“魔王”を解き放った。
敵対――少なくとも今の充にとっては―――する相手の言葉なのだから、もしかしたら罠なのではないか、とか、その言葉の真意を探ろうとしたりしてもよさそうなものだが、それはあくまで外野の意見だ。
特に刻一刻どことか、コンマ以下の秒数をそれぞれのプレッシャーをかけあいながら行われる戦いの中においての判断は、それ以外の普段のものとは異なる。
相手に圧倒されて余裕が削られていけば、それだけ判断するために費やせる時間と力の不足する。どれほど判断に優れていようとも、その状況で普段する判断と同じものを正しく下すのは中々に難しい。
無論それをどうにかする手段はいくらでもある。
判断の時間を延ばせるように思考能力を加速させる。もしくは逆に動きそのものを加速させれば、動き出しが遅くてもよくなる分だけ判断に時間が避ける。
別の観点から見れば、経験が多ければ似た状況を参考にできるから一瞬で答えを導き出せるかもしれないし、攻防の疲労で思考が停滞するのであれば体力をつければいい。常に疲労状態においた鍛錬をすることで疲労時の判断と言う状況を反復することで、慣れたものにすることも効果的だ。
加えて今回は“魔王”による精神汚染という負荷の中での判断、という特殊条件なのだから、誘導に乗った充の判断が悪いものだと一方的に断ずることは出来まい。
充は先程戦っていた巨人を模するような形態まで姿を変えていく。身長は3メートル程度でちょっと小柄ではあるものの、“魔王”の汚泥にうずもれてしまい、彼自身の姿はどこにも見えない。
その腕は15本。
神話に謳われている“魔王”が20本だから、かなり完成に近いと言える。違うのは腕の数だけではなく、その身体の力感、放つ圧力は比べようもないほど増大していた。
とりあえずアレを充と呼ぶのは色々な意味で抵抗があるので、標的Rとでも仮称しておく。
ズォンッ!!!
「…ッ!!」
反射的に飛び退くと、敵の腕が伸びてきて俺がいた空間を素通りしていった。どうやら羅腕童子の力も一部混ざっているらしい。羅腕童子は8本だったが単純計算で倍以上の手数の伸びる腕、というわけだ。
だがそれでもあくまで宿主の力を借り受けているのに過ぎない証左なのだろう。
普段充が振るっていた腕は騎士の甲冑のような硬質でしっかりとした強固さを感じさせるものだったが、今振るわれている腕はあくまで汚泥の巨人のものであり、輪郭がぐずぐずで見た目としては不安定極まりなかった。
さらに追いすがってくる文字通り拳の弾幕にも似た攻撃を避けながら、俺の特性である“餓狼”を技法に落とし込んだうちの二つ目―――“岩喰み”を起動。結果、左右それぞれの手が獣の咢を連想させる形状へと変化したその瞬間に、一気にそれを振り抜いた。
伝わったのは、腐りかけくらいの妙な感触の肉を引きちぎった感覚。
「感触まで泥みてェなのよりは、―――マシだけどなッ!!!」
吠えるように言いながら、向かってくる腕を迎撃。
次々と噛み千切られては喰われ取り込まれ、そして消失。
まるで見えない結界に触れて蒸発でもするかのように、俺が届く範囲内に入って来た腕がそこでぶつんと途切れて消えていく。
だがその見た目ほど余裕はない。
喰えば喰うだけ、俺の中の“魔王”が増大していく。
力が集まれば集まるほど、加速度的に制御が難しくなるのは何も充に限った話じゃない。
精神を痛めつける汚染。
能力に纏わりつくような侵食。
吠えたのはそれらを振り払うためでもあった。
だがそれでも止まれない。
拳、雷、斬撃、蹴り、掴み、噛み付き……次々と繰り出される攻撃に対処しながら、一片たりとも躊躇することなく喰って喰って喰い尽くさんと猛る。
苦痛に慄くのは走り終わってからでいい。
今何よりも必要なのは、痛みに叫んで蹲ることでも、今のこの状況を嘆くことでもなく、目の前に立ち塞がる困難を切り開くための意志だけ。
どうしてそこまでするのか?
そう問われたことは何度もある。
だが問われる度に逆に聞きたくなる。
身内のために身を切ることの何がおかしいのか、と。
勿論、身内の概念が違うのだろうということは理解していた。
俺にとって血族的な意味での身内は存在しない。
シベリアで知り合った人狼のような存在も居るが、厳密に言えば俺は人狼ではない。人狼に出来ることは出来る、というだけで全く別の生物。
狼。
この国においてすでに滅んだ種の最後の一匹。
特殊な条件下でそこに纏め上げられた種の想念が化身として、主人公どもが言うところの“神話遺産”化 した存在。
だがそれはどうということでもない。
彼女に会ったあの日から、今日今ここに至るまで、それを嘆く必要も絶望する余裕も毛ほども有りはしないし、きっとこれからもそうだろう。
むしろわかりやすいじゃないか。
俺の身内―――守るに値する、身を切るに値する相手―――は自分自身が決める。
これ以上ない単純な理屈。
だからこそ、一度身内として認識した相手のためであれば躊躇う必要は無い。
例え、それが命を代償にするものだとしても。
攻撃を避ける。
加減をしながら喰って取り込む。
“魔王”に抵抗する。
取り込んだ力から“魔王”を取り分ける。
ただひたすらにその作業に没頭する。
例えれば自動車やバイク、飛行機、船舶を同時に運転するかのような、全く関係無くはないが基本として別種の繊細さが要求される同時並行作業。
あとはタイミング。
シビれを切らした相手が放つ渾身の一撃。
避ける速度を微調整し、当たるギリギリのところで避けたり、避け切れずにカスったりといった演出をして誘っている。
一発逆転を狙える、と。
“魔王”が表面に出てきても、わざと喰う速度を調整してそれを待っている。
そこで余計なものを剥ぎ取れば、残るは“簒奪帝”に主導権が移るだろう。そして最後に“魔王”を取り分けた力を奪わせることで還す。
この力はあくまで充が自らの力で苦難を脱し、築き上げてきたものだ。それをこの危機に乗じてかすめ獲るような真似、選択肢として頭に浮かびもしない。
正当に還す、それが道理だ。
戦場の気が満ちる。
そろそろ最期だろう。
砂地に脚を取られたフリをして隙を作る。
案の定、そこに喰いつくように、標的Rは数多い腕を纏め上げて本数を絞ることで巨大化させ振るう。猛烈な勢いをつけて走り込みながら拳を放ってきた。
一撃必殺を狙い避けられないタイミングに最大威力の攻撃。
手法としては間違っていない。
誘い込まれたものでなければ、の話だが。
その好機を待っていたのは俺の方だ。
両腕の周囲に刃のような牙を不規則に生みだす。
間合いに入った瞬間に、すぐに喰らえば回避も出来るし無傷で済む。
だがそれではもうひとつの目的が達成出来ない。
攻撃が俺に命中する直前まで引き込み、そのまま相手の腕へ左右から俺の両腕を絡め、生み出したばかりの牙をさらに伸ばしながら喰い込ませる。相手の腕が俺の背丈の半分近いため、やりにくいが仕方ない。
―――餓狼三式 周噛み
甲羅の中に入っている身を先の曲がった金属で掻き出すように、その十二分に食い込んだ多数の牙を支点にそのまま“魔王”の存在を引きずり出し、喰らい尽くす。
ガゾゾゾゾゾゾゾァァァ―――ッ!!!
一気に巨人の輪郭が崩れ、そしてそのまま幻覚のように消える。
あとに残ったのは飛び込んできた勢いのままに手を突き出している充の姿。
おそらく意識が戻ったのだろう。
驚愕しているのが見て分かった。
だがそれも1秒にも満たない刹那でしかない。
さぁ、仕上げだ。
―――存分に奪えよ、充。
オレの餓狼、くれてやる。
■ □ ■
ゆらり。
穏やかな清流に身を任す木の葉のように。
ゆられ。
樹に吊るされた網の寝床に微睡みが導かれるように。
ゆらる。
暖かな微風が頬を撫でていくように。
それが正常かどうなのか、という判断すら出来ないほど意志は薄く。
ただ何か大きな溶け込んでいる薄い満ちた感覚だけが有った。
そんな中、突如視界がクリアになった。
映し出された景色。
それは目の前にいる八束さんに触れる直前の光景。
“簒奪帝”が発動しているオレの手が。
どうしてかはわからない。
だが鬼の膂力といった全ての攻撃系の能力を上積みした状態で突き出されたその腕は、完全に攻撃として彼へと命中しようとしている。
なぜか両腕を大きく広げて無防備なその胸元へと。
待って。
待ってくれ!
なんで八束さんに攻撃しているのか、なんて考えている暇はない。
それでも尚、これを打ちこんでしまえば取り返しがつかなくなる予感があった。一晩中オレを苛んでいた熱情なんて最早どこにも無く、現実を認識した上で絶望的にもたらされた悪寒だけが有る。
違う。
止まれ止まれ止まれ―――ッ!!!
なんとしてでも止めなければならないのに。
全てはすでに手遅れ。
ずぐり……ッ!!!
手に伝わる嫌な感触。
止めるため一瞬の間すらすでに存在せず、オレの左手は八束さんの心の臓を貫通してぶち抜き、“簒奪帝”が奪い取ってしまった。
―――オレの餓狼、くれてやる。
その直前に小さく聞こえた彼の言葉通りに。
おそらく戦っている最中に彼に喰われていたんだろう、オレの力と共に八束さんの能力が流れ込んでくるのがわかる。
“神話遺産”と恐れられるのに相応しい圧倒的で巨大な力。
だがそれをどうこう思う余裕はなかった。
ずるり……。
胸をぶち抜かれた八束さんから腕が抜け、そのまま彼が後ろ向けに倒れていく有様をオレは茫然と見送る。
宙を舞う血飛沫。
それを見てハッと我に返った瞬間、この最悪の状況全身から血の気が引くのがわかった。
「……や、八束……さん?」
思わず呟く。
だが反応はない。
声が小さくて聞こえなかった。
人狼である彼にそんなわけがないとわかっていながら、もう一度声をかけようとするが喉が引き攣ったかのように意味のある音が出ない。
―――まぁなんだ…ガラじゃねぇんだけどな。いいか? 困ったことがあったら、いつでもオレに言いにこい。今日からオレがお前の兄貴分になってやる。
そんな記憶が唐突に頭を過ったのはなぜだろうか。
「………ぁ……」
胸が痛い。
喉を掻き毟りたい。
それでも、この瞳から流れ出るものが明確に冷酷な事実を再認識させる。
目を逸らしたところで現実は何ひとつとして変わりはしない。
自分の頭を抱えたまま、ようやく口を開いた。
「―――あああ、あああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっッ!!」
月夜の浜辺。
オレは天を仰いで絶望の叫びをあげた。




