233.月域の絶対者
「お断りです。そもそも、貴女からは何ももらっていませんもの」
そう言葉を紡いだのは“わたくし”。
そのはずなのに……気づけばわたしの体は独りでに動き始めています。
知らないもう一人のわたくしが動かしでもしているかのように。
「そもそも新参者の身で、その振る舞い―――」
“南”に拘束されていたはずの体を容易く動かし、止まった世界を一瞥するなりただ一言だけを呟く。
それは最も旧き力。
世界の黎明に近き、神々を新に見る時代の理。
“月域”
わたくしを中心にして世界が塗り替えられる。
比喩でも何でも無く一言一句違わずに、紛うことなく世界そのものが改変されていく実感。
構築されていた灰色の世界―――脳を加速させることで維持されていた虚構の風景から、完全に世界と隔離された異界へ。
「―――身の程を弁えなさい?」
月に照らされた蒼い世界。
天も地も、海も、大気すらも。
比喩でも何でもなく、ありとあらゆるものが、ただ蒼い月光に塗りつぶされる。
ぞくり、と総毛立った。
不快なわけではなく、むしろ逆。
これ以上ないほど心地良いことに恐怖が沸き立ったのです。
それこそ気を抜いてしまえば、この世界が全てになってしまうほど。
「ああ、気にしなくていいのよ、“わたし”は楽にしていればいいの」
言われるまでもなく、自由の利かない体はわたしの意志に応えない。
ただ現状を傍観していること、それだけが許された唯一。
事態が飲み込めていないのか、絶句している“南”に声をかける。
「ふふふ……“まだ早い”、とでも言いたそうなお顔ですね」
浮かぶは圧倒的強者の笑み。
世界を管理しているという存在相手を歯牙にもかけない。
ゆらり、と手を宙に動かす。
「確かに未だ約束の刻ではないですけれど……それでも貴女程度の羽虫を払う程度、造作もありませんよ?」
動けない。
わたしと同様に“南”もまた動けない。
先程までわたしにかけていた金縛りを跳ね返されでもしたかのように、同じ姿勢で立ち尽くしたまま微動だにしない。
精神的なもの、物理的なもの、その両方が今の彼女をその場に射止めてしまっています。
「それでもついにここまで来ることが出来ました。気が遠くなるような月日のうちに、新参者が横から手を出すのを眺めているしかなかった頃の無念を思えば、残りの月日などあってないようなもの。
それに―――貴女たちが“逸脱した者”などというレッテルを勝手にわたくしに張ったこと、これ以上は許しておけません。
正すためであれば、一時の試行も価値があるものとなりましょう」
ばぢんっ、ぎゅるぎゅり…ぎゅり…っ……
おそらく抵抗しているであろう“南”。
その力のぶつかり合いの余波なのでしょう。
彼女の身体の周囲が怪しく陽炎の如く揺らめき、時折燐光を放っています。
「いくら旧き存在言わはっても、世界を管理するあての力を上回るやなんて―――」
「その認識から誤りですよ。確かに貴女方は……というよりも、あの忌々しい“創造者”を名乗る慮外者の奇策により、一時的にとはいえ世界の支配権を確保した。
わたくしたちが出し抜かれ、彼が先んじた―――それは認めましょう」
言葉の中にほんのわずかな苛立ちが交じっていますが、それも一瞬。
「ですが、単に出し抜かれただけ。そうであれば抜き返せばいいだけです。
貴女が思っている以上に、貴女たちに優位などありはしない。
たかだか数万年程度の支配など、数億年をかけた計画の前では誤差のようなもの……そうは思いません?」
ばぢんっ!!!
強引に束縛を突破した、“南”が後ろにバックステップし距離を取ると、こちらへ手を向けます。
「いきってもろたら、困りますえ!」
ばぢっ!! ばぢばぢ、ばぢぃぃっ!!
帯電するように大気が震え、
―――“竜雷吼”
彼女の意図に呼応するかのように雷で出来た龍とでも呼ぶべき存在が顕現する。
長大なその身体で大気を震わせながら天へ昇り、一直線に降下しようとして―――
―――ぐしゃり。
消滅する。
最初から存在しなかったかのように、何の痕跡も残さずに。
まるであれは幻でした、とでも言うかのように。
「そんなに驚くところではありませんよ?
この“月域”の中は全てがわたくしの支配下。それは空間とて例外ではありませんもの。周囲の空間ごと握り潰すなんて容易いこと」
数瞬の沈黙。
それを経た後、
「あきまへん……わやくちゃや」
“南”はこともなげにそう言ったのです。
もう無抵抗、とでも言うかのように構えていた体の力を抜きながら。
「諦めが早いのですね」
「いけずやわ。
今の感じやったら、“天震轟災”使ても、どうにもなりまへんえ。
そないな相手に抵抗するだけあほらし思いまへん?」
明確な敗北宣言。
それを、さも当然とでも言うかのように、わたくしは優雅に頷きました。
「では心置きなく決着をつけさせて頂きましょう。これから“わたし”と話をするのに邪魔ですから……ごきげんよぅ」
………ぐぢっ…っ。
再び空間が歪んだ音が響きました。
“南”がいた場所に彼女の姿は無く、代わりに直径10センチほどの蒼色をした球が浮かんでいるだけ。
そのまま球はゆっくりと浮遊してわたくしの掌の上に乗ると吸い込まれるように消えていきました。
残されたのは全てが静止した蒼の世界だけ。
その中心でわたくしがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「いい機会ですから、わたしに話しておきましょう。
わたくしと、そして―――貴方の役割を」
す……と“わたくし”が自らの胸に手を当てて笑いかけると、いつの間にか“わたし”は彼女の前に佇んでいました。
「……これは」
「言ったでしょう? “月域”の内部は全てわたくしの自由だと」
理屈はわかりませんが、わたしと“わたくし”が別人として存在しているのも、彼女自身が為していると考えて間違いではないようです。
「貴女は……何者ですか?」
管理者を圧倒し、この神が如き力を振るえる世界を構築しうる存在。
わたしと瓜二つの外見をした彼女の正体。
それを問う言葉を発すると、
「わたくしは貴女―――月音・ブリュンヒルデ・フォン・アーベントロート。
正確には、その裡に存在する“魂源”に宿る月の力が具現化したもの、と考えてもらえれば間違いないでしょう」
月の力……?
「ええ。ですから貴女は何も心配せずともよいのですよ?
貴女の別の人格でもありませんし、ましてやあの“南”に与えられたものでもありません。正真正銘貴女自身の力。いずれ目覚めるはずであった月の代表者としての権能。
そしてその暁には全て貴女の意志の下に統合され制御されうる力です」
わたし自身の力……?
そんなはずはありません。
あの力―――“かぐや姫”は“逸脱した者”として選ばれたがゆえに与えられた能力だったはず。
「それが間違いです。もっともある意味では正しいのでしょうけれど。
“逸脱した者”というカテゴリーに属する力であることは確かですから」
順を追って説明しましょう、と彼女は続けた。
「エッセや“南”たち管理者が見出した“逸脱した者”と呼ばれる存在、その能力は全てその個体の“魂源”に由来するものです。
魂につけられた方向性、存在定義を補強し能力へと昇華する、それが彼女たちが行ったことです。つまり単純に力を与えたのではなく、力を引き出しているに過ぎません。
それは貴女の愛する三木充も同様です。あの欲望は彼自身のもの。
管理者としての理に縛られている以上、彼女たちが単純に与えられる力には制限がありますから」
突然、充さんの名前が出て思考が止まりそうになりました。
彼が今どうしているのか、そんな不安がどんどん膨らんで胸を圧迫するのです。
「管理者たちは候補として、特定の定義に則った条件と“魂源”の持ち主を選びました。その条件とは“逸脱した者”となり得る者。
つまり能力を引き出されたから“逸脱した者”になったのではなく、“逸脱した者”になれる能力だから選ばれた。
貴女の“かぐや姫”とて同じこと。それが元々あったから選ばれたのであって、逆ではないのです」
鶏か卵か、その順序の差異こそが重要なのだと目の前のわたくしは語ります。
「その中で彼女―――“南”が貴女を選んだ理由、そして初めて会ったあの瞬間、狂喜した理由があります。
それは、貴女が最初から“逸脱した者”になる存在であった……そもそも彼女が力を引き出さずとも、年月が過ぎれば自然とそうなっていたということです。
その喜びも無理ないことでしょう。
世界を壊せる存在を探すという難問に対し、世界そのものを力として持っている存在を見つけた。
理屈の上では存在が釣り合います。蟻一匹に巨人は殺せませんが、巨人と巨人ならば何の問題はないのですから」
何を言っているのかわからない。
世界そのものの力……?
「ええ、そうでしょう。ですから今からゆっくりと説明致しましょう。
わたくしに込められた月の眷属たちの結末を……そして理解しましょう」
目の前にいる“わたくし”はゆっくりと宙に浮いていた。
背後に夜の闇を纏いながら蒼い月に座すかの如く。
優しい眼差しが微笑んで告げた。
「ようこそ、月音・ブリュンヒルデ・フォン・アーベントロート。
貴女が月界の姫としての自覚を持ち、いずれ来るべき日に世界を遍く侵すことを歓迎致します」
語られるは数億年にも及ぶ永き策謀。
そして、それが求める結末を、このときのわたしはまだ知りませんでした。
と、いうわけで、月音先輩の一人称を「わたくし」と「わたし」で混ぜていたのは、このときのためでした!………でも今思うと、混ぜるタイミングを最初からにしないほうがもっと伏線的にはよかったのかなと思いましたねぇ。
もうちょっとだけ月音先輩視点をやって、ようやく主人公に視点が戻ります。




