230.月と踊る夜・裏(1)
好意を自覚したのはいつからだろう。
そう自問すれば心当たりはいくつかあって。
そのどれも違う気もするけれど、そのどれもが正解なような気もする、そんな不思議な感覚。
それが恋をするということなのだとわかったのは、つい最近。
彼のことを考えるだけで、あっという間に時間は過ぎていく。
一緒にいても何気ない仕草や言葉のひとつひとつに一喜一憂。
平静を装っているつもりでも、もし傍から見て不自然じゃないかどうかの自信なんてない。
甘く切ないこの胸の慕情がもどかしくもあり、それでいてとても大切だった。
卵から雛が孵ったときに見た存在を親と認識するように。
単に悪質極まりない相手から解き放たれて得た自由に酔って、それを成し遂げてくれた相手に恋をしていると錯覚しているだけではないのか、とそう自問したこともあったけれど。
どう思おうと、どう考えようと現実にこの胸に在る想いは変わらない。
だから純粋に嬉しかった。
海の家の話を誘われたときも、一緒に働いたときも、そして星塚へ誘い出してくれたときも。
その嬉しさの分だけ、腹立たしくなった。
だって、
「ひとつ乗り越えて成長したな、って思っても、次また新しい失敗をして…そんな繰り返しなんですよ。月音先輩を助けられたのだって―――」
彼がそんなことを言うから。
「―――あんな色々偶然に助けられて、じゃなくて……もっと、もっとちゃんと出来たはずなんです」
あれだけのことを成し遂げても満ちることのないその在り方。
それだけだったら良かったのです。
でもそれだけでは収まらなずに、続く。
「こんな自分だから、特に女の子にモテたりとかそういうのが無いのが当然だって思ってましたし、今でも心の底ではちょっと思ってます。だからわからないんです。
月音先輩の好意が本気だってことは理解してます。伊達や酔狂でそんなことを言う人じゃないってことくらいは知ってますから。
それでも、三ヶ月でしかないんです。本当にこんなやせ我慢しながら走ってるオレが、貴女に相応しいのかどうか、短い間だからこそボロが出てないだけでもっと長いこと一緒にいたらダメなところに幻滅されちゃうんじゃないか、そもそも応える価値があるのか、って」
吐露した心情は、取り除きがたいほど深く、棘がまるで茨のそれのように現在進行形で彼の心を締め付け刺さり傷つけ続けていることを教えてくれた。
その在り方は別段おかしいものではない。
根底にあるその感情は人として向上していく上での糧にもなる普通のもの。
それは―――
「……ジグムント・フロイトのInferiority complex、ですね」
誰しもが持つ可能性があるその名は劣等感。
何かと比較して自らを劣ると見做すその感情があるからこそ、彼は前に進んできたのでしょう。その事実そのものは至って普通。スポーツの世界でも勉強であっても、上を目指せば同じく上を目指す者と対峙し、その実力を比べあうことになるのですから。そして、それは確実に優れた者と劣った者という基準を生み出すことになります。
そのとき感じた劣等感を誤魔化す人もいれば、それを胸に抱いたままいずれ乗り越えてやろうと自らを鍛える礎と為す方もいて、目の前の彼―――充さんは後者。
踏み出したのはたった一歩。
それだけで目の前の充さんとの距離は一気に縮まり、手すりの前で並べる。
「Inferiority complex…?」
「劣等感、と言えばいいでしょうか。
充さんは……勝てない、ってそう想っていらっしゃるんですよね。出雲さんに」
劣等感そのものは仕方がない……とまでは言いませんけれど、身近にあれだけの人物がいればわからなくはないかとも思います。
スポーツも勉学も、そして外見も揃った全国レベルの剣道家、そしてさらには実は主人公である出雲さん。そして彼と綾さんに対する充さんの対応を見ていれば、なんとなく見えてくるものもあったのですから。
わたくしのその指摘に対し、一瞬きょとんとした表情を浮かべてから、ようやく腑に落ちたとでもいうかの雰囲気になる充さん。
「余りに身近に理想があるから、比べてしまう。
出雲さんならもっと上手く出来た、そう思うから………こんなにも失礼なことを仰るんですね、充さん?」
「失礼……?」
「ええ、失礼です。余りに失礼過ぎて怒っています」
それでもこれは見過ごすことなんて出来ません。
是が非でも伝えなければならないとの想いに駆られて言葉を続けます。
「貴方が抱える劣等感について否定はしません。
それがこれまでの充さんを形作っている……つまり劣等感も貴方そのものなのですから。それを昇華しようと必死に努力して頑張っている姿を笑えるほど愚かになんてなれません」
どんなに昏い感情に襲われても。
どんなに絶望的な状況に追い込まれても。
惑うこともあるでしょう。
見失うこともあるでしょう。
それでも最後には自らの二つの脚で立ち上がり、前へと進む意志。
それが彼からわずかでも欠けていたら、今のこの状況は生まれていないと断言したい。
「それでも貴方はその中でわたくしに凄くたくさんのものを与えてくれました。
想像できますか? あの伊達政次の手の中から一歩も抜け出せずに及んだこの十年以上を。なんとか逃れようといくつも試みましたし、外から機会が訪れたこともありました。
それでもその全てが無駄に散っていく、あの絶望してしまいそうな日々を。
そして、そこから救い出してくれた貴方をどう想ったか。
劣等感が有りふれたものだとして、彼がありふれた者かと問われれば違う。
むしろ彼は異常―――酷い言い方をすれば、どこか毀れている。
学校で伊達を倒し暴れていた充さんを皆さんと一緒に鎮静化させた後、運び込んだ病院で出された診断を見れば、あのとき、どれほどのことがあったのか想像するのは難しくありません。さらに言えば、操られていたときの記憶を持っていた聖奈さんが辛そうな顔をしながら語ってくれた、拷問から暴走に至るまでの経緯。
あれだけのことがあったのに、それが在り得たという事実以外を忘却でもしているかのように語れるだなんて。もっと上手くできたはず、という感想は次が似たようなことがあったら不覚は取らない、より最善の結末を求めるという意志表示。
一度やればもう懲り懲り、それどころかトラウマになって怯えても不思議ではないのに、もう一度あんな過酷な状況になるとしても同じように飛び込んでいけるとでも言うかのように彼は言う。
困っている人を助ける。
身近な人を守りたい。
自分の想うように道を歩みたい。
普通の行動を普通に行う。
どんな異変の中でも普通で在り続けようとするからこそ、普通から逸脱しているという矛盾。
でもそのカタチは歪であったとしても、とても綺麗な在り方。
たとえどれほど歪んでいるとしても、その在り方だからこそ彼によって救われたのですから、感謝と尊敬の念こそあれ、蔑んだり忌避する理由はありません。
そして………だからこそ許せない。
彼の高貴な歪さを彼自身が良く思っていないことが。
そのまま一方的に続けます。
伝えなければならないから。
わたくしにとっては出雲さんよりも貴方のほうが、ずっとずっと大事だって。
そして充さんが私にしてくれたことの大きさを。
変わる必要なんてない、今の在りのままの充さんでいていいのだと肯定してあげたい。
「―――貴方が自分をちゃんと評価出来るように、頑張っている姿を褒めてあげたい…そう思えるから、好意を告げたつもりですよ?」
そう言い切ったところで、ようやく少し冷静になりました。
…伝えなければと夢中になってしまい、一気に捲し立てるような形になってしまったことに気づき、内心気恥ずかしくくるのが止められません。
恐る恐る充さんの表情を窺ってみれば、まるで鳩が豆鉄砲を喰らったかのような酷く驚いた顔をしてから、徐々に嬉しいけれど素直にどうやって喜んでいいのかわからないとでも言うかのでしょうか、我慢しつつ少しだけ喜びを隠しきれずに出しています。
可愛い。
相手が自分よりも余裕がないと思えば、不思議なことにそんなことを考える余裕が出来ます。
そのせいで余計なことまでしてしまった、というのが後で思い返したときの言い訳。
「でもあんまり失礼ですから―――」
その衝動は蠱惑的でありながら圧倒的で、抗うなんて意識の片隅にすら浮かばず。
身体は最後の距離を詰めて、彼の頬にかすかに口づけた。
「…ッ!?」
予想外だったのでしょう、思わず充さんが振り向きます。
そうでしょう、当のわたくしですら思わずやってしまってから戸惑っているのですから。
顔が真っ赤になったりしていないでしょうか。
変に挙動不審になったりしていないでしょうか。
なんとか誤魔化そうとこれ以上ないくらい考え、
「―――お仕置きです」
そう言って微笑みます。
堪えていた何かが決壊しようとでもしているかのように、泣きそうになりながら、それでもこれ以上なく嬉しそうに笑う充さん。
わたくしばかり喋ってしまいましたから、今度は彼の言葉を待とうと思った瞬間―――
衝撃。
そう形容するしかないモノが体を襲った。
余りの勢いに体が妙な浮遊感を覚え、そのまま意識が暗転。
一体何があったのか、そのときのわたくしには知るよしもなかった。




