224.幻惑する魔術の徒
距離を取ったことで波動が少し弱くなったのだろうか。
胸に渦巻く圧倒的な昏い衝動が落ち着いたところで、エッセから話を聞きながら整理していく。
―――ラーヴァナ。
インドの大長編叙事詩に登場する魔王の一柱。
頭が10個、腕が20本という異形であると同時に銅色をした瞳、そして鋭く輝く歯と山のような巨体を持つと表現されているらしい。
とりあえず、アレだ。
形状だけで見ると間違いなく羅腕童子の上位互換にしか見えん。
羅刹の王にして、かつてファブニエルさんと相対したときにエッセが感知した“雲の咆哮”は彼の息子だと言う。
魔王は多聞天、毘沙門天とも同一視されるクベーラ神と戦って、ランカー国を奪取。息子である“雲の咆哮”はさすがのオレも名前を聞いたことあるくらい有名なインドラ神を倒して“インドラを倒した者”という名を得るなど、親子揃って厄介極まりない感じ満載である。
その魔王の逸話のひとつにコーサラ国のラーマ王子の妻シーターを誘拐した、というものがある。それが先ほどの
【無論じゃ。あの敵がかつて敵対する王の妻を攫った逸話を持つ“神話遺産”………“魔王”じゃからな】
というエッセの言葉に繋がっているというわけだ。
つまり、今回月音先輩が消えたのはその逸話の下となった能力ではないか、というのがエッセの推測。
「具体的にはどんな特殊能力なんだ?」
【晴明が話の端に載せた断片を継ぎ接ぎして推測するしかないから正確なところはわからぬが……あやつが言うておった特殊能力は2つじゃな】
思わぬ名前に顔を顰める。
どうしてあいつがそんなことを知っていたのか、という疑問はある。あいつがエッセと契約し活躍、というか暴れまわっていたのは基本的にこの国だったはずだ。時代的にそう簡単に他国に旅行できたはずもないし、遠くインドの神話というか伝説に謳われるような魔王と直接どうこうするような機会があったわけがない。
だがそんな問題はこの際横に置いておく。
大事なのはその能力の解明なのだから。
彼女が語った2つの能力とは、
“幻惑する魔術の従”
伝説にてシーター妃を攫う際、黄金の鹿を陽動としラーマたちを引き離すことで誘拐することに成功した逸話に基づく能力で、わかりやすく言えば強力な魔術による幻覚。
“破壊神の月刃”
正確には能力というよりも破壊神より賜った月の刃という名の武器。オレの羅腕刀のように使用者を固定された特殊な武具で、魔王の意志次第で常に手元に顕現する上、全ての腕に現れると言う規格外品。つまり20本もの腕を持つ羅刹王にとっては20本の伝説級武具と同義なわけだ。
【今回で考えるのならば、まず間違いなく“幻惑する魔術の従”ではないかと思うの】
幻覚……?
そう言われて思い出すのはかつて伊達に拷問されたときに見た、綾の死体を思わせられた幻覚。
いや、でもオレもそこそこ幻覚耐性ついてきたと思うんだけど…一応伊達から魔術技能奪ってるわけだし、あのときと同じ幻覚をもう一度かけられても見破る自信はある。
【“神話遺産”級の幻覚を甘く見るのは得策でないぞ。そのへんの凡百の魔術師によるものとは比較するのもおこがましい。
真に高度な幻は世界すらも容易に欺き得る。無論世界には修復力があるから欺いたままを維持するのに莫大な力が要るが、限定された時間、そして限定された範囲であれば不可能ではない。鬼首大祭や狩場の認識阻害の結界を見たであろう? 欺く対象が少なければ人の技術でも可能なのじゃ。それを為すのがさらに上位の存在であれば、主人公レベルですら欺けると思わぬか?
しかも先制し月音嬢に攻撃が加えたことに対する精神的な隙が生じることを計算した上で、そこを突破口として認識を欺く……手口としても周到じゃな】
………つまり、アレですか。
月音先輩が消えたと錯覚したのは全部幻覚に踊らされていただけだと?
【その可能性は高かろう。おぬしにとって、どこからどこまでが幻覚かの境は厳密に難しかろうが展望場でわらわが咄嗟に声をあげたあのタイミング、月音嬢に攻撃が加えられた瞬間までは間違いなく現実じゃった。
そう考えれば、おそらく最低でも展望場、最大でこの街そのものに幻をかけて、その幻に認識されていない空間に月音嬢がおる可能性が高い】
認識できない空間。
誰もそこにあることを理解せず、誰もそこに影響を及ぼそうと出来ない。
だとするのなら、それは異界と全く変わらない。
それだけで高度なことを為すことが出来る、それが“神話遺産”。今オレが相対さなければならない相手なのだ。
ま、わかればそれだけのこと。
それならそれでやりようがある。
まずやらなければならないのは、今の立ち位置。
何が幻で何が幻でないかの確認だ。
それさえわかれば、後は幻である場所からおおよそ認識できない空間の目星をつけることが出来るだろうから。
―――“簒奪帝”
随分と慣れた感覚が全身を包む。
使わせてもらう能力は決まっていた。
ギャカッ!!!
オレの瞳に開く第三の目。
具眼童子の“瞳”だ。
力の流れを見極めるその瞳に過剰なまでの霊力を注ぎ込んで、限界ギリギリまでその強度を高める。
狩場特有の霊力濃度ではあったものの、ひとまず視界の届く範囲に幻覚のような人工的な魔力っぽい流は感知出来ず。
単純に見破れていない可能性もなくはないが、周囲の風や月光のような他の流れは感知出来ているので正確に起動出来ているものと考えるしかない。
しかし…さすがに町全体だと範囲が広すぎるから、どこか一望できるところに行く必要があるな。
細かく見えないかもしれないが、エッセの言う通り“神話遺産”級の強力な魔力であれば多少距離があっても見えればわかるだろう。
まず範囲をある程度絞れないと効率が悪すぎる。
づぅ……。
額の瞳から一筋の血が滴り落ちた。
“神話遺産”である茨木童子よりも格下である具眼童子の能力で、“魔王”の幻覚を見破る。
それはさながら一流サッカー選手の相手を二流サッカー選手が、相手よりも2倍動くことでなんとか務めるのと似ている。強引に過剰な霊力を投げ込んで無理矢理最大出力を維持しまくっているだけだから、負担なのは当然だろう。
それに―――
脳裏に過るのは、天から降り注ぐ柔らかな月の光を纏ったかのような中で微笑む彼女。
自分にとってオレが他の誰よりも価値があるのだと、そう言ってくれたあの言葉。
―――時間をかければかけるだけ、彼女の無事な可能性が低くなる。
誘拐した(正確には隠した、と言ったほうが正しいのかもしれないが)のには、目的があるはずだ。それが彼女を直接害することなのか、どこかに連れ去ってしまうことなのか、それとも他の何かなのかはわからない。
だがどれであったとしても、時間を経過させればその分だけ救出が難しくなることは変わりがない。
ぞわり……ッ、ぞわり…ぞぞぞぞ、ぞわり……ッッ。
再び胸の中が喚き散らす。
圧倒的な負の感情。
もし、彼女に万が一のことがあったのなら、と。
そう考えるだけで昏い情念が音叉のように無数に共鳴しあい増幅していく感覚。
そして明らかにそれを誘導している、油に火を投下している存在。
つまり―――
「―――邪魔すんじゃねぇぇぇぇッ!!!」
振り返りざまに放つ左拳。
一瞬の無音。
そして轟音。
大気を劈くような激しい破裂音。
まるで鞭の先端が空気の壁を破ったときのような音だ。
ただしその大きさは比ではない。
反動で弾かれて飛ばされながら体勢を整えて着地。気づけばどこかの平屋家屋の屋根の上だ。
先ほどまで居た場所―――20メートルほど先の道路が陥没し、そこに拳を振り切った3本腕の魔王が居た。
オレの裡にある魔王の欠片が活性化する、ということはこいつが近づいているということ。
自己制御が難しくなるというデメリットはあるものの、接近に関しては気づきやすい。
「………ッ」
痛みに顔を顰める。
見れば左腕はあらぬ方向に折れ曲がっていた。
それも当然だろう。
拳同士のぶつけ合いならば、明らかに向こうとオレでは質量の差がある。例え鬼の膂力を使っていたとしても体重も違う上に、相手は“神話遺産”なのだ。
だからこの結果は当然。
「当たり前のことに、なに戸惑ってんだよ……?」
一瞬動きを止める魔王。
拳を振り切った腕だけ、一回り細くなっていることに気づいたのだろう。
流れ込む力を屈服させ蹂躙し咀嚼し飲み込む。
羅腕童子に似ているその異形。
ならば羅腕童子と同様の方法で倒せばいいだけなのが道理。
ぱき…ぐじゅ……ぱきき…ッ…。
鬼の再生力でみるみるうちに癒されていく左腕。
すでにそこには赤黒い気流が纏わりつき、さらなる簒奪の相手を求めていた。
シュアァァァァァ……ッ。
そしてゆらりと動くオレの体から吹き上がる煙のように濃度の高い霧。
それがゆっくりと街に広がっていく。
霊力の温存?
冗談じゃない。
もう覚悟を決めよう。
全部使い切ることになっても構わない。
自らの感覚の延長でもあるかのように煙狼ワルフの特質である霧を張り巡らせていく。
オレが具眼童子の能力で幻覚の箇所を探すのを、こいつが邪魔するのならば仕方ない。戦いながらワルフの体を最大化させることで霧を町いっぱいに広げ、その上で触れた個所を具眼の能力で見極める。
これなら、オレがここで足止めされていようが関係ない。霧が広がりきって、どこかで幻と接触するのを待てばいい。
無論―――
「―――こっちを先に全力でぶっ潰させてもらうけどなぁぁッ!!!」
朱と黒の爆発の如く。
左腕から発生された気流がオレにまとわりつき、流線型の甲冑にも似た形状を形成する。
荒れ狂う。
在れ狂う。
有れ狂う。
湧き出る激情は激しさを増す一方で、その勢いは己すらも傷つけていく。
何者かに内側から貪られるかのように、全身の血液が踊り痛苦を訴え始める。
だがまだ始まったばかりだ。
ここで膝を突くわけにはいかない。
すでに理解したのだ。
先ほどの一合で。
“簒奪帝”で簒奪できる以上、問題なくこの相手を下すことは出来る。だがそれは―――
―――内部における浸食を旨とする“魔王”をどんどん取り込んでいく行為。
つまり勝利に近づけば近づくほど、屈すれば敗北に至る痛苦が増大するということ。
だがそれがどうした。
家族、名前、居場所…。
喪ったものはいくつもある。
そんな中で得られたもの。
それを喪わないためなら何だってするさ。
増して―――
“それでも貴方はその中でわたくしに凄くたくさんのものを与えてくれました。”
―――あの笑顔を喪うのが、どんな痛苦よりも恐ろしく、深い絶望なんだと今更ながらに自覚しているのだから。
夜空に咆哮が響く。
それが羅刹のものなのか、それともオレのものなのか。
理解できないままオレは戦闘を開始した。




