182.茨木童子に纏わるエトセトラ(1)
純白の空間。
空間自体が白いのか、それともそうと感じさせる光が満ちているのかの区別はつかない。
だがどちらでも構わない。
やるべきことは唯一つ。
この白を侵す。
裡に潜む羅腕童子によれば、今までオレがいたのは茨木童子という存在そのものの中、そのうちの羅腕童子の世界らしい。わかりやすく言えば太陽系の中の地球、みたいなニュアンスだろうか。さすがにそこまでデカいわけではないが。
ゆらり、と背中から“騎”が顕現する。
その数は8本。
一気に体から八方へと伸ばす。
あらん限りの力を込めて伸ばし、そして空間の壁と思しき抵抗を突き破る!
ビキビキと腕が突き刺さった場所からその周囲の空間へ黒いヒビが走っていく。
傍から見れば
今までのように強制的にその力を使っていたときとは違い、自ら捧げられた羅腕童子の力はその能力をさらに強化していた。漆黒の甲冑の如きその腕にさらなる強度を、その手先の動きにさらなら繊細さを、そしてその操作を容易くするさらなる伝達能力を与えている。
どう取り繕っても元々体に腕が2本しかない人間が、無いはずの3本目以降の腕を操るのだから違和感が出るのは致し方ない。事実、これまでは“騎”を使う際、そちらに力を集中しながら、その違和感を補うためにかなりの意識を裂いていたし。
手足が自由に動かない赤ん坊が少しずつ感覚を馴染ませていくように、本来であればその違和感を消すのにも時間が必要だ。
だが今は違う。
10年やそこらでは利かない、人にあらざる者に許された時間。
それを腕の使用に費やした鬼の経験がこの身に存在しているのだ。
今や全ての腕を好きなときに好きなものを好きなように、利き腕同然に操ることの出来る感覚が在る。
だから、
「さぁ、男の子を見せつけてやりますか…ッ!!」
羅腕童子の目的、それは茨木童子の解放。
それは別に肉体的な話に限らない。
宴禍、幽玄、具眼、静穏、悠揚……そして羅腕。全ての分霊が揃った今、茨木童子は肉体的には解放されている。実際バカデカい鬼として封印を破ってきたところと戦っているし、オレを吸収したことであの羅腕の記憶の中の白い娘さんが茨木童子の本来の姿に戻っている可能性こそあれ、なぜかまた封印されている可能性は低い。
………あー、でも八束さんあたりに倒されちゃうという可能性は結構あるな。早いところなんとかしないと巻き込まれそうだ。
ちなみに洞見童子が分霊じゃなかったというのは、すでに羅腕童子の情報によって確定している。じゃあアイツはなんなんだ、ということで正体が気にはなるけどもひとまず放置しておこう。
茨木童子は酒呑童子こと榊さんの部下とかいう逸話があるし、そうなれば別の部下が復活させようとしてもおかしくはないわけだし?
話を戻すとして、求められているは精神的な自由。
公長の感覚で記憶を探ってみたところ、そもそも茨木童子にはとある目的がありそれ以外にことに関してはかなりどうでもいい性格だったらしい。
それこそ人を喰らうことすらどうでもいいという本能ガン無視な、鬼としてはかなり異端の存在。
ならばその目的を知り、目的そのものに問題がなければ伊達が何やら色々細工してるっぽい企みごとぶっ壊して解放してやれば全部収まるんじゃないだろうか、と考えるわけだ。
そもそも榊さんとか茨木童子以上の鬼が社会に溶け込んでいるわけだし、うまくいく可能性は十分在る。
………でも榊さんもこっそり裏で人喰ってるとかだったらマズいよな。あのお店、別の鬼もいたわけだし…怖いから今度調べてみようかな。
さて、生憎と手段は限られていう。
というかひとつだ。
この空間ごと茨木童子の力を簒奪していく。
鬼の身体構造は想念と力だ、というのは再三言われてるし体感した。
だから外から力を奪うのではなく、中から力を取り込むことでその核となっている想念を少しずつ切り取っていく。それを読み取れば目的だってわかるだろう。
ビキキキ…ッ。
腕が突き刺さっている8つの空間の歪み。その周囲に、もはやヒビとは言えない亀裂が走っていき、そしてそこを縫い合わせるように、朱に染まった血管のようなものが張り巡らされていく。
“簒奪帝”―――発動。
―――暗い暗い室内。
埃だらけのそこはお世辞にも手入れが行き届いているとは言えなかった。
彼女が発生したすぐに目にしたのは、そんな光景。
生まれたてとはいえ、想念が持つ知識は在る。
壁、床、扉、天井。
だがそれを活かせるかはまた別の話。
客観的に見ればそこは彼女のような存在が発生するように仕組まれた場所であり、その痕跡もあったのだが生まれたばかりの存在がそんなことに気づける筈もない。
初日はぼんやりと過ごした。
窓もなく扉らしきもの以外は四方を壁に囲まれた空間では時間の間隔もなく、朝夕の区別すらつかないからあくまで体感的に、だが。
発生したてで自己がまだ希薄なせいもあり、翌日も何をすることもなく時間だけが過ぎていく。
己以外の他者を初めて認識したのはさらに翌日―――発生して三日目のこと。
静かに虚空を見つめている自分をまじまじと見てくる女。
病的なまでに土気色の顔、憎々しげに歪んだ顔。普通にしていればそれなりの美人だろうに、今の女からはそんな印象は微塵も受けない。
その女は彼女に白い衣を纏わせた。
恐る恐る、といった風のもどかしい動き。
ああ、きっと自分を怖がっているのだろうな、と素直に感じた。
意味はないし、なぜ怖がっているのか、という理由もわからないのに。
少しすると、もう一人男がやってきた。こちらも端正な顔立ちで女よりも何やらたくさん衣を身に着けている。あと顔の上に黒くて長いものを載せていた。
女は男を見るとこう言った。
成っております、と。
何か嬉しいことがあったのだろう。
男は小さく笑った。
簒奪した力の断片に込められた想念の記憶。
さらに力は吸い込まれていき、続く。
それから幾許かの時間が流れ、ようやく自らの意識がはっきりとするまで自分はずっと一人だった。
三日目にやってきた男女はあの後すぐに立ち去って姿を見せていない。
お腹が空くと何か食べなきゃいけないものがあったような気がしてくるが、なぜかここから動くつもりになれない。それに室内にいくらでも食べるものがあるのに、別のものを探しにいくのは面倒。
ごくり……ごくり…。
だからどこからか集まってきて充満する霊力を飲み込み、腹を満たした。
全てが満ちていた。
欲しいものは無く、必要なものは在る。
だから彼女はゆっくりと瞳を閉じた。
どこからか音がする。
それは優しい子守唄。
追い落とした貴族を恨み、追い立てて土地を奪った豪農を恨み、そして家族を奪った賊を恨む呪い言葉。
だから彼女は安らかに寝息を立てる。
宴禍の身体能力を奪う。
そしてさらに奥へ、さらに奥へ。
奪っても奪っても満たされることのない怒りこそが本性。
敢えて止めること無く、さらに進む。
おかしいな。
なんとはなしに彼女はそう思う。
扉から変なのが入ってきたから。
ぎょろぎょろする目と尖っている額、おまけに前に見た男よりも遥かに大きくて、肌は真っ黒。
おなかが空いているのだろう。
唸り声をあげて腕を振ってきた。
よくわからないので同じように腕を振ってみると、大人しくなった。少し待ってみたけど、あんまり静かになるので、おなかが空きすぎて動けないかな、と思い霊力を握って投げてみた。
でも食べない。
顔から丸いものがふたつ飛び出ていたり頭が半分くらいの大きさになっていたり、体がみっつになっていたりするまま動かない。
眠いのかな、と思って放っておいたらいつの間にか消えてしまった。
なぜかお部屋のご飯が増えていることに首を傾げていると、子守唄が聞こえてきたのでまた眠った。
あれから変なのがたくさんやってきた。
なぜか全部すぐおなかが空いて寝ちゃうのは一緒。
でも凄い発見をした。
自分の額も尖っていたのだ。面白くてぺたぺた触っていたら、ムズムズしてきたのでそのムズムズを無くそうとしたら、大きな音がして一瞬眩しくなった。
思わず瞑っていた目を空くと、壁がいつもと違う感じになっている。上が青かったり、下が緑だったり。面白くてずっと見ていたら、前にここに来た男の人が凄い勢いで扉から出てきた。
「まさか……これほどの―――」
何かぶつぶつ言っているのを聞いていると、子守唄が聞こえてきた。
まだ眠くないから、静かにして欲しいのに。
それでも子守唄は続く。
まだ起きていたいの!やめて!
そう想ったら、壁の向こうからバタバタという音がして静かになった。
「は、ははははッ!! そうだ! それでこそだ! 素晴らしい!!
同じ鬼ですら戯れに圧殺する身体に、壁を三層も破壊する雷撃、呪詛返し。
誕生して数年でそれほどの力……やはりこのやり方で作った鬼は完璧だ!!
よし、すぐに名を付けて―――」
男は歓喜に満ちた表情で叫ぶ。
名、というのは知識に在った。
自分がこの世界に在る証。
そんな大事なものが自分にも貰えるんだと思うと嬉しくなった。
男がとても嬉しそうだったので、自分も嬉しくなったまま力いっぱい喜んでみる。
また眩しくなった。
目を空けてみると、何も無かった。
名をくれると言った男も、壁も、天井も。
幽玄童子の揺らぎを奪う。
そして理解する。まだもっと先が在ると。
ならば目の前にぶら下げられた御馳走(ち か ら)を我慢する必要がない。
さらに進む。
待っている。
ずっと待っている。
でも今までいくらでもやってきていたご飯も無いまま、子守唄も聞こえて来なかった。
名をくれると言った男もどこかに行ったまま、戻ってこない。
お腹が空いた。
待っても待っても待っても、誰も来ない。
あまりにお腹がすいていると、ご飯の匂いがしてくるのでふらふらと歩き出した。
美味しそうな匂い。
途中まで来ると、その匂いは二つに分かれていた。
すっごく美味しそうな匂いと、いつも食べていたご飯の匂い。でもすっごく美味しそうな匂いはちょっと遠かったから、いつものご飯で我慢しよう。
進むと、森の中お水が上からたくさん振ってくる場所に出た。これが滝というのだと知識が教えてくれるけれど、あまりの空腹でそこから同じように湧き出ていた霊力へまっしぐらに走った。
……なぜかいつものご飯よりもちょっと食べやすくて美味しかった。
満腹になると寂しくなってきた。
子守唄もない。
名前も貰っていない。
よく考えたらどう歩いてきたか覚えていないから、元の場所にも戻れない。
寂しくて考える。
そうだ、独りじゃなければいいんだ、と。
湧き出る知識がそれを可能にした。
“従鬼創造”
本来であれば術師のみが可能とするその技を、自らの膨大な霊力による力技で行う。
湧き出す霊力を次から次へと食べ、自らを肥大化させ分離する。
生まれてからずっと霊力だけを食べ続けたがゆえに行える所業。
分霊が生まれる。
ふと彼女は思う。
名をどうしようかと。
生まれた分霊は一つの確立した個体でもある。
名をつけねばならない。
混ざった想念の知識を漁る。
そして考える。
ずっとずっと考える。
考え始めてから何度太陽が昇った頃だろうか。
想いを込める。
独りはつまらない。
だからみんなで居れば楽しいはずだ。
みんなで楽しく過ごす、そう毎日宴を開くくらいに。
“宴禍童子”
鬼の宴。
その名をもらった瞬間、急速に分霊は形を変えた。
纏う衣は彼女と同じ白。伸びている紫紺の髪が風に揺れる。
身長は少しだけ彼女よりも高く、角の生え方が左右のこめかみのあたりからで、二本あるというところも大きく違った。
完全に形を取った女―――分霊はゆっくりとその瞳を開けた。
「………わぁ」
本当に独りじゃなくなった。知識にはあったし出来るということはわかっていたが、それと実感は別物らしく、彼女は目を輝かせる。
「よろしくね、宴禍」
「……はい」
少し頼りなく宴禍童子は頷いた。
まだ誕生したてで自我が完全に確立していないからだろう。彼女自身、今のように意志を自由に持つには数日を要していたのだから。
具眼童子の精緻さを奪う。
分霊の生まれた理由が孤独に対するものだったことに、少し驚く。
だがそれも道理か。
鬼は人の想念を基にしているのだから、感情の機微の影響がゼロだとは断言できない。ほとんどの鬼はその本能が強く上書きされているから、鬼としてしか行動できないだけで。
さらに先へ。
もっと先へ。
名の無い鬼の旅路は続き。
そして侵攻如き簒奪もまた続く。




