180.将たる誓約
ひとつの世界が終わった。
そしてまた、ひとつの世界が始まる。
どれほどの年月が過ぎた頃だろうか。
数えるには長すぎて、微睡むには短すぎる、そんな体感を経て仄暗い崖の底で蠢き立ち上がる存在があった。
最初は白骨の散乱した地面からゆっくりと黒い染みのような塊。
それがゆっくりと数日かけて異形を形作る。
意識が目覚めたのは唐突。
まだ覚束ない自らの存在。
だが何をすべきなのかは理解っている。
ずるり…と。
己の体を引き起こす腕は4本。
およそ人ではあり得ない膂力を誇る隆起した肉体。
そして己が何者であるのかを主張するように存在する角。
紛うことのなき鬼。
かつて公長という人であったモノ。
ある種僥倖と言っていいだろう。
そもそも鬼が自然発生する条件は限られる。
想念が集まりやすく、そして霊脈から霊力が何らかの形で一定量供給され続けること。
この場所は本来であれば条件を満たしていない。
ただの谷の底で霊脈からも外れている。
今の状況下で鬼が自然発生するのは普通あり得ない。
いくつかのイレギュラーが無ければ。
本来であれば足りぬ想念。
だが鬼の呪いを受けるほどの強靭な人間の意志より生まれたそれが質で量を補い、尚且つ受領の兵が奥木村の狂人たちの遺体を投げ捨てることにより想念と成仏できない魂、すなわち霊力の塊が霊脈の不在をそれぞれ補った。
またそのときの事件がどのようにして伝わったのか。
奥木村の次に新しく起こった村においては、埋葬することの出来ない余所者や罪人、死因のはっきりとわからない死体を放り込むような風習が出来ていて、それが長き年詰み重ねられたことも鬼が生まれた理由だろう。
だがそれは生まれたての鬼にはわからない。
その事実が在ったことだけは既知だとしても、それに対して何も考えたりはしない。すでにこの存在は鬼なのだから。生まれたての鬼にとって、人の理など路傍の石にも等しい。
感触を確かめるかのように腕を複雑怪奇に動かした後、鬼はふと上を仰ぎ見た。
崖の間から見える空は蒼い。
その空を掴みとろうとでもするかの如く腕を伸ばす。
伸ばした腕で岩肌を掴み、膂力と複数の腕に任せ軽々と崖を登り切る。
公長という人間の想念を核として生まれた鬼ではあったが、形を為すまで長く多くの異物を取り込み過ぎその本性は変質し確立していた。
何を求め何を願った想念なのか、その最初の想いはすでに摩耗し擦り切れ静寂に沈んでいる。核として残りはしても行動に影響を与えるほどではない。
だから求めるのはただ鬼の性を満たすことのみ。
その在り方はこれ以上ないほどに鬼らしい鬼。
喰らった。
まず最初に犠牲になったのは奥木村があった場所に出来ていた村。
鳥彦が興したのか、はたまた別の人間が作ったのか。
そんなことすらどうでも良いとばかりただその飢えを満たした。
喰らった。
さらに隣の村を。
老若男女拘りも隔てもなく。
ただその衝動にその身を任せ暴れ、そして暴食を重ねていく。
喰らった。
いくつかの村を襲った後にやってきたのは時の受領の兵たち。
貧弱な武装で立ち向かう脆い愚か者たちの集団など、大皿に盛りつけられた料理に過ぎない。
半数が喰われ戦意を失い逃げていく者たちをその長い腕で掴み引き裂いては咀嚼した。
喰らった。
襲った村人が自分を誰かと勘違いするのが面白かった。
大江山とかいうところに大層な鬼がいて、そいつがやってきたんじゃないかとわぁわぁ騒いでいる。
活きがいいので丸呑みしてやった。
喰らった。
目につくもの全ての生き物をただひたすらに。
無論それは人のみならず、動物も、そして同族ですら例外ではなかった。
喰らった。
また兵がやってくる。
そいつらが謎の名前を呼んでいることに首を傾げていたが、それが自分のことを呼んでいるのだと思うと楽しくなった。
それが“羅腕童子”という鬼が誕生した瞬間だった。
喰らい喰らい喰らい喰らい、喰らった。
日常に倦んでは喰らい、闇夜に踊っては喰らう。
喰らえば喰らうほど、その力は研ぎ澄まされていく気がした。
そんな中出会った。
5匹の従僕が守る白き鬼に。
全てが若い娘だった。
六鬼すべてが鬼らしからぬ容貌で、角さえ隠せば人間だと騙すことも可能だろう。鬼である彼にはすでに理解しえないことだが、いくらでも異性が寄ってきそうなそれぞれの美しさがある。
力だけが全てであった羅腕童子にとって、自らと同じだけの強さを持つ者を5匹も従僕に持ち、さらに自らはそれを超える純白の鬼の存在は衝撃的なものだった。
同格が5匹。
それは完全に絶望的な戦力比。
だが喩え自らが最も年若い、生まれて月日が浅く脆弱な鬼であったとしてもそれを受け入れられるかどうかは別問題である。
勝算無きまま、そして戦い敗れた。
だが敗れた彼は殺されず誘いをかけられた。
一緒に来ないか、と。
酒呑童子という名の鬼の大妖が根城にしている大江山に向かっている旅の最中らしい。
白い鬼は言った。
―――名前が欲しいの、と。
その誘いを請けたのに大した理由はない。
ただ本能のままに動いていた鬼が頷いたのは単純に強者に従っただけだ。
そこで見えていた情景が消失した。
どうやら見せたいものはここまでだったらしい。羅腕童子が彼女たちとここからどういう関係を築き、そしてどういう経緯を経て封じられたのか、そういった情報は無い。
暗い何もない闇の空間。
そこにオレがただひとり佇んでいるだけの状態。
否、誰かが居る。
居るのがわかるが認識は出来ない。
だが空間に意志が満ちていた。
その溶け込んでいる意志は相手の隠された想いすらも、オレに理解させる。
「…………後悔、しているのか」
贖罪を乞うつもりなどはないのだろう。
罪は背負っていくものであり、いくら謝罪されようが贖われようが、加害者の自己満足にこそなっても相手にとっては慰めにもなりはしない。
この魂はそんなことを望んではいないことはわかる。
それでも、後悔しているかどうかとは別問題だ。
そして同時に理解する。
そう思うことができる、ということはつまり―――
「公長」
名を呼んだ瞬間、暗闇の中に一人の男現れた。
先ほどまで映像で見た随身がそのままの姿で。
“簒奪公”で初めて取り込んだ相手。
オレに奪われた際、鬼の再生能力やその他の能力に分解して吸収された。鬼として誕生するまでに混ざり合った雑多な想念と力が剥ぎ取られ、結果として羅腕童子の核となる彼がむき出しとなり、以後は公長としての部分が強く顕現するようになったのだと理解する。
つまるところ、羅腕童子の真の意味での本質であり、同時にオレをこの世界に引きずり込んだ張本人。
「………戸惑い、か」
はっきりと輪郭を現した公長から伝わってきたのは戸惑い。
やりたいことはある、そしてそれこそが正にオレにこの光景を見せた理由。
だが同時に剥き出しになった公長自身として、これまでの羅腕童子としての在り方に疑問を抱きその存在に疑いを持っている。結局のところ息子を救うことすら出来ず、ただ鬼となり果てて災厄をまき散らしただけのその現実を見れば、良識ある人間ならそれも当然か。
だが、
「意味は…あるんじゃないのか?」
その世界を見てきた者として言うべき言葉はある。
過ぎてしまった過去の犠牲者を悼む気持ちはあるしその所業を肯定するつもりもない。だがそれを裁く権利があるのは被害を受けた人たち自身であって、オレではないのだ。
だから言えることはたったひとつ。
「あんたの息子を助けようとしたその想いは……無駄じゃなかったんだと思うよ」
喩え本人が救いきれなかったことをどれほど絶望しているのだとしても。
鬼として腕を伸ばす形状を選ばせるほど、すべり落ちる腕を再び掴むことの出来なかった腕を口惜しく思おうとも。同様に腕を増やさせるほどで、手が塞がった状態で受けた不意打ちを悔いようとも。
なぜそう思うのか、と公長が問う。
そんなものは簡単だ。
「だって……あんたの中に息子がいなかったじゃないか」
答えはすでに用意されていたのだから。
鬼は想念を核と為す。
公長の想念を基に蓄積されていった他者の魂が羅腕童子を作り上げたことは間違いない。だがそこに公岑のものは無いのだ。
勿論想念の強い弱いは個人差があるようだけれど。
「助けられなかった父親を恨んでいたのならば、自分が殺されることに対する憎悪があれば……その想念が残っていたっておかしくないだろ?」
つまるところはそういうこと。
あの子は何も残さなかった。
それは、結局有り体に言えば未練を残さずに成仏しているのだということ。
だったら都合のいい方に考えたほうがいいじゃないか。
これっくらい周囲に迷惑をかけるほどに息子を愛していた父親の想いを、息子がしっかりと受け止めていたと考えなきゃ本当に救いがない。
「それでも届かなかったことを悔いているんなら……今から始めればいいんじゃないのか?」
びし……。
空間を満たすほどに感じる鬼気の中、彼が求めているものなんてのは簡単に感じ取れた。
だから言う。
こんなところでウジウジしている暇なんてありはしないんだ、って。
「もう過去は変えられないし変わらない。
もしかしたら鬼として死んだ後、あんたは羅腕童子が殺した人たちに責められ地獄で償いをさせられるのかもしれないけど……いや、そんなとこがあるかどうかはわからないけど、そういうのはそのとき考えればいいだろ。
一度失敗したかもしれない、届かなかったかもしれない。
でも次の機会が目の前にある。
再び成功させたい、届かせたいものが在る。なら今度こそは届かせりゃいいだけじゃないか」
ばき…ッ…ぱき…ッ。
「それでもまだ動けないっていうんなら、オレがやってやるよ!
喩え不本意で望まないことだったとしても、鬼となってまで手を伸ばし続けたからこそ、今度こそ成功するんだってことを教えてやる。
だから行こう、羅腕童子。仮にも一度オレを殺しかけた鬼なんだ。
文字通り、さっさと腕を伸ばそうぜ!」
感じとった彼の願い。
何も知らなかったときなら、ちょっと躊躇しただろう。
だが今なら叶えてやるのもやぶさかじゃあない。
羅腕童子でない。
鬼の所業を悔いる公長という男の願いであるのならば、きっとそれだけの理由があるのだ。
ここまで来てしまった以上、それを信じるしかない。
びしり…ッ!
一言一言を紡ぐと同時に罅の入っていた空間が砕ける。
がらがらと砕けた空間の破片が粉雪のように白く光を放ちながら舞い散る。
その光景に視線を向けることしばし。
気づけば公長の姿は消え、目の前に片膝をついて控える一匹の鬼が居た。
その名は最早言うまでもない。
「………三木充よ」
その紡ぐ声は紛れもなく公長のもの。
雑多な想念が混ざり合っていたときの鬼ではない。
元随身の想念に場に満ちる純粋な霊力のみが纏わりつき肉体を構成した鬼。
「その言、偽りはないか」
問いの内容とは裏腹に、その言葉の響きに疑っている色はまるでない。
つまるところこれは儀式。
「ない」
ゆっくりと頷く。
ぞくりと背筋を走るものがある。
これは誰の歓喜か。
鬼はその貌をあげた。
「ここに誓約する。我、羅腕童子はここに貴公を主と認め、ここに名を捧げる。
その志が先ほどの言の葉の通り、生き様を示し続ける限り“尾張公長”の名の下に共に歩む覚悟を決して忘れない」
鬼が一本腕を伸ばす。
オレに向けたその腕から、ずずず、と一本の持ち手が顔を出した。
一瞬戸惑うものの、意図するところに気づき静かにそれを握る。
一気に引き抜いた。
ずるり……ッ。
まるでどこかの岩に刺さった剣を引き抜いた英雄のようだ、と捻りのない感想を浮かべるオレの手の中に、一振りの刃が納まっていた。
舞い落ちる光粉を受けて鈍く輝く白刃。
刃の銘は羅腕刀。
真っ直ぐ剣の切っ先を向けるオレと、そして傅く羅腕童子。
さながら王と、それに忠誠を誓う騎士の如く象徴的な光景。
徐々に消えていく羅腕童子。
その力はこれまでと同じように“簒奪帝”の中に戻り満ちていく。
強制的に奪ったときとは比べ物にならないほどの力と制御のしやすさと共に。
かくして帝は将を得た。
率いる軍勢が目指すは唯一つ。
狂った企みに囚われた白い鬼の解放。
千年に渡る鬼の牙城を崩すための進軍が、始まる。
“千殺弓”の罠が玉座の少女を捕えるが先か。
それともその企みごと簒奪帝が食い破るのが先か。
全てはその進軍の果てに用意されているのだろう。




