168.止められない刻
鬼首神社。
山ひとつまるごとを使っているその巨大な神社では、今まさに古の鬼を巡る戦いが佳境を迎えようとしていた。
だが山の中腹以上で行われているその戦いを人々は知らない。知ることが出来るのはそこに参加できる者たちのみ。
中腹に設けられた仮の社を祭り境内で露店を巡る。お囃子や花火の音が盛大に響く中、一般の人々は祭りを楽しんでいる。
それはある意味幸せでもあり滑稽でもある。
例え結界で隔離されているから影響はないと言っても、薄皮一枚隔てた世界でそのような脅威があることを知らずに日々を生きているのだから。
大多数が属する常識の世界、そして今戦いが行われている者たちが属する非常識の世界。その境は常に曖昧であり、それは千年の昔から変わっていない。科学の発達によって闇が薄れたり形を変えたりといった小さな変化はあるが。
その光景を眺めるひとつの影がある。
山でいうところの8合目ほどになるだろうか。
一本だけ小高く成長した針葉樹の上にそっと立つその人影に気づくことが出来た者はどれくらいいるだろうか。そのような位置に誰かいるとは思わない、というようなそういった理由ではない。
“隠”と呼ばれる存在秘匿能力。
そこにいるのにいない、認識させない。
それこそが鬼の名前の由来であるというのであれば、彼ほど鬼らしい鬼もいないということになろう。
「……やはり流れは変えられませんか」
これ以上なく激しい存在が語る穏やかな口調。
言の葉が風に流れる。
―――……オ……ォ…ォォォォン。
山から鳴動する鬼の声を聴いているのは、黒いス-ツ姿をした初老の男だった。
銀がかった白髪をしており、しっかりと整えられた口髭が印象的だ。オールバックに固められたその額上部からは古木を思わせる重厚さを醸し出す捩じれた角が見える。
―――男の名は、榊と言った。
正体は千年以上昔、強大な力を意のままにし無数の鬼たちを引き連れ暴虐の限りを尽くした酒呑童子。この国でも最強の一人に数えられる存在だ。
その彼がここにいる理由。
それはここに封じられた古の鬼がかつて彼の家族であったから以外にない。
正直なところ封印が解ける解けないについてはどちらでも構わない、と男は考えていた。
かつて自らが急襲猟団「源」の者たちに敗れた後の有り様については伝聞でしかわからないが、本人が望んで今の状況に在るというのであればそれに手を出すのはおこがましいし、逆に放置をした結果復活をするのであればそういう時期だった、ということなのだろう。
無論封を破るときに直接助けを求められたり、その後頼られたりすれば手を貸すこともあるかもしれないが。
彼が危惧しているのは、そこだ。
復活が本人の意志なのかどうか、そしてその後どうしようとするのか。
その内容次第では一時的に力で抑え込んで大人しくさせる必要があるかもしれない。
今は平安の昔ではない。
使いや噂話くらいしか情報のやりとりが無かった時代とは変わり、多大な害をなせばすぐに情報が伝わりそして追い立てられることになる。そしてやってくる相手はあの狼を筆頭とした政府機関や主人公たちである。
単純な力押しだけで全てを敵に回して勝てるわけがないのは、かつての彼が証明していた。
「そちらもそのおつもりのようですな?」
「……あー、バレてしまっていたかぁ。さすがにこれほどの大物相手じゃあ仕方ない」
背後にあるもう少しだけ低い杉の木の上。
作務衣を着た鬼―――洞見童子の姿があった。
「大物、というのなら貴方も同様でしょう」
「ありがたい評価ですが、ボクはそちらの配下だったあの方の分霊に過ぎない身。確かに“名持ち”の鬼ですが、そこまでは―――」
「見くびるなよ、小僧」
にこりと榊が微笑む。
ただそれだけにも関わらずどのような鋭い刃物よりも攻撃的な行動だった。
「身内の鬼気と紛い物を見分けられんとでも思ったか?」
「………まいったな、こりゃ。結構上手く作ったつもりだったんですけど」
やや戸惑いを浮かべる洞見童子。
だがそれだけだ。
「言ってるのが、結果次第で手を出す、ということなら正解。
元々は結果なんて関係なく手を出す予定だったことを考えればこれでも穏やかだと思いません?」
「それを許すとでも?」
「あー、逆に聞きますけど―――」
正体を看破されたことで開き直ったのか、ただ一匹の“名持ち”の鬼に過ぎない存在感が急激に膨張する。それこそ酒呑童子と同等以上に。
「―――できないとでも?」
ぱき…ぱき…ッ。
軋む。
この程度、強大な力の持ち主同士が本人たちににしてみればその意図はないとしても、威圧し合う影響は周囲に影響を与えている。互いが立っている木を含むあたりの木々が軋み枝が数本折れて落ちた。
だがその程度のことを気にする“神話遺産”保有者ではない。
「そう、そのほうが似合っておりますよ。取り澄ました演技よりもずっと」
「でしょう?」
さらりと煽り本性を引き出した者。
そしてそれを知った上で敢えて見せた者。
どちらが上手で巧者なのかこの場で窺い知ることは出来ない。
ただ榊の胸中にひとつの疑念があった。
相手が自分のクラスにあるということは“神話遺産”保有者であることは間違いない。というよりもその種類はともかくとして、このレベルの力があれば“神話遺産”として評価される、というのが正しいのだ。
だが気配が違う。
“神話遺産”として今一瞬表から感じられた力を一本のレールとするならば、列車のレールのようにもう1本何か別のレールがあるような。
異質な力の混在を感じた。
だが戦うのならばともかく、こうして会話をしている程度ではそれ以上詳しいことはわからない。
「そんなに心配しなくても手は出しませんよ?
後輩をからかう程度の趣味はあっても、それ以上しようとは思いませんから。今は」
その言葉にいくつもの意味が込められていることなど榊にはわからない。
だがそのまま気配の消えた洞見童子を追おうとはしなかった。
―――……オ……ォ…ォォォォン。
耳に届く徐々に強く。
刻が迫っていた。
□ ■ □
鬼首神社、本殿。
幾重にも厳重な結界が張られたその場所。
そこは鬼首神社が始まって以来ともいえる未曾有の事態に置かれていた。
本殿を守る結界に対し攻撃を繰り出す“名持ち”の鬼が二匹。
宴禍童子。
悠揚童子。
片や一方はその強靭な膂力に任せた拳と纏っている衣服の裾を硬質化させぶつける、という物理的な衝撃で。
片や一方は結界へ手を向けたままただ硬直しており一瞬何をしているのかはわからないだろう。結界がその手の揺れと同調して震えていなければ、の話だが。
そして重厚な結界の内側、彼女らの向こう側に立っているのもまた二人の女性。
天小園咲夜。
天小園聖奈。
鬼首神社の封印の要であると同時に最後の守りでもある巫女たち。
鬼が壊す。
巫女が直す。
鬼が毀す。
巫女が直す。
上位者の足止めを突破した宴禍童子たちがやってきて、結界の破壊に取り掛かってからというものひたすらその繰り返しが行われていた。
あとは今夜一晩しか時間のない鬼たちにとってはまどろっこしいとしか思えない時間。
だがその趨勢はすでに決しつつあった。
「お姉ちゃん……」
「……わかっています」
鬼たちの攻撃で破損していく結界から目を逸らさず修復を続けながら声をかけた咲夜に、聖奈は静かに頷くそぶりを見せた。
どちらも諦観の表情ではない。
ただ現実を受け入れ足掻く覚悟のある表情だ。
その現実とは目の前の攻防に他ならない。
一見拮抗しているように見える攻防だが本来結界の修復などというものは、それ相応の道具を用いて時間をかけて行うべきもの。すでに張られていた結界を活かして毀れた個所を修復することで時間を稼いでいるがそんな無理を続けていれば消耗が大きすぎる。
“上位者”である聖奈や主人公として一人前である力量の持ち主たる咲弥だとしてもそう長く保つわけがない。無論、並の術者であれば即興で結界を1,2枚張れば霊力が枯渇することを考えれば十分過ぎるのだが。
そして更なる消耗を誘う要因があることも問題だった。
背後の本陣。
そこに祀られている鬼の首である。
すでに4つの社の封印が解けた古の鬼は最後の封を残すのみとなり、今にも復活しそうなまがまがしい活動を始めており、生み出された鬼気の波動が背後から圧迫していた。
ただでさえ精密な霊力操作を失敗すればそれだけで全てが終わるというのに、その波動があたりの霊力を掻き乱し不安定にさせている。
均衡状態はあと少し。おそらくはもう保たない。
それが姉妹の結論。
何か打開策を、と考えても結界を直す手を緩めることは出来ない。そんなことをすれば一気に結界が毀されてそこで何もかも終了だ。
この世界がゲームであると割り切ってしまえば失敗してもそれだけのことだ。
主人公は復活するポイントを設定してあるのだからやり直せばいい。だがそのときには復活した鬼によってこのあたりは様変わりしているかもしれない。
今のこの街を気に入っている彼女たちとしてみればそれは必死になるのに十分な理由だった。
ふと、
「ミッキー…」
咲弥は友人の名を呟いた。
社が破壊されたということはおそらく充も無事ではあるまい。
それでも何とかしてくれるのではないか、そんな弱気が出たのだろう。ただでさえ巻き込んだ友人にさらに頼ろうというその性根に咲弥は自己嫌悪した。
「あら? その子、確かわたしを助けてくれた子でしたね」
耳ざとく聞いた姉は意識して明るく返す。
目の前に迫る明確な死を意識させた暴力を忘れずもせずに。
「気になっているの?」
「……べ、別にそんなこと……」
「本当に……?」
「ん」
「それならわたしが告白しちゃいましょうか」
「ッ!?」
「彼には恩もありますし…聞いていたら今時珍しい頑張る子らしいですから、ね」
「…………だ、駄目ッ」
「ふふふ」
目の前で目まぐるしく破壊と再生が行われているのに似つかわしくない内容。
視線を合わさず目の前のやり取りに全力を注ぎながら会話をかわす。
「なら、頑張りましょう。咲弥の王子様が来てくれるかもしれませんし」
「…………ッ」
答えは無言。
それでも姉には妹が照れながらもそれを強く信じたことがわかる。
前門の鬼。
後門の鬼。
どこを見回しても鬼しか存在しない。
だがその中に在って尚、今はまだ絶望するには早すぎる。
そう思えるほどの強さを姉妹は持っていた。
ガヅンッ!!!
ガガガガガンッ!!!
逆に少し弱まりかけた結界の修復が、さらに強さを増したことに宴禍は気づいた。
どちらにせよ時間の問題でしかないだろうがこのままではどれほど時間がかかるかわからない。無いとは思うが生き残りの主人公がやってこないとも限らないし、以前出会った狼のような男がどこで乱入してくるかわからない現状で時間のロスはリスクが大きすぎた。
「悠揚ッ」
「……………はいな」
横合いから結界を不可視の力で揺さぶっていた市女笠に声をかける。
彼女は皆まで言わずとも同じ考えのようだ。
行為は一瞬。
具眼に同じことをしたときのように、宴禍の口が耳まで裂け大きく開いて彼女を喰らった。
咀嚼と嚥下の結果、取り込んだ悠揚の力が全身を駆け再び宴禍の姿が変わる。
その袖と裾が地面に付くほど長いのは変わらないが、濃紺色した模様が入った装束には橙色の模様がさらに絡みつく。
額にある目はそのまま彼女自身のものとは別に、左右の側頭部から捩じれ下向き後方へ伸びる一対の角が生え、身長そのものも180センチを超えるほどになる。
その光景を見て、ごくりと緊張のあまり唾を飲んだのは咲弥か聖奈か。
「一気にいかせてもらうよ……ッ」
倍近くにまで膨れ上がった鬼気と殺気を放射させながら、宴禍は腕を振るう。
悠揚の干渉能力と宴禍の拳の破壊力、その両者を具眼の力で極小の一点にまで集中させて解き放つ。
轟音。
空気が破裂したかのような鼓膜が痛くなる音。
その一撃で結界が消滅した。
砕かれたわけでもない。
破られたわけでもない。
ただ消し飛ばされた。
その破壊力に驚愕する巫女たちを前にして、
「ひい、ふう、みぃ……あと4枚か。さぁ、千年の清算を受ける準備はできてるんだろうねぇ…?」
主の復活―――その悲願達成が足音を立てて近づいてくる予感を感じ、宴禍は不敵に嗤う。




