138.狼vs鬼
夜の帳がゆっくりと落ち始め天に満月が浮かぶ。
次に会話の先陣を切ったのは榊さんだった。
「急に呼び出してしまいまして申し訳ありませんな。
八束様にお願いしたいことがありまして」
「?」
なんか今日は随分と頼まれごとの多い日だな。
とはいえ、榊さんに対しては結構な量の借りがある。それこそ幼少の折から現在に至るまで。絶対に不可能なことでもない限り頼まれれば尽力するのはやぶさかじゃない。
「貴方は随分とお強くなられた。
元々素養があったとはいえ絶え間なく練磨を続け能力を開花させておられる」
いつも思うのだが、本当に尊敬している相手に褒められると少しむず痒い。
「おそらくはこれからもその強さは増大していくでしょう。さすがに今現在の実力ではお館様に勝てはしないでしょうが、それも時間の問題でしょうな」
「………………アイツの話はやめてくんねぇかな」
「はっはっは、全く同じようなことを仰る。やはり力を持つ者同士似てくるのかもしれません」
あの“狐”野郎とかよ。
アイツと似てるとか、ぞっとしないから冗談でも勘弁願いたいな。
だがそんなのんびりとした会話も次の一言でばっさりと切り捨てられることになった。
「実は、そんな貴方と―――戦いたいのですよ」
鈍い煌めきを見せるその瞳。
そこに宿っているのは確固たる意志の光だ。
今の発言が冗談や嘘ではないことは間違いない。
間違いのない本気。
ぞくり、と背筋が泡立った。
突如立ち込める濃密な闘争の予感に、オレの黒い革手袋が疼き一瞬その輪郭をぼやけさせる。
「実は身内が不始末を起こしそうでしてな。
しばらくぶりに戦場に立たねばならないようです。
ですが、やはり長いブランクを埋めてからでなければ思わぬ不覚を取るやもしれません」
身内。
そう語る榊さんの表情が一瞬だけ翳る。
オレと同様、身内という言葉を大事にする彼がわざわざそう言うということは、余程の相手なのだろう。だがそれを理解して尚、投げかけられた言葉に対して頭に血が上ることを止められない。
「つまり……リハビリ相手、ってことか。随分と舐められたもんだ」
一語一語毎に空気が固まっていく。
数年前ならきっと息苦しく感じていたこの圧迫感を、今では楽しめるようになっているのが嬉しい。
ぎち、ぎちぎち……。
まるでゴムを限界まで引き絞るかのように場の緊迫感が増していった。
なおいつの間にか佐伯さんはさっさと姿を消している。榊さんに集中していたせいもあり、いつから気配が消えていたかわからないがおそらく巻き込まれないようにだろう。
賢明な判断だ。
「ま、謹んで受けますよ」
「ありがたいことです……では推して参るとしましょう」
急速に沸点直前に近づいたヤカンのように。
互いが互いにその瞬間がそこまで来ていることを感じる。
拳と拳。
視線と視線。
鬼と狼。
存在と存在。
ぶつかり混ざり合い溶け合うような極限の死線。
その張りつめた線が切れる。
ゴッバンッ!!
まるで爆発するかのように足元の土が抉られる音を耳に残しながら、オレは一気に榊さんへと間合いを詰めた。技法もへったくれもない、ただ力任せの前進。
それでも渾身の踏み込みで、10メートルはあろうという間合いが詰まるまでほぼ一瞬。
「…ッ!」
だが榊さんはその刹那ですでに反応を起こしていた。
「……!!?」
気づけば榊さんの右足が天高く掲げられていた。
だが余りに予備動作のない自然な体勢の変化に気づくのが一瞬遅れる。その遅れはこちらが動き出した直後のかすかな硬直を突かれたことを差し引いても、明確な隙。
フォッ!!
避けるべきか。
受けるべきか。
判断にかけたのは一瞬。
咄嗟に両手を頭上に掲げた。
ガゴンッッ!!!
「ぐッ…!!」
一閃。
強烈なその踵落としを両手で受け威力を止めることには成功したものの、衝撃を逃がそうと両足を中心に大地が大きく陥没し、土埃が舞った。
ビリビリと痺れる腕がその破壊力を物語っている。
それを無視して無理矢理腕に力を込め、左手の指を鉤状に曲げ切り裂くように放つ!!
本当にかすかな手ごたえと、それよりも圧倒的な空を切る感触。
踵落としを受け止められた片足立ちの体勢、そこから避けるのは難しいと判断したのだろう。それならば、と逆に落とした踵のほうに力を込め、接触していたこっちの右腕を踏み台のように使い、榊さんはオレの頭上を飛び越え避けたのだ。
はらり、と着ているスーツの裾の切れ端が落ちる。
だがオレの攻撃はそれで終わらない。
振り向きながら再び開いた間合いを潰すように、今度は左右の手を使い風圧の爪を放つ。
フォフォ…フォンッ!!
分厚い鉄板すら切り裂く三連撃。
それすらも榊さんは見事な身のこなしで避けていく。
ガササッ………ズ…ゥ、ゥン。
避けた攻撃が背後にあった木々を切り裂いて倒壊される音が響いた。
コンマいくつしかないそれぞれの攻撃間の空隙を縫い体を入れ替えて避けるとか、相変わらず敵にしてみりゃ恐ろしいこと限りない。
避けながらも前進、近距離までやってきた彼はそのまま正拳を放ってきた。
それを腹部に受けた瞬間、全身をバラバラに砕こうかという獰猛な衝撃が襲う。
だがそれは承知の上のこと。
意志に塗り固められた覚悟を総動員して堪えながら手を伸ばした。
目の前の榊さんの襟元を掴んで引き寄せ、その頭に思いっきり額を叩き付けるッ!!
ガィ……ィンッッ!!!
「……相変わらず無茶なことを」
「さすがのアンタも、攻撃が命中する瞬間なら避けられねぇだろ!!」
榊さんの額が少し切れ出血する。
その血が視界を少し遮る一瞬を狙って膝蹴りをその腹部に見舞う。
だが敵もさるもの、同時に鉤打ち、所謂フックをオレの頭に叩き込んだ。
口の中が切れ鈍い鉄の味が広がる。
避け、打ち、喰らい、当てる。
捌き、貫き、反らし、投げた。
オレの剛と榊さんの技。
拮抗状態という瀬戸際上で主導権を取るかのように争う修羅が二人。
大地が抉れ、木々が切り倒され、下草が踏み潰され、蔦が引きちぎられていく。
そんな戦いの余波の痕を盛大に残したところで、オレと榊さんは間合いを広げ一度仕切りなおすかのように向き合った。
「いやはや、随分とご立派になられて……。
私のところで八束様が修練に励んでいた頃が遠い昔のようですな」
「ほんの数年前のことなんて、榊さんにしてみりゃ昨日のことなんじゃ?」
軽口を叩いて返す。
「ですが、このままでは埒があきませぬな」
「……同感」
互いが互いに刻んだダメージ。
それらが癒えていくのがわかる。
「埒はあかずに空くのは衣服の穴ばかりってとこだねぇ。そこそこ見応えはあるけれど、自然破壊ばかりで面白みのない戦いじゃない」
傍から見ていたモーガンが、心底つまらなそうに欠伸をした。
好き勝手言いやがって…とは思うもののその言葉にも一理ある。
鬼が誇る不朽の肉体の再生能力。
夜における人狼の復元能力。
攻撃力と同等の防御力を持っている者同士なのだ。
このままでは均衡が崩れるまでただの消耗戦にしかならない。
そんなことはわかりきったことだ。
だからこそ目の前の鬼が小さく笑う。
「ならば方法はひとつしかありますまい。八束様ならおわかりのはずですが」
「………っ!」
このペースでは丸1日経っても勝敗はつかないだろう。
だから彼は暗に言っているのだ。
最強の手札を使え、と。
以前オレが喰らい糧とした“神話遺産”。
“魔王”を。
「……正気かよ」
「至って正気でございますよ」
……ずぐんっ…っ。
思わず疼きの激しくなる右手にある黒革の手袋を抑えた。
漆黒の衝動が力の解放の予感に歓喜する。その悦びが意味するものは狂乱と破壊だけ。
さすがにこれを全てを叩き付けたならば、榊さんとて無事でいられるとは思えない。目の前の大鬼の強靭な再生能力すら追いつかない威力を発現するのも難しくない。
だが未だ制御に不安のある“魔王”を解き放つべきかどうなのか疑問だ。
現段階で迂闊に使えば、使用者を蝕み破滅させる可能性が高いことは間違いない。だからこそわざわざ奪い喰らったその力を、手袋として形作らせ外部に切り離しているのだから。
「お悩みのようですな。ならば、その躊躇を砕いて差し上げましょう」
ゆっくりと榊さんが懐に手を入れた。
ひとつの木箱を取り出す。
大きさは幅10センチ、長さ20センチほどだろうか。
メギ…ッ。
その箱が握り潰された。
砕けた破片がぱらぱらと落ちていく。
それが完全に落ち切ると同時に現れたものに思わず目を見開いた。
「私はこちらを使わせて頂きましょう」
榊さんが切ろうとするその文字通りの鬼札に。
話で聞いたことはあるが現物を見るのは初めてだ。
「………本気、だな」
「当然のことでしょう。その覚悟無くしてこの場に立つのは八束様にとっても失礼極まりない」
その台詞が終わると同時に、彼はそれを解放する。
ごぎん…っッ!!
骨がぶつかるような硬質な音と共に榊さんの体が一瞬膨れ上がったように見えた。
だがそれは錯覚だ。
少なくとも冷静になって見れば榊さんの体そのものが大きくなったわけではないのはわかる。単純にその内部に巡る力の総量が爆発的に増えただけだ。結果として莫大な密度を持つに至った体、そこから吹き出す圧力が錯覚を起こさせたのだろう。
ぶるり…っ。
体が震える。
それは恐怖か、それとも歓喜か。
確かにあの札を切ったというのであれば、こちらも同様にするしかない。
即座に覚悟を決める。
そうでなければ待つのは敗北だけだ。
ぐぐ…ッ。
右手の手袋の上に左手を置く。
そのまま一気に左手を引いた。
ズゾゾゾゾゾ…ッ
その輪郭を崩し左手の動きに従い漆黒の刀身が引き抜かれ姿を見せる。
同時にあがるは悲鳴にも似た地の底から響く低音の轟き。
それは亡霊の叫びか、それとも悪魔の呼び声か。
ィィィ…ッィィァァァァァァ……ッ!!!
現れたものを形容するならば、長大な黒鉈だ。
まるでそこだけ空間を切り取ったかのような漆黒。
あまりの黒の濃度に質感や立体感が感じられない。時折表面が不気味に脈打っていなければ幻と誤解してしまうかもしれない。
「これを使うのは随分と久しぶりですからな。
申し訳ありませぬが力加減は出来そうもありません」
「そりゃ奇遇で。オレも細かい調整は出来ないんだ」
向き合ったまま、口の端を歪める。
暗に全力同士と確認し合っただけのこと。
互いに最強の手札を伏せた。
ぶつかりあえばどちらかが死ぬほどの。
それさえわかっていればそれ以上の会話は不要。
ぴし……っ。
オレと榊さんが生み出した力の余波が世界を削りはじめる。
大地が割れ、石が砕け、木が朽ちていく。
だがその惨状とは裏腹に湧き上がるものがある。
“魔王”の破壊衝動ともまた違う、胸の内を踊り狂う仄暗く制しがたい喜び。
それは熱いまま燻っている火種に似ていた。
静まっていても完全には消えず、機会さえ与えられれば一瞬で燃え広がる。
そう―――戦いの悦びだ。
ただただ純粋に力を振るい戦うことだけを渇望する獣の一面が確かに息づいている。だがそれを否定しうようとは思わない。
むしろ存分に打ち震えよう。
四肢に力を込め踏み出す。
同時に前に出たオレと榊さんが力を解き放った。
□ ■ □
7月1日。
この日に起こった“狼”と“鬼”の戦い。
“神話遺産”に分類される二人のぶつかり合い。
その勝敗は戦いの場となった山半分が更地になるのと引き換えに一瞬で決着した。




