137.狼の首輪
夕暮れの帳が辺りを包んでいる。
普段は時折虫の声だけが鳴るこの場所だが、今日だけは少し状況が違う。
激しい音と共に影が交錯した。
下草が揺れる。
否、揺れているのは大気なのかもしれない。
それを生み出しているのはこの身が生み出す唯一陣の風。
「終わり……だッ!!」
片手を振るう。
荒れ狂う風が鋭く刃の嵐となり迸る。
金属がひしゃげる不吉な音が響き、一瞬遅れて人が宙に舞う。
おそらく普通の人間なら何度見ても現実感がない光景だろう。
木の葉ではあるまいし、人間があんな飛び方をするはずもない。
何度そう否定しようとも目の前で起きている現実は寸毫たりとも変化しないのだが。
「…………そりゃ仕掛けてくるのは自由だが、もうちょっと彼我の実力差くらい測れるようになってもらえねぇかな」
不満そうに口を尖らせながら、黒髪の男が1メートルほど先に現れて音も無く着地した。
―――八束 煉。
それが“狼”と渾名されるオレの名前。
今いるのは深い森の中だ。
正確にはとある山中、ちょうど木々の切れ目になっている開けた場所に居る。
「……八束さん、やり過ぎじゃないですか?」
近くにいた同僚―――佐伯祐一からそんな指摘が飛んだ。
諜報及び連絡員として活躍している20代そこそこの男だ。
頭を掻きながらあたりを見る。
正確には死んではいないものの戦闘不能になるまで叩き潰された10人ほどの人間が倒れていた。それぞれ形や色が違うものの鎧などの防具を着込んでいる。先ほどまでは武器も持っていたのだが、洩れなく叩き落されてそのへんに散乱していた。
主人公、そして重要NPCと呼ばれる連中だ。
この世界をゲームの舞台として楽しむためにやってきた異世界からの来訪者、そして彼らに魅せられてその仲間になったこの世界の住人。
それぞれの戦闘能力は一般人には及びもつかない。だが所詮それは一般人から見れば、というだけの話。オレからすれば一蹴できる相手であることに違いはない。
正直なところ主人公たちに対して取り立ててどうとも思っていない。
異世界の住人であろうが何であろうが、襲ってきたから返り討ちにしただけであってそれ以上でもそれ以下でもない。
面白くない連中だとは思っているが、だからといって目の敵にしたりはしない。
「殺しちまってもよかったんだが……充の友人みてぇなまともな連中を見ちまったからつい手加減しちまったぜ。ヤキが回ったな」
「……主人公を抹殺すると後の処理が色々と大変なんで、そのほうが助かりますが」
「んじゃ、そういうことにしといてくれ」
佐伯の合図と共に遠巻きに様子を見ていた仲間が倒れている連中を回収する。テキパキと手慣れた、それでいて組織だった動きですぐに辺りには二人だけが残された。
コキコキと肩を捻りながらオレは暇そうに佇む。
待ち合わせをしているらしいのだが、その肝心の相手がまだ現れていない。その様子を見て、横にいた佐伯が口を開いた。
「八束さん、ひとつお願いがあるのですが」
「へ?」
「実は先日、子供が生まれまして」
「そ、そりゃめでたいな……」
こう見えても佐伯は既婚者なのだ。
「ありがとうございます。それで、つきましては字は変えますが、八束さんの名前の響きを頂きたいと思いますので、そのご許可を頂こうかと」
「………マジか?」
「正真正銘、本気ですよ」
なんでまたオレなのか聞きたいんだが…。
こんな申し出は初めてなので少し面食らった。
「八束さんがそのための役割を負っているとはいえ、何度も命を助けられていますからね。自分の子がそれくらい立派な男に育つよう願ってもおかしくないでしょう。
突然、このような私事でのお願いなど恐縮なのですが……」
唐突な頼みに呆れられたかと少し恐縮している佐伯を尻目に、はぁ、とため息をついてかぶりを振った。
「オレがそんな薄情に見えるのかねぇ……ってか、それ以前にそういう頼み方するところじゃねぇだろ」
「………は?」
すぐに相手を見据えながらにやりと微笑んだ。
「アンタ、心底惚れた女とくっついたんだろ?
その相手と作った自分の子じゃねぇか、いくら名の響きをもらうって頼みごとだろうともっと自信持って胸張って頼むべきだ。オレが名前くれてやったことに対して誇りに思うくらいの立派な子だっつって親バカなくらいでいいんだよ」
予想外のことを言われた、と言わんばかりの表情を浮かべる佐伯。
普段冷静なだけにこんな表情はなかなか珍しい。
「まぁいいや。で、いつ?」
「……?」
「佐伯さんの都合のいい日だよ。
曲がりなりにもオレの名前をつけるんだから、ちゃんと将来大物になるように顔くらい見させてもらいたいじゃないか」
「なるほど…いつ話しても、君はとても親分肌というのか兄貴肌というのか……目下から頼れられるタイプですね」
そんなに褒めても何も出ないけどな!
同じ組織にいる、それも仕事を共にする間柄なら身内も同然だ。なら身内を大事にするのは当たり前のことだろう?
「惜しむらくは自分のほうが年上のことですかね」
「………すみません、調子に乗りました」
本気で知らなかったぜ。
年上だったのか……目上に凄い対応しちまったな。
ヴヴヴ…、ヴヴヴ……ッ。
そんな話をしていると、佐伯さんの唐突にポケットの中の携帯電話が振動した。
「もしもし……はい、佐伯です。はい……はい、了解しました。少々お待ちを」
「?」
そのまま彼は携帯電話をひょぃ、とオレに差し出した。
「はい、もしもし―――」
『何度言えばわかる、このバカ狗がッ!!!』
「―――っ!?」
聞き覚えのある、というより絶対に忘れたりしない声でいきなり怒鳴られ目を白黒させた。
オレがここに在る全ての始まりとなった女性―――ボスの声なのだが、なまじ耳がいいだけあってこの不意打ちは結構キツかった。
『携帯電話は常に携帯するものだとあれほど言っただろうがッ!』
「………悪ぃ」
そういえば携帯電話を充電しようと思ってマンションに置きっぱなしだった。
ちなみに洗濯機に沈んだり、戦いの最中に壊したり、うっかり高所から落としたりして、携帯は6代目だったりする。
『佐伯が傍にいたからよかったようなものの……。私の躾が悪かったのかもしれないな。
その件はいいとして、早速本題に入る』
本題。
おそらくそれが山の中で知人と待ち合わせしているオレのところに、わざわざ連絡員として佐伯さんを派遣してきた理由だろう。
『鬼首大祭……知っているな?』
「ああ」
鬼首神社で行われる鬼起こし、そして鬼鎮めの祭りだ。
毎年この時期に行われており儀式が失敗したときに備えて周囲を警戒する任務を受けたことがある。幸いなことにそんな事態にはなっていないが。
『お前には鬼首神社に向かってもらう』
「また警護か?」
そもそも数百年以上も続いてきた祭りなんだから、何か余程のことがない限り今さら問題が起こる可能性は低いと思うのだが、お偉いさんってやつは保険って言葉が余程好きらしい。
そしてそのお偉いさんの都合に振り回されるのはいつだって現場の人間だ。
『違う』
だが返ってきた言葉は予想と違っていた。
『例年、大祭には主人公が参加しているのは知っているだろう。
お前には奴らを―――殲滅してもらいたい』
殲滅。
それは文字通りの皆殺しの命令。
「そりゃまた随分と……連中が参加しているのは今に始まったことじゃないだろうに、今になってそんな任務が来るってことは………」
先ほど、佐伯さんが言った通り主人公は出来るだけ殺さないに越したことはない。あまりやりすぎて蘇生不能になってしまえば、新しい主人公を作り直すだろう。
そうなってしまえば、国がこっそり集めている主人公個人情報も集めなおさなければならないためだ。
『つい3日ほど前のことだ。
“逆上位者”どもが動きを見せた。どうやら鬼首大祭に参加している主人公の中に紛れ込んで何かを企んでいるらしい。また同時に今年は鬼首神社から大祭の時期に出る地脈の乱れが通常の規模を超えている。
見過ごせる範囲の異常であっても、これだけ重なれば理由としては十分だ。
すでに上の許可は取りつけてある』
「……なるほど、あの脳髄野郎どもが、ねぇ」
面倒なことになったもんだ。
行状のよろしくない者がいる主人公の中でも“逆上位者”と呼ばれるあの連中は一層タチが悪い。
人質だの謀殺だの基本的に虫唾の走る悪事を何の呵責もなく行える、そんな奴らなのだから。
戦って負ける、というような相手ではないが反吐が出るんで私用では関わり合いたくない輩には違いない。
「で、その紛れている数のわからない少数の“逆上位者”を邪魔するためだけに、他の主人公も鏖殺しろと。こりゃまた過激だな」
『大祭に影響がないタイミングを狙って、な。不服か?』
「まさか。オレがこの場合どう考えるかなんてアンタにゃ百も承知だろう?」
意識して、というわけではないが口の端が歪む。
確かに個人的に好みの任務内容じゃない。
だがただそれだけのこと。
「だからその上で聞くぜ?
任務は鬼首神社の主人公の殲滅。“逆上位者”だろうが“上位者”だろうが区別なく万遍なく皆殺し、それは了解した。
さあ、他に言うことは?」
電話の向こうでボス―――彼女が声を整えるように一旦言葉を止めたのがわかる。
相手が何であろうとも。
どんな過酷な状況であろうとも。
そんなことは関係がない。
必要とあらば神の喉笛だって噛み千切るだけの覚悟がある。
オレが揺るがない理由。
それは昔から今に至るまでただひとつ。
冷めることなく圧倒的な熱でこの胸に強固に在り続けているのだから。
人ならぬ身。
狗であれば首輪と餌で飼えるだろう。
だが狼を繋ぎ止められる物理的な鎖など存在しない。
どんな恐怖であろうとも、どんな報酬であろうとも、どんな神であろうとも、首輪にはならない。
もし、そんなものがあるとすれば―――
『……煉、頼む』
―――それはこの絆に他ならない。
短い、それでいてそれまでの冷静で平坦な声ではない、彼女自身の言葉。
それだけ。
だがそれだけで十分だった。
「おぅ、請け負った。任せろ」
電話を切った。
そのまま佐伯さんのほうに軽く放り投げて返す。
「で、佐伯さんが今回の任務のお目付け役って話……ですか」
「……いや、無理に敬語使わなくてもいいんですけど。その通りです。正確には連絡員ですが」
がさっ。
小さな下草を踏む音に耳がぴくりと反応する。
本当にかすかなものだったせいか、まだ佐伯さんは気づいていない。気配の操作に長けている潜入連絡のプロではあるものの、それ以外は一般人並みなのだから仕方ない。
オレの耳と同じ感度を求めるのは酷というものであろう。
森の木々が生み出した影。
それらによって月の光が遮られ生まれた闇の中から近づいてくる気配があった。
「失礼。少々お待たせしましたかな」
やってきたのは二人。
端的に表すのであれば、スーツを着込んだ品のよい初老の男性と妖艶な魅力のある若い女。
うち、男性の方はびしっとオールバックに固められた白髪と丹念に手入れのされた口髭をしている。彼はゆるりと帽子を取り、にっこりと微笑みかけた。
「ども」
「八束様もますます立派になっておりますな。
やはりこの老体には若者の成長はまぶしく映るようです」
それは待ち合わせしていた相手―――榊さんだ。
その温和な外見から想像もつかないが、オレと同じく“神話遺産”に分類される、酒呑童子という名の旧き強大な鬼。
フォーマスなスーツを身に着けているため日中、喫茶店のマスターをしている際の仕事着姿とはかなり印象が違う。
だがどちらかといえばこちらのほうがオレにはしっくり来る。
昔、世話になっていた頃の服装だからだろう。
そこで一度視線を切って、榊さんの隣にいる女へ声をかける。
「つーか、なんでアンタがいるんだよ」
「ツレないことを言いなさんな。こんな面白い見世物を見ないで何を見るって言うんだい?」
相変わらず興味本位で行動してますという発言以外しないな、この女。
台詞からわかる通りもうひとりの女は、魔女だ。
いい加減イギリスに帰りゃいいものを。
とある山中、こうして“神話遺産”が集ったのだった。




