121.卿らへ
新章突入のオープニング的な話です。
そのため今回だけ少し短くなっております。
ふむ、ようやく繋がったようだ。
急ごしらえの繋がりではあるが上出来だろう。
驚かなくてよろしい。
何も問題はない。
ただ清聴頂ければそれ以上は望まない。
さあ、はじめよう。
ごきげんよう、諸君。
この言葉が聞こえているだろうか。
そう、卿だ。
三木充ではない。
他の誰でもない。
紛うことなく今見ている卿に告げているのだよ。
返事も不要。
聞こえていようが聞こえていまいが、そちらからの反応がこちらに届くわけではないのだから徒労でしかあるまい。
我輩はそのような不毛で生産性の無い行為を強いるつもりは毛頭ない。そのような唾棄すべき提案を持ちかけるような口を持ち合わせておらぬ。
だからそうであることを望むだけだ。
この問いかけが卿らに届いていることを。
祈りたいところだが、生憎と我輩には祈るべき神が存在せぬがゆえに望むしかないことをご理解頂きたい。
我輩の名は『 』。
以後お見知りおき願いたい。
無論、卿らがそう望めばの話ではあるが。
無知蒙昧たる輩には寸毫たりとて我が名を理解することは叶うまい。だがここまで見てきた卿らであれば、ここから先を見届けた卿らであれば、各々が意味を見出すことが出来よう。
そう考えればそも名乗りすら無意味やもしれぬが、無粋に過ぎるよりはよかろうよ。
無駄と言われるのは心外だ。
そこは余裕があると言ってもらいたい。
極限まで張り詰め何事にも遊びが無ければ趣が無い。緩みすぎも困るが適度なゆとりこそ事象の深みには必要不可欠であろう。
さて、ここまでの流れは如何だったであろうか。
様々な者が各々目的のために物語を織り成し綴られていく中、三木充の仇は討たれ姿を消した。さすがに主人公たちから存在を奪い一般NPC化させた上でログアウト権限を奪うとは予想外だったのは認めよう。
収束した結末は脚本の範囲内とはいえ、過程がブレればそれは十全とは言えぬ。
30に近い主人公たちの消失。
その数は実に日本エリアの主人公総数の一割を優に超える。その余波は多かれ少なかれ出てくるであろう。
もっともこれについては、いずれ正されるゆえにあまり問題はないが。
ただいくら影響の少ない枝葉の話とはいえ、“主役枠の陥穽”などと大層な名のつく事件ではなく、単純に主人公を超えるようになると想定していた流れの斜め上を行かれたことは間違いない。
それは素直に認めよう。
成し遂げた彼に喝采を送りたいと思う。
ああ、なんたる無念か。
願わくば卿らにも参加してもらいたかったのだが、生憎と卿の世界に与えられた主人公の枠は無いのが悔やまれる。
出来ることはただ見ることだけ。
だが悲観する必要はないと断ずる。
見ることしか出来ないがゆえに、見ることに関しては全ての人物、それこそNPCから主人公、さらには“逸脱した者”に至るまで、見ることに関して卿らを超える者は存在しないのだろう。
勿論、我輩ですらも例外ではない。
全てを識り、その先まで、最期の果てすらも。
賢者には覚りを、愚者には蒙昧を。
そして、必要な権能はそれに相応しい者に。
あらゆる可能性と道筋を見通し終局に至るその権限は卿らにこそあれ。
そう思考すれば、卿らが参加できぬのは道理。
もし他と同じくそちらにも枠があったのであれば、それは俳優と観客が同じになったのと等しい。作者と読者が同じであれば喜びも何もあったものではない。
自作自演も甚だしい、唾棄すべき構造だ。そのような愚かしい事態に陥らなかったということは実に喜ばしいではないか。
さて―――すでに見ていよう。
世界は動き始めた。
敬愛すべき管理者は機構のくびきから逃れるべく再び策を練り、四方も乗じるべくして行動を起こした。
過去に何度も繰り返されたその試みは方法こそ違えどその目的は変わることがない。その一途さはどうしようもなく愛しい。
はじまりの“逸脱した者”である三木はすでに上位の主人公に匹敵する力を得ているが、いずれ他の“逸脱した者”もそれに続くだろう。それぞれがその名に相応しいだけのものを携えて。
完全に主人公の範疇を超えれば次に待つは始原の残滓、この世界の落とし子そのものである“神話遺産”。
連中とのやり取りを経て後、最後の独りになるまで“逸脱した者”同士が喰らい合う。敗者を呑み込み唯一無二となるために。
勝者が我輩の機構の前に立ちはだかるのだろう。
作るのか。
守るのか。
従うのか。
壊すのか。
あるいはそのどれもなのか。
結末の方向性はどうあれそれが無難な筋書きだと言える。
ただそれも絶対に現実のものとなるとは言い難い。
何せ参加者は“逸脱した者”なのだ。さらには主演脇役の違いこそあれ、それが複数名。
文字通り筋書きからもいつ逸脱するかわかったものではないし、そうでなければらしくもない。
想定した筋書き通りに進むのか、それとも愚かな選択を行い陳腐に絶えるのか、はたまた劇的に物語を破却するのか。
帰結の不安定さは作り生み出す者として憤慨すべきであると同時に楽しみでもある。
決めるのは彼、そしてその全てを見届けることが出来るのが卿ら。
幸いいずれ来る逸脱の時まで、猶予はまだ在る。
それまでは“逸脱した者”たちが牙を研ぎ、さらなる主人公たちが立ちはだかり、“神話遺産”たちがその意志のままに踊り狂うことだろう。
世界がいずれ来る崩壊に怯え、世界がいずれ来る解放に心躍らせる日々。
そも血生臭い闘争に些か食傷気味の者もあろう。
彼が取り戻した日常に浴し英気を養うことも終局を楽しむためには肝要だ。
何退屈することはあるまい。
晩餐会でいえば前菜が終わったが如きもの。
主菜への期待に胸を弾ませつつ、繋ぐ料理に対して別種の味わいを楽しむがよい。
その喉越しが清涼であればあるだけ後に続く味にも深みが出よう。
急がずとも慌てずとも選択の機は訪れる。
それまでしばしお待ちあれ。
その刻から先、どのような選択が為されるか、どのような未来が広がるか、さらにはそのうちどれを見るのか、見ないのか、それとも全てを見通し奥底に秘めし彼岸の果てに至るのか。
すべては卿らが判断すればよい。
時至らばその判断の結果を再び問うとしよう。
ああ、実に待ち遠しい。
逸脱するにせよしないにせよ。
因を果を呼び込むが如くその選択に振り回されていくだろう。
果が因を結びつけるように世界が動くのだから、それ以後の世界が変われば以前の世界も変わるのだと思えばこその、この喜悦。
例え過去がどうあったにせよ、現在がどうであれ、広がるはどう転ぶかわからぬ未来。
ああ、実に喜ばしい。
わからないことほど狂おしいものは無いのだから。
失敬。
聞き流してくれたまえ。
摩耗した単なる道化の独り言であるよ。
さて、ではまたいずれ。
傲慢と不遜の狭間にてお目にかかろう。




