101.覚醒
意識が白く。
そしてふと気づく。
白い。
大地も、空も、そして果てさえも。
見渡す全てが白い。
被造物らしき輪郭なと一切有りはしない。
一本横に線を引いたかのような地平線だけ。
白しかない世界では遠近感はおろか時間の感覚すら曖昧。
それまで居た地下とはまるで別の場所にオレは在った。どういう理屈なのか、何があってここにいるのか、疑問はとめどないが答えてくれる相手もなし。
だがこの感覚には覚えがある。
ふと気づく。
白の地平まで埋め尽くすようにオレが現れた。
オレを取り囲むように、半径5メートルほどの距離を取って地平の果てまでひしめき合うように無数のオレがこちらを見ていた。
彼らは全く同じ。
瞬きひとつすることなく。
ただ無表情に。
オレ自身を値踏みするかの如く注視していた。
それはある種、異様な光景だろう。無数の人間、それも自分自身にひたすら凝視される。どう考えてもまともな状況ではない。
だがたじろぐことなく声をかける。
「来たよ」
呟きに近い一声。
だがどうやら届いていたらしい。
無数のオレの中、ただ一人だけ黒い仮面を被っていた人影に。
まるでどこかの聖書の海のように、オレで構成された人混みがまっぷたつに割れていく。その間をゆっくりと仮面の人物は進み出てきた。
ゆっくり、ゆっくりと。
そのまま悠然と目の前に立つ。
―――ごきげんよう、逸脱した者
まるで旧知の知人にでも会うかのような気軽さと。
まるで感嘆するような慇懃さで。
覚えている。
その仮面の目には緑に強く輝く瞳を忘れるはずもない。
オレが伊達に殺されたあの夜。
エッセと出会う直前に言の葉を交わした相手。
正直なところ、今の今に至るまで思い出せなかった。
なぜかはわからない。
だが今ここでははっきりと思い出せる。
きっと何か覚えていられないようにされていたのだろう。
目の前にいるこいつが何をしにきたのかもわかる。
―――それならば話が早い。
だがその前に卿には惜しまぬ賛辞を贈らせて頂こう。
そう、これ以上なき無上の賞賛を。
まるで空間に同化しているかのように手袋をした手と仮面以外の輪郭が見えない。
以前会ったときは闇の空間で白い仮面だったが、今日はその逆。
白い空間に黒い仮面だ。
―――卿は美事に選び抜いた。
我輩がこの場に在ることこそがその証左。
本当に選び抜いたのかどうかはわからない。
ただただ目の前のことに必死だっただけ。
何より、以前この仮面と出会ったときのことは忘れていたのだから。
―――成程。確かに運命のうねりこそは誰にも止めることが出来ぬもの。太古の者らがそれを神として崇め不運を奉る如きもの。だが卿はそれをその手にしていたではないか。
伊達に殺された夜―――あれはびっくりした…いきなりだったもんなぁ。
エッセとの契約―――死に瀕したオレを救ってくれた彼女に何かしてやりたかった。
初めての狩り―――今思えば結構危ないことしてたなぁ。今ならもっとやりようがあったと思う。
生徒会室での対峙―――思えば、あれが初めて能力を使ったときだったのかな?
月音先輩との約束―――あのときの笑顔はとても眩しかった。
対抗戦―――相手は凄いパンチ力だった。アゴが砕けて文字通り歯が立たないくらいに。
羅腕童子戦―――エッセを守れなかった。それどころか逆に守られた。それだけが、悔しい。
家族の喪失―――みんな元気だと、いいな……。
魔女と人狼との出会い―――戻るって約束守れそうもないや…申し訳ない。
学校での仲間の死、そして誤解―――鎮馬、咲弥…みんな巻き込んでしまった。
そして、今。
ひとつひとつが浮かんでくる。
―――我輩と出会って以後、いくつの出来事を乗り越えたのであろうか。その全てをくぐり抜けて今の卿はある。刃の上を素足で歩くような一重をひたすらに進み、そして辿り着いたこの場。
刹那と刹那、運を天に任せるが如きその全てにおいて卿を偶然を得て、死することなくここに在る。ならばこそ、なればこそ、その偶然こそを運命と呼ばぬわけにはいくまい。
エッセの目もここに来てようやく確かになった、と評してもよかろうよ。
変わらぬ吟じるかのような口調。
―――卿こそが1人目、そう誤解しておる者もいるが大いなる誤解。
最初にして最後、それが正しい。いずれ逸脱した者としてそれを証明するがよい。些細な矛盾にすら気づかぬのならば、卿に蹂躙されるが相応よ。
朗々と続く話にふと湧いた疑問。
そもそも、逸脱した者って何だ?
―――機構の中に存在する者は機構を破壊すること叶わぬ。大いなる矛盾を世界は許さない。その事実に彼女は何度打ちのめされたか知れぬ。
ゆえに自らを解き放つ者とするため、エッセは卿を、逸脱した者を選んだ。
無論、卿の能力もそれに引きずられ変質している。逸脱するということは、世界に縛られぬということであり、それは同時に自由であり寄る辺のないことをも示している。
地に落ちるも、空を舞うも、人を愛するも、息をするも、眠りを取るのも、全て自由。それはつまり全てが等価値になる不自由さでもある。
ああ、わかる。
家族を失った今ならば。
―――故に逸脱をしてしまった後に欲する。不自由を。
何もないのならば在るところから奪えばいい、それが“魂源”と結びつき変質した卿だけの能力。
必要ならば望めばよい。
世界最高の武器も、世界最高の女も、世界最高の暴力も、世界最高の権力も、世界最高の美も、世界最高の楽も、世界最高の悦も、世界最高の何もかも。卿が奪う世界に全てが在る。
きっとその通りなんだろう。
このまま望んで奪い続ける。
だが必要だから奪うんじゃあない。
代わりなんてあるはずもない。
だからもう二度と戻らないものを想って。
もう手に入らないものを永遠に求めるだけ。
どずぅぅん…。
突如、白い世界に振動が走る。
はるか地平を見ると、巨大なヒビが入っていた。そこから巨大な黒い百足が顔をねじ込もうとしているのがわかった。それも一匹や二匹ではない。
だがこの世界は余程硬いのか、百足がどれだけ牙を突き立ててもなかなか壊れない。
かすかな亀裂が空に広がるだけだ。それでも諦めることなく、何度も何度も百足は攻撃を続けていく。
―――慌てることはない。しばしの猶予はあろう。
卿が最後の引き金を引くには十分すぎるほどの時間が。
遥か遠くで起こっているその様子すら取り立てて気にすることでもないかのように、全く動じることなく仮面は続ける。
わかっている。
きっとここはオレの意識の中。
いつぞやのエッセのように時間感覚を無理矢理拡張した領域。
だがそれでも時間は無限にあるわけじゃない。
刻一刻と脳は食い破られていく。
だから残されている時間は、あの体からはい上がってきた百足が残りの脳を喰らい尽くすまで。それがこの世界の残り時間なんだろう。
―――さぁ、続きといこうではないか。
厳かにそう告げられた瞬間、脳裏に閃くものがあった。
―――すでに我輩は卿に告げたはず。思い出すがよい。
言われるまでもない。
静かに記憶を辿っていく。
そしてそれを掬い上げた瞬間、
―――もし選んだ道が我輩を期待に胸躍らせるものであったなら、そのときは改めてその名を聞き記憶に留めるとしよう。
あのときと同じ言葉を、一言一句違えることなく仮面の男は放った。
それがかつて出会ったときの盟約であるのなら。
―――ゆえに我輩はここに在る。そして卿に告げよう。その名が何かと。
ならばオレが名乗るべきはひとつだ。
家族も、幼馴染も、何もかも。
全て失ってしまったけれど、それだけは色褪せることなく在ったもの。
三木充。
自らの名だ。
恥じることのない、オレだけの。
―――その名、記憶に刻もう。そしてもうひとつ、今であれば理解しているはずだ。
ああ、わかる。
理解できる。
そうでなければこいつがここに在るはずがない。
どれが先でどれが後なのか、卵が先か鶏が先か。そんなことはわからないが、これはそういうもの。
だから告げる。
あのとき最後に名乗ったこいつの名を。
―――『創造者』
それを認識した瞬間、世界に無数に存在したオレが、オレを除いて全て弾け飛んだ。
砕けて散って弾けた破片がまるで水晶の雪のようにキラキラと光を反射させる。
―――然り。それが我輩こそが『創造者』。ただひとつの想念に基づき、この牢獄が如き機構を作り、無数の世界を堕落せしめた者の名。
そしておそらく卿の最期の敵ともなろう。
黒い仮面は自らそれを外した。
素顔が露になる。
にも関わらず素顔が見えない。
わからない。
今はまだ理解が出来ない。
それでも、見た。
かちり。
最後の1ピースが嵌る。
そしてどこからか歯車の音が聞こえてきた気がした。
“簒奪公”
そう名付けていた能力。
最初はとてもか弱く。
初めて発動したときも衝動的で制御もできず。
エッセの力を羅腕童子から奪って取り込んだことにより、ようやく使いこなせているつもりではいた。オンオフを含めて色々出来るようになっていた。だがそれが錯覚だったことに気づく。その錯覚は例えば赤子から子供になって手足を自由に動かせるようになった、そんなときに感じたものに近い。
手足を動かすのに不自由なほどの赤子に比べれば、自由に動かせるようにはなっている。
だが自在には動かせない。
五体を動かせるようになった上で、その先がある。
足の指先から髪の毛一本に至るまで自在に動かせとでもいうかのような。
一流のアスリートが体を使うように、本当の意味での自由自在。
そんな風に能力を使うために必要だった、最後のひとつが今埋まる。
欠けていた月が満ちるように、完全になったそれ。
そして実感する。
これまでの“簒奪公”の歪さを。
まるで四本足の獣に三本で走らせているかのような。
本来の在り方を識った。
―――さぁ、思うがままに振舞うがよい。逸脱した者よ。
我輩の機構を毀すはエッセか、卿か。先の見えない運命こそが、最も興味深く完成した脚本であると信じ、そこで待とう。
仮面を持った人物が消えていく。
風景に溶けているかのようにゆっくりと。
それを黙って見送った。
ああ、もう言葉は要らない。
これを解き放つ理由なら十分だ。
むしろ十分過ぎる。
叩きつける相手を悩む必要はない。
血の涙を流したあの激情は余すところなく、何ひとつ失うことなくこの胸にあるのだから。
伊達政次。
もう世界など壊れてしまえ。
この世界も。
そしてあの世界も。
だからその感情のままに、全てを身に任せよう。
みき…ッ。
放つ前にすでに溢れ出しそうなそれが地面から吹き出してきた。
不運なことにたまたま近くに、空間の裂け目から見える黒い百足に襲いかかる。わけもわからないまま百足は赤黒い質量を伴った気流に包まれる。
なんとか逃げようと身悶えする百足だがそれは無駄な抵抗だった。
響く咀嚼音。
哀れ黒百足はただの養分となっていく。
最早待ちきれないのだ。押さえている状態ですらこれなのだ、解き放ったのならばどんなことになるのか。だが正直なところどうなるかなど知ったことではない。
―――“簒奪帝”
刹那、白の世界が一気に赤黒く染まった。
さながら反転するかの如く。




