9.独り語り
視界が失われていく過程もただ眺めているだけだ。
まず色が変わっていく。
消えるのではなく瞳の中に染み出した赤に塗り初められて。
その赤も次第に鮮やかな朱から赤黒く、そして沈み込むように影を帯びていく。影は徐々にその強さを増し、気づけば影はいつからか闇と化していた。
茫洋としている。
目の前にはただひたすら暗闇。
不思議なことに塗りつぶされたその黒にも濃淡があり、時折揺らぐ。まるで虚空を見る幼子のように、ただその視界を呆然と見守る以外をしないオレには、その理由はわからない。
まるでもう定められていることのように、ただ粛々と落ちていく自分がいる。
諦観なのか、それとも絶望なのか、あるいはそのどれでもないのか。消え失せようとしている何かを留めておこうという感覚すら、消えているのだろうか。
次から次へと消えていく。
それが何であるかという自分の認識すらも消えたその末に。
じわり……ッ。
本能の奥底で漏れるものがあった。
理屈ではない。
ただそこに在ったのだ、としか言いようがない。
ずくずく、と自分でもわからない深い深い底で滲み溢れるものだ。
それは熱だった。
怒りにも似た、それでいて生きたいというより死んでたまるかというような風にも思え、同時にがむしゃらに何かを求める渇望のようにも思える。
白い紙に垂らした一滴のインクのように広がるその熱情。
―――それが卿の存在の根か
響いた男の声に熱が爆発した。
まるで今まで目隠しをしていて、取ったのかと思うほど視界が一気にクリアになる。
その視界も一面の暗黒の海だが、それを見ればそれまでの闇が霞がかったようなあやふやなものであったことに気づく。
それほど眼前の黒は鮮やかで深い。
そこにはまるでヨーロッパの仮面舞踏会で使われるような、顔の目元を隠すタイプの白い仮面がある。まるで虚空に浮かんでいるかのように。
仮面の目には緑に強く輝く瞳があり、何もかもを睥睨しているかのような雰囲気を感じさせた。
―――ご機嫌よう。凡愚蒙昧なる民の一人よ。我輩は『 』、もし卿が道を違えず進むことが出来るのならばお見知りおき頂こう。
冗談のように、仮面の近くに白い手袋をした「手」が浮かび上がり、優雅に礼をしている人物が闇の中にでもいるかの如く振舞った。
悪夢だとしたら随分と手の込んだ悪夢だとでも思えてしまうほどに。
―――上位者の狩りならば無聊も慰められようと出向いた今宵の月下、よもやこのような奇跡の出会いが起こるとは。いつ以来かはわからぬ賛辞を素直に贈ろう。
こちらの疑問を他所に仮面は陶酔するかのような声色で語る。囁くような大きさなのに、なぜかはっきり聞こえるその声に恐れを抱くと同時少し気分がざわつく。
―――生き急ぐのは若さの特権のひとつではあるが、この場では戴けない。そも、君が生き急ぐ理由などもうないのではないのかね、死者が戻るは墓であるが道理だろう。
吟じるようなその言葉。
ただのその一言で自分が本当に死んでしまったのかという言いようのない不安が湧き出してきた。
にも関わらず、発した当の本人は素知らぬ顔で続ける。
―――どれだけ検証しても何も見出せぬ。まだ瑞々しい臓の腑も、千切た四肢も、飛び散った朱の体液も全て検証し尽くしたというのに。それでも尚、卿がここに在るべきではなく、ここに在るはずがないことしかわからぬとは……なるほど。
淡々と事実を確認しているような調子で仮面は思考を続ける。
―――よかろう。ならば……
気づけば仮面は目の前まで来ていた。
相手が人であれば息がかかるくらいの距離。
そして一拍遅れてそれを追うように純白の手が近づいてくる。
―――卿が機会の女神の恩情を選びとれるか観するも一興か
手から伸ばされた指先。
5本のそれにまるで鈎爪が迫るかのような恐怖を感じるが、何もできない。ただ指が額に近寄ってくるのを見ているだけしかできない。
ぬぢ…っ。
何かに指がめり込む音が耳の内側に響く。
痛みはない、だがそれが逆に怖かった。
―――無論、我輩が直接手を出すことなどありはしない。安易な加筆修正は舞台の脚本の質を落とす。
作品が思うように展開を広げぬのであれば、作品に問題があるのではなく設計段階での緩んだ思想が原因だ。後で手を加えて直そうという考えは心に甘美な油断を招くだろう。
同じ生み出す者として、我輩はその所業に蔑するを隠さない。
世にある美と同様、作品に揺らぎがあるはその本質が不完全であると同時、完全へ向かう生命の息吹であるからだ。傑作かどうかを気に留めるのであれば、それは完全なものを作るのではなく、すべからく外に判断を委ねるが良い。
ツぅ…。
なぞるように繊細に、何かを確かめるように、何かを識るかのように、頭の中で指先が踊るのがわかる。そんなものわかりたくもないのに。
―――つまり卿が恩情に浴することが出来るかどうか、その裁可を待てるようにすることは我輩が所作故ではない。
物語に無粋な横槍を書き加えるは醜悪なれど、脚本のページを捲る速度を早めるだけに過ぎぬ。
その程度であれば、読者の一人として先を待ちきれない期待の表れと一笑に付せるであろう。時間は有限でもあるのだから。
づぷ…んッ。
指先が何か弾力のあるものに触れた。
眼窩をなぞり目玉を磨き、脳を舐められている、とわかる。
身じろぎひとつすら許されないオレは恐怖に震えることしかできない。
―――恐れる必要はない。我輩は敵ではないのだから。
卿たちが相手をするのは我輩ではなく、我輩の機構であるべきだ。無論、キミがそのように道を選ぶことが出来れば、の話ではあるがね。
蠢いていた指先が止まる。
まるで探していたものを見つけたかのように。
―――今までの卿として死ぬのか、それともまったく別のキミとして死ぬのか
どうして、と。
問いの言葉が思わず口をついて出そうになるものの、どうしても声を出すことができずに終わる。だがどういう理屈かはわからないが、それだけで仮面はこちらの意図を理解したようだ。
―――理由などありはしない。
鳥が空を飛ぶように、林檎が大地に落ちるように、そして卿が本能の奥に感じた在り方がああだったように、この世界は在るべくして在る。
それを理解して尚理由を求めるは、分別のつかない幼子の所作ではないかね。
だがそれでも敢えて理由をあげるのであれば……
一瞬だけ仮面の下に口が見える。
優雅に底冷えをするような満面の笑みを浮かべた。
―――卿は『運』が良かったのだよ
めぢっ!!
「――――――!!?」
指先が何かを握りつぶすように荒々しく動く。
時に潰し、時に繋げ、時に削り、時に切り、時に混ぜ、時に作り、時に爆ぜる。
頭の中で小さな無数の毒蛇が蠢くかのようなその圧倒的な不快感。もし声が出せたのならきっと言葉にならないような叫びをあげていたに違いない。
だがオレにはそれすら許されず、可能なのは耐えることしかない。
ぐちっ、ごしゃっ、めきゃっ、ぐずっ、どちゃ、ぱきっ…
どんなに短かろうと、永劫とも思えるほどの長い時間。
ただただ、ひたすらに耐える。
先が見えないどころか一瞬先を考えられない。
―――反転せよ
歌い上げるかのような一言と共に。
ずるり…っ。
指が引き抜かれる。
頭の中が熱かった。
まるで熱の川が内側をどろり、と流れているのではないかと思うほど。
それが何を意味するのかはわからない。
―――ご機嫌よう、逸脱した者
もし選んだ道が我輩を期待に胸躍らせるものであったなら、そのときは改めてその名を聞き記憶に留めるとしよう。
周囲を取り巻く鮮やかな黒の景色が薄くなっていく。
目の前の相手のの出現と共に生まれた視界が元の闇に沈もうとしていることは理解できた。
得体の知れない相手が消えてくれるというのだ。
安堵して見送るべきだろう。
だからなぜそうしようと思ったのかはわからない。
気づくとオレは衝動的に何かを訴えようと口を開いていた。それが音として伝わらないということはわかっていたにも関わらず。
―――我輩の名を再度問おうというのかね。
それはいくらなんでも欲が深すぎると思うべきだ。それ以前に、今の卿では我輩の名を識ることすら出来はしない。問いそのものこそがその証左だ。
もしかしたら罵詈雑言を発したかったのかもしれないし、助けて欲しいと哀願したかったのかもしれず、そしてそれと同じくらいの可能性で名前を問いたかったのかもしれない。
オレ自身すらもわからないそれを、仮面はそう理解したようだった。
―――とはいえ、その在り方が卿の存在の根か。
我輩と遭遇する以前に絶命するはずだったその身。刹那に過ぎぬ一瞬なれど見事掴み取ったその在り方に敬意を表するとしよう。
消えかけていた瞳の緑がすこしの間だけ戻る。
―――例え今はわからずとも、理解しえる刻が来たらばこの名を知ることが出来るであろうと信じよう。
びしり、と仮面に亀裂が走る。
みしみしと軋む音を立てつつそのヒビはやがてマスクを覆い尽くす。
―――『 』
浮かんでいた白い両の手はどろりと溶けて地に落ちた。
そのまま闇に染み込み消えはてる。
―――それまではただ忘却するが良い。
そしてその忘却が永久のものでないことを祈れ。
最後に仮面が砕け散ったとき。
今度こそ本当に意識は闇に沈んだ。