名も亡き彼は語る
名も亡き彼は語る
「君は、自殺、という言葉を知っているかい?」
と、俺の前に座る男は言った。
顔を、ジェイソンの仮面で隠した男。
名はない。無くして失くして亡くして、忘れ去られた――。
初めて会った時、彼は自分をそう評した。
名も無き、ノーネーム。
「まあ、知っていない者はいないだろう。一年に三万人、自殺未遂はその十倍。十六分に一人。世界的に見ても異常なほどの多さ。それが日本の自殺だ」
淡々と述べるノーネーム。
諸手を上げてアメリカン人風の呆れた仕草をする。仮面の所為で、酷くコミカルで酷く不気味。
「そして一般世間での一般定義では、自殺は『自分が意志を持って自分を殺すこと』だ。まあ細かい呼び方はどうでもいいが。それが自殺。それこそが自殺。意味もなく生き、意味もなく逝く。自殺はしてはいけないことだ、と、世間は言うが――君はどうだろう、自殺は、してはいけないことか」
「……どうだかな」
奴に聞かせる初めての言葉。
初めての発言だ。
「漠然と、しか考えたことはないが――自殺は、してはいけない。貴様の言ったように、意味もなく生き、意味もなく逝くのが自殺だ。報道なんかを見るたび吐き気がする。意味が分からなくて、な――分からないことは、嫌いだ。人間は死ぬために生きるのではなく生きているから生きる。自分の命を自分で投げ捨てるのはその大前提に反する。
それに。自殺は、とても、とてもとても非生産的だ。ただ生きていることが生産的だとは思わないが――むしろ消費的だ――、生きていたら生きていたで何かを生産できる。意味が見出せないならばどっかに雇われて単純作業でもしてろ。もしくは臓器を売って死ね」
「漠然と、と言う割には饒舌に過ぎるな。そしてお前の話は暴論だ。その大前提は大前提ではないし、非生産的でも消費的でもないし、最後のはただの暴言でしかない」
くくく、とノーネームは愉しそうに笑った。
対して、俺は――酷く不快だ。
「ならば、貴様はどうだと言う?」
「私か? 私は――自殺を、いや死ぬことそれ自体を、大いに肯定する」
まるで、それを待っていた、とばかりに。ノーネームは両手を広げて、哄笑した。
「私は、自殺を――いや全ての死を、大いに肯定する」
「……ほう」
まるで絶対神のように。彼は言った。
「これは私の持論だが……。世間の一般定義である『自分が意志を持って自分を殺すこと』が自殺ではなく、『自分で自分を殺すこと』……それこそが自殺なのだ」
「……ん? いや、同じじゃないのか」
「言うと思った。しかしな、『自分で自分を殺す』ということは、自分の手で意志でだけじゃなく、死ぬ要因を作ったことも自殺だということだ。つまり、因果応報。因果応報だ。
そういう意味では、全ての死が自殺になる――それは分かるかな?
生活習慣病で死ぬのは誰の所為だ? 他でもない自分。自分の生き方が『死ぬ要因』。ならば誰かに殺されるのは誰の所為だ? 他でもない、自分。恨み妬み……何らかの意志を自分に持たれたのは、自分の所為。それが『死ぬ要因』。ならば通り魔に殺されるのは誰の所為だ? 他でもない――自分。ただ歩いていたから――それが『死ぬ要因』」
ノーネームは嬉しそうに語る。
嬉々として――鬼々として。
「交通事故もそう。運が悪かったから――死んでしまったのだ。運が悪いのは自分の所為。死因をつくったのは自分。だから――自殺」
「……そんなものは、ただの暴論……いや暴論ですらない。ただの言い訳だ。人の死に対する言い訳でしかない。それを聞いて俺が納得するとでも?
それで、俺が――これは自殺だから仕方ないとでも、思うと?」
くくくくく。
彼は笑う。
「ああ、思うね。仕方ないじゃないか。お前が夜に歩いていたから、そして運が悪かったから――通り魔さんに捕まって、死んでしまう」
あはははは。
僕は笑う。
そしてひとしきり笑って、言った。
「くだらない」
自殺とは何か、ということを考えているときにふと思いついた作品です。
随分前に書いた。
曲解にもほどがある殺人犯(予定)の男の話でした。