嘘つきな君の葬列
三年前、俺は彼女の骨を拾った。
細くて、白くて、少し触れただけで崩れてしまいそうな、ただの灰色の塊。それが、数日前まで俺の隣で笑っていた幼馴染ーー「氷室葉月」の成れの果てだった。
踏切の事故だった。梅雨の激しい雨の日、視界の悪い中で彼女は電車に引かれたのだという。遺体の損傷が激しく、棺の小窓を開けることすら許されなかった。
焼香の煙の匂いと、遺影の中で無邪気に微笑む葉月の顔が、今でも脳裏にこびりついて離れない。俺の心はあの日、完全に死んだ。
その後、俺ーー大久保駿は逃げるように生まれ育った街を離れ、この高校へと転校した。
すべてを忘れて、ただ息をするだけの灰色の生活。高校二年生になった今も、俺は特に誰とも深く関わらず、教室の片隅でただ時間が過ぎるのを待つだけの毎日を送っていた。
あの日が、来るまでは。
「ーーーよし、静かに。急だが、今日から我がクラスに編入生を迎えることになった。」
五月のよく晴れた日の朝。担任の気怠げな声が教室に響いた。
どうせ自分には関係のないことだと、俺は頬杖をついたまま、窓の外の景色を眺めていた。
「じゃあ、入ってくれ」
ガラガラ、と引き戸が開く音がした。入ってきたのは、誰もが目を引かれるような、端正な顔立ちの女子生徒だった。だが、俺は窓の外を見たまま、ピクリとも動かなかった。死んだ人間が、他人の人生に興味を持てるはずがなかったからだ。
「自己紹介を」
担任に促され、その女子生徒が教壇の前に立つ。
黒板に迷いのない筆跡で、その名前が書かれていく。
どんな奴なのかと、ほんの少しの好奇心に引かれて、俺は黒板へと視線を向けた。
『氷室葉月』
ドクン、と不快なほど心臓が跳ね上がった。
ありえない。そんなはずがない。弾かれたように、俺は首を教壇へと向けた。
そこに立っていたのは、少し長かった髪を肩のあたりで切り揃えているものの、あの遺影と、俺の記憶と、何一つとして変わらない顔立ちの少女だった。
動揺でガタガタと震え出す俺の視線に気づいたのか、教壇の彼女が、まっすぐに俺を見つめた。その瞳に、懐かしい光が宿る。
「氷室葉月です。……僕は、ずっと会いたい人がいて、ここに来ました」
「え、僕っ娘?」「ちょっと個性的で可愛いじゃん」とクラスメイトたちは小さくざわついた。
しかし、俺だけは分かっていた。
彼女はキャラを作っているんじゃない。昔からずっと、俺の前でも、誰の前でも、自分のことを「僕」と呼ぶ奴だった。あれは本物の、俺の知っている葉月だ。
彼女は生きている。
幽霊でも、他人の空似でもない。本物の葉月が、三年の時を経て、俺の前に現れたのだ。
ホームルームが終わった放課後。鳴り響くチャイムと共に教室が空になり、静寂が包む。夕方の赤い西日が、窓から差し込んで机の影を長く伸ばしていた。
コツ、コツ、とローファーの音が近づき、俺の席の真ん前で止まった。
「……変わらないね、駿」
上から降ってきたのは、まぎれもない彼女の声だった。
そこには夕日に照らされた葉月が立っていた。
「驚かせて、ごめん」
「お前、本当に……葉月なのか?」
「うん。僕の葬式だったよね。お父さんもお母さんも、みんな僕が死んだって信じちゃったけど……ボクは、生きてるよ」
葉月はいつもの「僕」という柔らかい口調で、静かに微笑んだ。
「あの雨の日ね、僕は踏切の近くで足を滑らせて、そのまま近くの水路に落ちて流されちゃったんだ。ボクの鞄や服を……あ、違うね。警察が、近くで見つかった別の人のお遺体を、ボクだと勘違いしちゃったみたい。ボクはね、そのまま遠くの山奥の林道まで流されて、意識を失ってたの」
葉月は俺の隣の席に、そっと腰掛けた。
「それをね、たまたま近くの山に山菜を採りにきていた、古い農家に住むおじいちゃんとおばあちゃんが見つけてくれたんだ。携帯も財布も流されちゃって、自分が誰かも上手く思い出せなくて……。二人は普通の、本当に優しい老夫婦でね。身寄りのない僕を、自分の孫みたいに大切に、怪我が治るまでずっと育ててくれたの」
葉月の瞳に、温かい光が宿る。
「二人は本当に優しかった。温かいご飯をくれて、学校に行けない僕に勉強を教えてくれて……。そのまま、その家で静かに、平凡に生きていくこともできた。でもね、頭の怪我が完全に治って、全部を思い出した時、どうしても駿に会いたくなったんだ。偽物の名前を使って、自分じゃない誰かとして生きるなんて、絶対に嫌だった。僕は、駿の幼馴染の、氷室葉月としてもう一度生きたかったの」
彼女は、ただ俺に会うためだけに、自分の名前を取り戻して戻ってきたのだ。
「……そっか。生きてて、本当によかった」
俺は張り詰めていた心の糸が切れ、視界が涙で滲むのを感じた。
今度はもう、絶対に手離さない。俺は彼女の細い身体を、そっと抱きしめた。
放課後の学校を出た俺は、葉月を連れて、自分が暮らす古びたアパートの自室へと帰ってきた。
部屋の明かりを点けると、いつもの見慣れた退屈な四畳半が、どこか違って見えた。
「狭い部屋だけど、上がってよ」
「お邪魔します。ふふ、駿の部屋、男の子って感じがするね」
葉月は畳の上にちょこんと座り、珍しそうに部屋を見回した。
三年前のあの日から、止まっていた時間が、秒針の音を立てて静かに動き出すような感覚がした。
「お腹、空いてないか? 大したものは作れないけど」
「僕、おじいちゃんとおばあちゃんの家で、お料理手伝ってたんだ。だから、僕が作るよ。冷蔵庫、借りてもいい?」
葉月は制服の袖をまくると、冷蔵庫にあるもので手際よく、卵焼きと簡単な野菜炒めを作ってくれた。
湯気の向こうで、楽しそうに箸を動かす葉月。
テレビから流れる、ありふれたニュース。
窓の外を通り過ぎる、車の音。
かつて失ったはずの、あまりにも平凡で、あまりにも愛おしい日常が、今、確かに俺の手にある。
「美味しいよ、葉月」
「本当? よかった。これからはね、毎日でも作ってあげる」
葉月は嬉しそうに目を細めた。そこには不安や怯えなど何一つとしてなかった。ただ、大好きな人と一緒にいられる、等身大の女の子の笑顔だけがあった。
夜が更け、窓の外には静かな星空が広がっていた。
二人は並んで座り、これからのことを話し合った。
「明日、お父さんとお母さんのところへ行こう。ボクが生きてるって分かったら、きっとびっくりして大泣きしちゃうだろうな」
「ああ。俺も一緒に行くよ。お前が帰ってきたって、ちゃんと説明しなきゃな」
葉月は自分の膝を抱え込みながら、少し寂しそうに微笑んだ。
「それからね……僕を育ててくれたおじいちゃんとおばあちゃんにも、ちゃんと駿を紹介したいんだ。何も言わずに、置き手紙だけ残して出てきちゃったから。『今までありがとうございました。僕、一番会いたかった人に会えました』って。でも、きっと心配してると思うから」
「そうだな。二人には、俺からもちゃんとお礼を言いたい。葉月を守ってくれて、育ててくれて、ありがとうございましたって」
俺がそう言うと、葉月はそっと俺の肩に頭を預けてきた。
柔らかな髪の香りが、鼻腔をくすぐる。
「僕ね、もう何処にも行かないよ。ずっと、駿の隣にいる」
「ああ。どこにも行くな。」
特別なことなんて、何もいらない。
ただ、朝起きて「おはよう」と言い合い、夕方に「ただいま」と帰ってくる。そんな、どこにでもある平凡な幸せを、二人で一歩ずつ積み上げていけばいい。
数日後、二人は各駅停車の電車に揺られていた。
葉月を三年間、温かく育ててくれた老夫婦の住む、あの山奥の家へと向かうためだ。
車内はガタゴトと心地よい駆動音だけを響かせ、のどかな田舎の景色の中を走っている。夕暮れのオレンジ色の光が、車内に差し込んで二人を優しく包み込んでいた。
俺は隣に座る葉月の手を、そっと握りしめた。
彼女の手は少し冷たかったけれど、握り返してくる力は驚くほど確かだった。
「緊張してる?」
葉月が覗き込むようにして、「ボク」と悪戯っぽく笑った。
「少しな。でも、ちゃんと挨拶したいから」
「大丈夫だよ。二人とも、すっごく優しいから。駿のこと、きっと気に入ってくれる」
電車の窓の外、遠くに見える山並みの向こうには、二人がこれから歩んでいく、新しくて、ごく普通の未来が待っている。
過去の悲しみも、三年の空白も、これからの平凡な毎日の前には、きっと少しずつ薄れていくはずだ。
「葉月」
「ん?」
「おかえり」
俺の言葉に、葉月は今日一番の、満開の笑顔を咲かせた。
「ただいま、駿。ーーー僕を、見つけてくれてありがとう」
夜、列車はやがて夕闇を抜けて、温かい光の待つ駅へと滑り込んでいった。
ガタゴトと鳴り響いていた電車の音が止まり、俺たちは小さな無人駅に降り立った。改札を出ると、そこには見渡す限りの緑と、ひんやりとした山の空気が広がっている。すっかり日は落ちていて、街灯もまばらな一本道を、俺は葉月の案内で歩いた。
「この坂を上ったところが、おじいちゃんたちの家だよ。……あ、電気が点いてる」
葉月が指差した先には、古いけれど手入れの行き届いた平屋の古民家があった。窓から漏れる温かいオレンジ色の光が、どこかホッとする安心感を醸し出している。
玄関の引き戸の前に立ち、葉月が少し緊張したように息を吸い込んだ。
「ごめんください……! おじいちゃん、おばあちゃん、僕だよ。葉月だよ」
ガラガラと音を立てて扉が開く。そこに現れたのは、腰の少し曲がった、優しそうな小さなおばあちゃんだった。おばあちゃんは目を見開き、手に持っていた布巾を床に落とした。
「……葉月かい? 本当に葉月かい……!」
「うん、僕だよ。勝手に出て行っちゃってごめんなさい。でもね、一番会いたかった人を、ちゃんと連れて戻ってきたよ」
奥から白髪のガッシリしたおじいちゃんも顔を出し、葉月の姿を見るなり、その目から大粒の涙を溢れさせた。二人は葉月を壊れ物を扱うように抱きしめ、何度も「よかった、無事でよかった」と繰り返した。
ひとしきり涙の再会が落ち着いた後、俺は二人の前に正座し、深く頭を下げた。
「大久保駿と申します。三年前、葉月が流されてから今まで、我が子のように大切に育ててくださって……本当に、ありがとうございました」
おじいちゃんは俺の肩にゴツゴツとした大きな手を置き、優しく笑った。
「頭を上げておくれ、駿くん。葉月から君の話はいつも聞いていたよ。この子はね、記憶をなくしている間も、時折寂しそうに『シュン』って呟いていたんだ。君が、この子を生きる世界に繋ぎ止めていたんだね」
その夜、おばあちゃんが作ってくれた温かい山菜鍋を囲みながら、俺たちはこれからのことを話した。葉月の両親にも連絡を入れ、明後日には実家へ顔を出す手はずも整った。全てが、驚くほど穏やかに、平凡に動き出そうとしていた。
「駿くん、葉月。明日はワシらは町へ買い出しに行ってくる。二人はゆっくり、この山を散歩でもしてくるといい」
翌朝、老夫婦は笑顔で軽トラックに乗り込み、山を降りて行った。残されたのは、静かな古民家と、俺と葉月の二人だけ。
「ふふ、駿とお留守番なんて、なんだか不思議な感じだね」
葉月はおじいちゃんに借りたという大きめのTシャツの袖を揺らしながら、縁側に腰掛けて、嬉しそうに足をパタパタと鳴らした。
山の朝は清々しかった。俺と葉月は、二人が三年間暮らしたという山道を並んで歩いた。
「ここね、僕が初めて目を覚ましたあとに、おじいちゃんと一緒に歩いた道んだ。最初は自分の名前も分からなくて怖かったけど、この景色を見てたら、なんだか心が落ち着いたんだよね」
葉月は立ち止まり、大きく息を吸い込んで振り返った。肩のあたりで切り揃えられた髪が、木漏れ日に透けてきらきらと輝いている。
「ねえ、駿。僕、あの雨の日に流されて、いろんなものを無くしちゃった気がしてた。学校も、友達も、元の生活も。……でもね、今こうして駿が隣にいてくれるだけで、全部どうでもよくなっちゃうくらい幸せなんだ」
一歩、葉月が俺との距離を詰める。その瞳には、かつて教室で見せたような寂しさはもう欠片もなかった。ただただ、まっすぐな好意だけがそこにある。
「僕のこと、もう二度と見失わないでね」
少女特有の甘い声と、「僕」という少年のような一人称。その絶妙なアンバランスさが、胸の奥をギチリと締め付ける。
三年前、俺は彼女を亡くしたと思って世界を呪った。でも、神様は残酷じゃなかった。こうして、俺の知っている葉月のまま、俺の腕の中に返してくれた。
「見失うわけないだろ。お前がどこに行こうと、俺が何度でも見つけてやる」
俺がそう言うと、葉月は耳まで真っ赤にして、照れ隠しのように「ふん、言ったね?」と笑った。そして、そっと俺の制服の裾を掴んでくる。
「じゃあ……手を繋いで歩いてもいい?」
「……ああ」
差し出された小さな手を、今度はぎゅっと握りしめる。少し冷たいけれど、確かに生きている人間の体温。
誰も俺たちを引き離せない。過去も、死の影すらも、今の俺たちには届かない。
鳥のさえずりと、風に揺れる木の葉の音だけが響く静かな山道で、俺たちは一歩一歩、確かめるように歩みを進めた。




