第2話:実家への再出向:現地調査の開始
新幹線の窓の外、見慣れた都会の景色がまたたく間に後方へと流れ去っていく。
在来線に乗り継ぎ、山を越えるにつれて、車内の空気は湿り気を帯び、重くよどんでいくように感じられた。
悠斗は座席に身を深く沈め、窓ガラスに映る自分の顔を眺めていた。都会で手に入れた自信も、ダーリンに愛されているという実感も、生まれ育った地元に近づくほどに、薄皮が剥がれるように失われていく気がした。
(……あぁ、イヤだ。帰りたくない)
目を閉じると、不意に、あの日の光景が鮮明に蘇る。
俺は母親という名の悪鬼に怯え、身を守るように押入れの中で眠っていた。
「なんとか、いえよぉっっ!」
大きな声で目が覚めた。が、すぐに傷だらけの体を丸めたまま瞼を閉じた。
いつものダミ声、奇声、物が壊れる音。こういう時に見つかったらろくなことにならないのは、身に染みてわかっていたからだ。しかし、この日はいつもと様子が違った。
「情けないねぇ! 立たない、使えない、何の価値もない役立たずのゴミがッ!」
「うぐぐぅぅ、……ぐぅっ、あ”っ、ががっ、」
母の狂ったような絶叫はいつものこと。こうなった時に父は「ごめんなさい」「許してください」とひたすら謝罪を繰り返すか、無言で蹲っているかだ。だが、聞こえてくるのは、今にも死にそうな苦痛の響きだ。
「ぐええ……っ、あ”あ”あ”、ゔゔゔ……ぅ! ひぃぃ……」
「アンタの存在意義なんてねぇんだよ、さっさと次の種を産ませるための肥料になりなよッ!」
あの時、震える手で押入れの襖をほんの少しだけずらして覗いたのは、単に父が殺されたら、次は自分だと思ったからだ。
母は全裸で力なく横たわる父の上に跨がり、その首を両手で絞め上げていた。父の顔はどす黒く変色し、白目を剥いたまま、うめき声だけがだらしなく開いた口から漏れている。
「ほら、死ねよ! 死んで早く代わりを寄越せ! アンタみたいな腐った種じゃ、私の呪いは終わらないんだよッ! 産み損ないの悠斗なんかじゃ足りないんだ、もっと、もっと私の渇きを癒やせるモノを出しなよッ! この、不能の、クズ野郎がァあああああ”あ”っ!!」
高笑いと、肉が擦れる嫌な音。
母の口からは、とても人間とは思えないドロリとした悪意まみれの罵詈雑言が溢れ続けていた。
幼い俺は、鼻を突く血と汚物の臭いに吐き気を覚えながら、必死で口を塞いで耐えていた。
(あれで完全に、女がトラウマになったんだよなぁ……)
悠斗は目を開け、深く息を吐いた。彼にとって『母親』とは、頼んでもいないのに自分をこの世に送り出した女、それ以上の意味はない。その女が、血に飢えた怪物でしかないのだ。
地元を離れて10年近くが経ったというのに、いまだに、子供の手を引く女の姿を見るだけで、体が震えてしまう。
電車が山間部の駅に滑り込む。
かつては宿場町として栄えたというその町は、時が止まったように以前と変わらず陰気くさい。悠斗には、異分子を排除する空気に塗り潰された墓場のように見えた。
駅のホームに降り立つと、悠斗は、ポケットの中でスマホを握りしめる。
そこには、ダーリンと過ごした『聖域』の記録が詰まっている。この暗い淵に引きずり込まれないための、唯一の拠り所だ。
(そういえば)
悠斗は胸元に手を当てる。
出掛けにダーリンが首に掛けてくれた『お守り』がある。何でも、ずっとダーリンを守り続けてくれているという霊験あらたかなものらしい。
優しいダーリンは、気鬱そうな悠斗を心配して、最後まで「一緒に行く」と言ってくれたが、強く拒否した。だったら、と自分の代わりにと持たせてくれたのだ。
あの女に大事な人を一目でも見せるつもりはない。何をしでかすのか恐ろしいというのもあるが、あんな穢らわしい存在を目にして、ダーリンが汚れてしまうのがイヤだった。
(実家のゴミを処分して、さっさと帰る。それだけだ)
自分に言い聞かせつつ、重い足取りで改札を抜けると、券売機の横に立つ藤田を見つけた。
藤田とは卒業以来会っていなかったが、あまり印象は変わっていない。学生の頃は金髪だったのが、明るめの茶髪になっていることと、ラグビーをやっていてガチムチだった体型が、ガチが消えてムチになったぐらいだ。
ちなみに悠斗は、貧乏苦学生だったこともあって当時はヒョロガリだった。現在は程よく締まった細マッチョといったところか。モノトーンで合わせたシンプルな細身のボトムとぴったりと体に沿うニットは緩んだ体型では似合わない。
藤田は悠斗に気づくと、「よっ」と軽く手を上げた。その動作には、親友を売った負い目も、十年ぶりの再会を喜ぶ風情もない。
「久しぶりだな。悠斗もすっかり都会もんになっちまって」
藤田がしらっとした顔で近寄ってくる。
俺は違和感を覚えた。藤田は俺のことをずっと留守と苗字で呼んでいた。逆ならともかく、この年になって下の名前呼びなんて、後ろめたいが故のわざとらしい親しさアピールか?
「おう。お前は相変わらず無神経そうだな」
俺は隠そうともせず、不機嫌な声を絞り出した。
俺がこの町から逃げ出すために必死で勉強していた頃、愚痴を聞いてくれたのは藤田だけだった。あの化け物じみた母親のことも、家を捨てたいという本音も、こいつにだけは話していた。
俺がゲイであることまでは話せなかったが、居心地の悪いこの場所で、唯一、友達と呼べる存在だったのは確かだ。だから、連絡先も教えたのに。
(……まさか、こいつに裏切られるとはな)
学生時代に裏切られていたら、完全にブチ切れていた自信がある。だが、さすがに今は切れる前に話を聞く程度の分別はある。
「そう怒んなって、こっちにも事情があるんだよ。誰かに見つかる前に、さあ、乗った乗った」
藤田は周囲を窺いながら、駅前に停めてあった黒塗りのアルファードへ案内すると、早く乗るように急かしてくる。
「デカい車だな……」
「おうよ。嫁も娘も気に入ってんだよ」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに藤田がニヤリと笑う。
ピカピカに磨かれたボディ。内装もやけに豪華だ。運送業の給料でデキ婚した嫁と娘を養いながらでは、生活も楽じゃないはずだ。
「悠斗は車、何乗ってんだ?」
「免許持ってない」
「ええ?」
「都会じゃ交通網が発達してるから不便しねーんだよ」
本能的に車種でマウントを取ろうとしていたのが肩透かしを食ったのか、藤田が何やら同情的な視線を向けてくる。
(都会じゃ車を持つメリットとデメリットが釣り合わねーんだよ。どうせ、残クレだろ。俺の給料はお前の倍以上あるからな?(たぶん)てゆーか、人を裏切っておいて、マウント取ろうとはどういう了見だ)
車が発車し、インパネの吹き出し口から強力な冷房の風が吹いてきたが、胸の奥のモヤモヤは晴れない。
車窓から見える風景は閑散としていた。10年前はここまでではなかったはずだ。駅に到着した時に感じた陰気臭い空気が町中に蔓延しているのを感じる。
(縮小均衡、といったところか……)
だが、この静まり返った町から感じるのは、単なる過疎化の匂いではない。何か得体のしれないものが潜んでいるような、不吉な予感が背筋を走った。




