第5話「硝子の祈り」
夜明け前の港。潮の匂いは濃く、冷たい風が肌を刺す。
昨日まで揺れていた残像の少女は、今日、私の胸の奥で静かに形を整えている。
痛みはまだ残るが、それは恐怖ではなく、責任の証だった。
「瑠璃……準備はできてる?」
石田が静かに訊く。フィルムカメラを肩に掛け、光と影を観察するように立つ。彼の視線は優しく、だが迷いがない。私も頷く。
——今日で、決着をつける。
廃屋に向かう道、空はまだ紫色で、町は静寂に包まれていた。足元には砂利が散り、微かに軋む音が響く。残像の少女が指先で私を導く。歩を進めるたび、光の残像が揺れ、潮騒と混じる。
倉庫の扉を押すと、昨日とは異なる空気が待っていた。壁の写真が散乱し、残像は中央に浮かぶ。少女の顔は穏やかで、微笑むように光を放つ。
——触れることで、道は開く。
——私は、今日こそ彼女を救う。
手袋を外し、指先で硝子の残像に触れる。冷たく、鋭い。だが痛みは恐怖ではなく、繋がりの証。少女の思念が私の中に流れ込む。過去の記憶、孤独、恐怖、そして最後の願い。全てが胸に刻まれる。
「大丈夫……もう怖くない」
心の中で呟く。言葉は残像に届き、少女は微かに震え、そして安らぎのように揺れた。
倉庫の奥、最後の写真。少女と家族、笑顔で手をつなぐ姿。事故で失った日々を、残像は私に委ねるように見せる。私は息を整え、彼女の存在を受け入れる。
——さよなら、残像。
力を込め、私は硝子に触れる。光が揺れ、少女の像が一瞬輝いた後、波紋のように広がり、消える。痛みは胸に残るが、重くない。温かい感覚が、孤独を溶かす。
「……行った」
石田の声に、私は小さくうなずく。残像は消えたが、確かに存在した証は私の中にある。写真、記憶、痛みと温もり。全てが私を強くする。
港に出ると、朝陽が水面を染める。潮騒が優しく胸を撫でる。観覧車の廃墟も、今日だけは少し穏やかに見える。私は深呼吸をし、町を見渡す。迷い、恐怖、痛みを超えた先に、確かな光があった。
石田がそっと手を差し伸べる。「瑠璃……本当に強くなったね」
私は彼の手を握り返す。言葉はいらない。互いの存在と、この町の静けさが、全てを物語っている。
——残像は、私に生きる意味を教えた。
——痛みを受け入れることで、誰かを救う力が生まれることを。
港を後にして歩くと、潮の匂いと朝陽が混ざり、町は新しい一日を迎える。残像の少女はいない。けれど、その温もりは確かに胸にある。痛みを伴う記憶は、私の心の硝子の中で輝き続ける。
——ありがとう。さよなら、そして、また。
静かな海に向かって、私は手を合わせる。祈りではなく、誓いとして。残像の少女の存在と、私の決意を胸に抱きながら。
潮騒が答える。朝陽に照らされた水面は、硝子のように透明で、すべてを映す。
そして私は、歩き出す。痛みと温もりを抱えたまま、新しい日常へ向かうのだった。