第4話「硝子の迷宮」
夜の潮鳴り町は、昼間の顔を忘れたかのように静かだった。
港を離れ、小路を抜けると、観覧車の廃墟が月光に銀色の影を落とす。私の足音がコンクリートの隙間で微かに響き、風がそれに混ざって低くうなる。残像は静かに揺れて、私を導く。
「瑠璃、なんでこんな所に……」
石田が少し声を潜め、私の横に立つ。彼の目には不安と興味が混じる。私は振り返らず、ただ歩く。道は狭く、建物の影が長く伸び、硝子のように鋭い。
——ここだ。
廃屋の裏手にある古びた倉庫。昨日見つけた場所より奥、扉は半ば崩れ、錆びた蝶番がかすかに軋む。残像の少女は、まるで待っていたかのようにそこにいる。息を止め、硝子の冷たさを指先で感じる。
「瑠璃……」
声が、昨日よりも鮮明に届く。言葉にならず、心だけに伝わる呼びかけ。少女は私を見つめ、手を伸ばす。触れると、胸の奥に痛みと切なさが同時に押し寄せる。
石田がそっと私の肩に手を置く。「無理しなくていい……」
私は振り返らず、頷く。無理はしていない。ただ、触れることでしか道は開けない。昨日も、今日も、そして明日も。
倉庫の中は薄暗く、埃と潮の匂いが混じる。残像は光の筋となり、壁に映る影が迷宮のように揺れる。歩みを進めるたび、像の輪郭が変わり、私の心を押す。
——ここで止まるな。
奥の壁に貼られた古い写真。過去の祭り、笑う少女たち、消えた家族の顔。残像の中心は、その中の一枚に集まる。微かに色あせた笑顔――昨日から私を呼んでいた少女の顔だ。
指先で写真を触れる。衝撃が走り、頭の中に映像と感情が流れ込む。少女の記憶――笑い、泣き、恐怖、孤独――が私の意識に重なる。痛みとともに、真実がちらつく。
——彼女は事故で死んだ。
——町の誰もが忘れたはずの事故。
——だが、残像として、私に託された。
声が、風に混ざって囁く。
——見つけて。
私は息を整える。触れることでしか道は開かない。痛みは増すが、それは代償ではなく、道標だ。石田も無言で見守る。彼にとっても、残像は理解し難い現象だが、信じるしかない。
倉庫の奥にあるもう一枚の写真。少女が一人で海を見つめる背中。日付は数年前、町の事故の日。指先をそっと触れると、残像が光を増し、揺れる。
「瑠璃……わかる?」
石田の声が低く、しかし確かな重みを持つ。私は小さくうなずく。わかる。少女が何を伝えたいのか、少しずつだが理解できる。
——私は、ここで消えるはずだった。
——でも、まだ消せない。
——だから、見つけて。
涙がこぼれそうになる。残像は儚く、でも強い意志を持って私を待つ。触れることで、道が開ける。触れないと、残像は孤独に終わる。
「よし……行くよ」
私は手を伸ばす。硝子に触れ、像を胸に抱くようにして意識を集中する。痛みとともに、少女の思念が私の中で形を成す。像が揺れ、光が一瞬、私を包む。
——少女の記憶が、私の胸に宿る。
——これで、少しずつ真実が見える。
石田がそっとつぶやく。「瑠璃……君、本当に強いね」
私は答えず、胸に残像を抱えたまま、夜の町を歩き出す。少女の声は微かに残る。消えたわけではない。道はまだ続く。
——見つける。
——絶対に。
港に戻ると、潮の香りが強くなる。夜空には月が昇り、観覧車の影が揺れる。残像の少女はまだ私を呼ぶ。けれど、今日の私は迷わない。迷宮の出口は、少女の願いと私の決意で開かれる。
夜の風が、硝子のように冷たい。
私は歩く。少女の声とともに、真実を抱えて。