第3話「硝子の海」
朝の光が、漁港の水面を裂くように差し込む。
潮の香りと冷たい風に包まれながら、私は昨日の倉庫のことを反芻していた。あの少女――残像――は確かに存在した。手を伸ばすと、掌に微かに重さを残していった。重さは痛みでもあり、責任でもある。誰かが置いていった荷物のように、私の胸を押す。
「瑠璃、昨日の写真、見せてくれ」
石田がカメラを肩に掛け、私を見つめる。フィルムを巻き戻す手の動きが、妙に落ち着いて見える。私の見たものは写らないと知りつつ、彼は諦めない。
「……何も、映ってないよ」
私は答える。視界の端に、昨日の残像がちらつく気がした。窓の硝子に、漁港の水面に、どこかに――まだ漂っている。
石田は微かにため息をつく。「やっぱり……か」
その口調には、悔しさもあるが、どこか期待も混ざっていた。写真に残らなくても、君が見ているなら、それでいい、とでも言うような目だ。私は無言で頷く。
港を離れ、町の小路を歩く。観覧車の廃墟が、斜陽に赤く染まる。昔は観覧車の下で祭りが開かれたのだろう。今は静かで、廃墟の鉄骨が夏の光を反射する。残像はこうした場所を好む。過去と現在の境界が薄いからだ。
「瑠璃、聞いてる?」
石田の声に我に返る。私の意識は、硝子に映る残像の奥底にまだある。薄い像は私を待つように揺れていた。
「……聞いてる」
歩きながら、私は考える。残像の少女は誰なのか。なぜ私にだけ見えるのか。昨日の少女の願い――「見つけて」――は誰に向けられたのか。
ふと足を止める。視界の片隅、廃屋の窓ガラスに光が反射していた。そこに、薄い像。昨日とは別の少女か、それとも同一人物か。歪んだ笑顔が、私を呼んでいる。
「……ここか」
私は息を潜めて近づく。硝子は冷たく、手を触れると微かに震える。中には古びた写真が散乱していた。人の顔がいくつも映り、でもそのうちの一つだけ、強烈に私を引きつける。
——少女の顔。
目が私を見ていた。笑顔だが、笑いの奥に何かが隠れている。悲しみか、それとも諦めか。硝子の奥で、時が止まったままの表情が揺れる。
「瑠璃……大丈夫?」
石田の声が遠くで響く。振り返ると、彼は少し顔をしかめ、でもこちらを待っている。写真を撮る手を止めたまま、私を信じているようだった。
私は写真に手を伸ばす。指先が硝子に触れる瞬間、像が鮮やかに揺れた。声が聞こえる。言葉ではなく、心の奥に直接届く呼びかけ。
——助けて。
握りしめる。冷たさが掌に伝わり、痛みが胸に押し寄せる。だが逃げない。昨日誓った通り、私は少女を見つける。責任を果たすために、痛みを受け止めるために。
その時、倉庫の奥からかすかな物音。振り向くと、影がひとつ、廃屋の端に消える。誰かがいる。残像か、それとも人間か。心臓が跳ねる。石田も気づいたらしく、カメラを構える。
「瑠璃……追う?」
私は小さく頷く。歩みを止めず、硝子に触れながら影を追う。像は廊下の奥、光と影が交錯する場所に導く。触れるたび、少女の思念が波紋のように胸を揺らす。痛みと切なさが、潮騒と混ざり合う。
そして、廊下の突き当たり。壁一面の窓ガラスに、鮮烈な残像。少女はここにいた。私を見つめ、微かに手を振る。口が動き、言葉にならない祈りが私の心に届く。
——私を、見つけて。
息を整え、私は手を伸ばす。硝子は冷たいが、少女の意識は温かい。触れることでしか、道は開けない。触れることでしか、救いは始まらない。
石田が後ろからそっと囁く。「瑠璃……行くんだね」
うなずく私。言葉はいらない。決意は硝子に刻まれ、残像の少女に伝わった。光が揺れる。波紋が胸を押す。
夕陽の中、港の水面が赤く燃える。残像は揺れ、でも確実に存在を主張する。私は少女の意識に呼応し、今日の誓いを繰り返す。
——見つける。
——絶対に。
港を後にすると、潮の香りが夜に溶ける。少女はまだ消えない。だが、私の足取りは確かだ。昨日よりも、今日の方が、確かに近づいた。
残像は、導きの光。硝子の奥に、必ず道はある。私はそれを信じて、夜の町を歩く。