第2話「潮鳴りの告白」
夏の海は、昼も夜も変わらず潮騒を撒き散らす。
潮鳴り町の港は人影がまばらで、空気は湿っている。私は石田に促されて、漁港の古びた桟橋まで足を運んだ。彼はカメラを構えたまま、私の横で小さく息を吐く。
「瑠璃……昨日の、あれ、まだ残ってる?」
私は窓に映った残像を思い出す。消えたはずの声が、掌の奥でざらつく。返事はしない。言葉にしたら、何かが確定してしまう気がした。
「……まだ、見える」
私の声は風に溶けて、港の波に飲まれた。石田はカメラを下ろし、ゆっくりと海を見つめる。目の奥に、彼なりの恐れと期待があるのがわかる。
「俺、フィルムには映らないかもしれないけど……君の見たものを、なんとか残したい」
言葉は優しいが、どこか押しつけがましい。私は口を閉ざす。残像は人に見せるものではない。触れれば、少しずつ魂が浸食される。見せたいという欲は、知らず知らずのうちに痛みを共有することになる。
桟橋の端まで歩く。海面は銀色の波紋で揺れ、太陽の光がちらちら反射する。私は手袋を取り、指先で波の泡を触る。冷たく、軽い。それは、昨日触れた硝子とは違う。泡は消える。残像は消えない。
「瑠璃、あの子のこと……考えた?」
石田の声は低く、問いかけではなく圧力だった。私は答えない。考えたくもなければ、思い出したくもない。だが、残像は私の心を押す。見なければならない。触れなければならない。
——少女は、まだここにいる。
港の奥にある古い倉庫。かつては漁具の保管庫だったが、今は誰も寄り付かない。そこに足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。硝子のような冷たい壁の向こうに、かすかな影が揺れている。残像だ。生きているかのように動く、薄い像。
「……誰だよ、あの子」
石田が小さく呟く。答えは私の中にある。言葉にすれば、重みが現実に変わる。私は息を止め、倉庫の窓を撫でた。
像は笑っていた。少し歪んで、でも確かに「私を見て」と言っている。昨日の少女とは違う。違うのに、同じ声の残響を持っている。
「触るな……」私の囁きは、硝子に溶ける。だが残像は押し返してこない。待っている。待つことで、何かが届くとでも言うように、微かに震えている。
石田はフィルムを取り出す。シャッターを切るたび、音だけが倉庫に響く。だが、残像は映らない。映るのは空気の揺らぎ、光の筋、私の心拍。私の目にしか見えない像が、静かにこちらを呼ぶ。
「瑠璃……大丈夫?」
石田の声で現実に引き戻される。私はうなずくだけで、言葉を出さない。言葉を出すと、像が消えてしまう気がした。
倉庫の奥、古い写真が山積みになった棚の隙間に、残像の中心がある。少女はそこにいる。指先で空中をなぞり、まるで私に触れようとする。薄い声が届く。
——助けて。
私は手袋をした手を、ゆっくりと伸ばした。触れれば、痛みが私に移る。だがそれは、選ばれた者だけが背負う痛みだ。昨日の誓いが蘇る。
「わかった……見つけるよ」
私は声を上げる。風に溶ける私の声は、残像に届いた。像がわずかに揺れ、微かに笑った。喜びでも悲しみでもない、ただ確かに存在の証明。
倉庫を出ると、港に夕陽が落ちる。潮の匂いが、日中よりも強くなる。海面が赤く染まり、残像の影も薄れる。私は石田と並んで歩く。無言で、でも同じ方向を向く。
——少女はまだ消えない。
でも、私は知っている。少しずつ、残像は私たちに道を示してくれる。
昨日よりも、今日の方が、確かに近づいた。
港を後にして町を歩くと、遠くで廃れた観覧車が回っている。風に混じる潮の香りと、残像の声が交錯する。声は私の胸に届き、少しずつ心を刻む。
「ねぇ、瑠璃……この町、変だと思わない?」
石田がぽつりとつぶやく。私は答えない。言葉にすれば、また何かが決定してしまう。言葉にせず、胸の奥で残像を抱く方が、ずっと安全だ。
夜が町を覆い、港の光が水面に揺れる。残像は小さく、でも確実に光る点のように、私を誘っている。触れることでしか道は見えない。だから、触れる。選ばれた者の責任として、今日も私は硝子の声に従う。
——助けるために。