第1話「硝子の声」
硝子は嘘をつかない。
雨上がりの屋上で、体育館の古い窓に触れると、指先に冷たい衝撃が走った。霧のように薄い雫が、空と同じ色に溶けている。息を止めると、そこに浮かぶ像が、確かに呼吸しているように見えた。
「――いるの?」
声は風を装って窓の隙間から零れた。私は思わず身をすくめる。硝子に刻まれた残像――言葉にならなかった最後の感情――が、指先に触れた瞬間、私の心を押し返す。誰かの祈り、怯え、笑い。混じり合った残響。
「……うん」
返事は自分でも驚くほど低く、遠くの海に溶ける。隣で石田がカメラを構えている。フィルムカメラだ。シャッターの前で唇を噛む癖がある。彼は光を待っているのではなく、私を待っているようだった。
「写るかもしれないよ?」
彼の声は穏やかで、だがどこか重さがある。写真は正直だと彼は言う。だが硝子の残像は、フィルムにもデジタルにも映らない。私が見ているのは、露出以前の影だ。
窓にもう一度触れると、誰かの重さが私の掌に注ぎ込まれる。重いというより、空気の密度が違う。そこにはまだ、呼吸があった。
「お願い、気づいて」
小さな声。言葉は断片的で、笑いと泣きが混じる。硝子越しに見えるその少女は、この町のどこかで生きていたはずなのに、声は途切れた。私は終わりの寸前を見ている。始まりは見えない。
「誰?」
石田の声が屋上に溶ける。彼は像を見ていない。だが、私はわかる。彼は私の内側にある湿り気を探している。見つけるな、と心で念じる。
少女は手を伸ばした。硝子を押し返すように、指先が私の掌に届きそうだ。触れてはいけない。触れたら、なにかが伝染する気がした。
遠くで学校のベルが鳴る。音は海のリズムに飲まれ、薄い銀色の波になる。私はその波に合わせて息を吐く。残像は消えない。消えるのは、私の勇気だけ。
「名前は?」
問いは無駄だとわかっている。だが確かめずにはいられない。残像はいつも、名を求める。誰も名を呼ばなかったことの記録を、硝子は拒まずに示す。
少女の唇が震える。紙一重の笑み。そこに、悲しみが塗り込められている。返事ではなく、願いが届く。
——見つけて。
風が私の髪を撫でる。像は薄く、だが確かな残響を残して消えた。石田がシャッターを切る。音だけが現実に残る。私の中の何かが、またひとつ冷えてゆく。
私は知る。硝子は人の最後の言葉を残すだけではない。ある条件で、誰かを呼ぶのだ。呼ばれた者は声を返す義務を負う。返せなければ、声は私の中で膨らみ、やがて私を蝕む。だから、私は選ばれたのか。選ばれてしまったのか。
「見つけるよ」
小さく誓う。誓いは、他人に聞かれるためのものではない。自分の心を縫い合わせるために独りで言う言葉だ。縫い目は硝子の光でしか見えないけれど、確かにそこにある。
屋上の風が、窓の端を撫でて去る。残像は消えたが、微かな痕跡を私に残した。潮の匂いが遠くから届く。町全体が何かを忘れようとしている。忘れるには誰かが責任を持たなければならない。今日の私は、その役回りを引き受けたのだ。
——それは罰なのか、救済なのか。答えはまだ来ない。だが硝子は、いつものように静かに光っていた。
次の瞬間、石田が口を開く。
「瑠璃……君、なんでそんな顔してるの?」
私は振り返らず、ただ窓を見つめた。像は消えた。けれど、問いかけはまだ残っている。
——私は、答えなければならない。