表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残像硝子  作者: お試し丸
1/5

第1話「硝子の声」

硝子は嘘をつかない。

雨上がりの屋上で、体育館の古い窓に触れると、指先に冷たい衝撃が走った。霧のように薄い雫が、空と同じ色に溶けている。息を止めると、そこに浮かぶ像が、確かに呼吸しているように見えた。


「――いるの?」


声は風を装って窓の隙間から零れた。私は思わず身をすくめる。硝子に刻まれた残像――言葉にならなかった最後の感情――が、指先に触れた瞬間、私の心を押し返す。誰かの祈り、怯え、笑い。混じり合った残響。


「……うん」


返事は自分でも驚くほど低く、遠くの海に溶ける。隣で石田がカメラを構えている。フィルムカメラだ。シャッターの前で唇を噛む癖がある。彼は光を待っているのではなく、私を待っているようだった。


「写るかもしれないよ?」

彼の声は穏やかで、だがどこか重さがある。写真は正直だと彼は言う。だが硝子の残像は、フィルムにもデジタルにも映らない。私が見ているのは、露出以前の影だ。


窓にもう一度触れると、誰かの重さが私の掌に注ぎ込まれる。重いというより、空気の密度が違う。そこにはまだ、呼吸があった。


「お願い、気づいて」


小さな声。言葉は断片的で、笑いと泣きが混じる。硝子越しに見えるその少女は、この町のどこかで生きていたはずなのに、声は途切れた。私は終わりの寸前を見ている。始まりは見えない。


「誰?」

石田の声が屋上に溶ける。彼は像を見ていない。だが、私はわかる。彼は私の内側にある湿り気を探している。見つけるな、と心で念じる。


少女は手を伸ばした。硝子を押し返すように、指先が私の掌に届きそうだ。触れてはいけない。触れたら、なにかが伝染する気がした。


遠くで学校のベルが鳴る。音は海のリズムに飲まれ、薄い銀色の波になる。私はその波に合わせて息を吐く。残像は消えない。消えるのは、私の勇気だけ。


「名前は?」

問いは無駄だとわかっている。だが確かめずにはいられない。残像はいつも、名を求める。誰も名を呼ばなかったことの記録を、硝子は拒まずに示す。


少女の唇が震える。紙一重の笑み。そこに、悲しみが塗り込められている。返事ではなく、願いが届く。


——見つけて。


風が私の髪を撫でる。像は薄く、だが確かな残響を残して消えた。石田がシャッターを切る。音だけが現実に残る。私の中の何かが、またひとつ冷えてゆく。


私は知る。硝子は人の最後の言葉を残すだけではない。ある条件で、誰かを呼ぶのだ。呼ばれた者は声を返す義務を負う。返せなければ、声は私の中で膨らみ、やがて私を蝕む。だから、私は選ばれたのか。選ばれてしまったのか。


「見つけるよ」

小さく誓う。誓いは、他人に聞かれるためのものではない。自分の心を縫い合わせるために独りで言う言葉だ。縫い目は硝子の光でしか見えないけれど、確かにそこにある。


屋上の風が、窓の端を撫でて去る。残像は消えたが、微かな痕跡を私に残した。潮の匂いが遠くから届く。町全体が何かを忘れようとしている。忘れるには誰かが責任を持たなければならない。今日の私は、その役回りを引き受けたのだ。


——それは罰なのか、救済なのか。答えはまだ来ない。だが硝子は、いつものように静かに光っていた。


次の瞬間、石田が口を開く。


「瑠璃……君、なんでそんな顔してるの?」


私は振り返らず、ただ窓を見つめた。像は消えた。けれど、問いかけはまだ残っている。


——私は、答えなければならない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ