現場検証
四 現場検証
夕食前、莉理香は一人、現場へ向かった。
─いや、正確には「茉莉香の身体を借りた莉理香」だ。
昼間の張り詰めた空気から距離を置き、今は静寂の中で考えを研ぎ澄ませていた。
* * *
現場の教室は、薄暗い夕暮れの光に沈んでいた。
窓から差し込むオレンジ色が、床に長い影を作る。
その影の中に、死体があったはずの場所がぽっかりと空いている。
床にしゃがみ込み、莉理香は指先で板の継ぎ目をなぞった。
感触が微妙に違う箇所─そこが、“境界”だ。
「…やっぱり、ここだけずれてる」
木目の流れが一瞬だけ途切れ、再び続く。
ほんの数ミリのズレ。しかし、それは“二つの部屋”が重なっている証拠だった。
* * *
窓の鍵を確認する。
金属製のラッチは内側から下ろされたまま。
柵の鉄は赤く錆びており、外からの侵入はほぼ不可能。
ドアの施錠も同様。
蝶番の摩耗具合や、鍵穴の擦れ方を見ても、外部から無理に開けた形跡はない。
─密室は確かに成立している。
だが、それは「外から入れない」という意味での密室ではなかった。
むしろ、空間そのものが“入れ替わる”ことで、物理的な出入口の概念を無効化している。
* * *
黒板の前に立ち、室内全体を見渡す。
机と椅子の配置が、記憶の中の位置と微妙に違う。
たとえば─窓際の一番奥の机。
昨日の朝は脚が壁に触れていたのに、今日は五センチほど離れている。
「…呼吸してる」
昼間、花森あゆが言った言葉が、再び頭に浮かぶ。
この施設は、まるで生き物のように形を変えている。
その呼吸のタイミングを狙えば、人間を簡単に殺せる。
* * *
足音が近づいてきた。
扉が開き、影山漣が入ってきた。
「お前も調べに来たのか」
「“お前”ではありません。わたしは莉理香です」
「ああ…そうか。別人格ってやつか」
影山は教室の中央まで歩み寄り、床を見下ろした。
「ここ…少し傾いてないか?」
「傾きじゃない。ズレです。位置情報の不一致」
「意味がわからん」
「あなたの言葉で言うなら─この部屋は二枚のフィルムでできていて、それが時々ズレる」
影山は目を細めた。
完全に信じたわけではないが、否定もできない。
* * *
「…犯人は誰だと思う?」
影山の問いに、莉理香は即答しなかった。
窓の外、夕焼けに沈む森を見ながら言葉を選ぶ。
「犯人は、このズレのタイミングを知っている人間です。そして被害者をその場所に導ける人物」
「つまり内部犯か」
「ええ。そして、その人物は今もこの施設にいる」
影山は息を吐いた。
「…信じるかどうかは別として、俺もこの建物がおかしいのは感じてる」
「なら、あなたは“目”になってください。わたし一人では手が足りない」
影山は無言で頷いた。
* * *
二人でさらに細かく部屋を調べる。
机の裏、壁の継ぎ目、天井の梁。
その全てに、小さな違和感が散らばっていた。
─照明の位置が数センチ移動している。
─コンセントの高さが左右で違う。
─チョークの粉が落ちる場所が、昨日と変わっている。
それらは一見、偶然のようでいて、すべて“構造変化”の痕跡だった。
* * *
調査を終えて廊下に出ると、空気が湿っていた。
遠くで雷の音がする。
空間が動く予兆かもしれない。
「今夜、またズレが来る」
「…そのとき、どうするつもりだ?」
「見届けます。次の犠牲者が出る瞬間を」
影山は顔をしかめた。
「止めるんじゃなくて?」
「止めるためには、まず“仕組み”を完全に掴む必要がある。…それがわたしの役目です」
莉理香の瞳は、夕闇の中で異様に輝いていた。
* * *
その夜、現場の床下で微かな音がした。
何かがゆっくりと軋み、回転するような音。
莉理香はそれを聞きながら、次の瞬間を待っていた。
─空間のズレ。
─二つ目の殺人。
「幕は、もうすぐ上がる」