恐怖と疑惑
二 恐怖と疑惑
事件は、みんなの中に均等には落ちなかった。
飛鳥真の死体を見た者と、見なかった者では、明らかに空気が違っていた。
目撃した者は「見た」という事実の重さを持ち運び、見なかった者は「聞いた」という不確かな恐怖を増幅させる。
この二つの恐怖は、混ざらない。混ざらないまま、廊下や部屋の隅で膨らんでいく。
* * *
「…やっぱり殺人なんだよね?」
昼食を終えた食堂の隅。冴子が、紙コップを握りしめたまま低い声で言った。
「事故じゃないなら、そうだろうな」
影山は箸を置き、視線を宙に泳がせる。
彼は事件現場を見た組だ。しかも、莉理香の説明をほとんど無言で聞き取っていた。
その目は、何かを反芻している。
「でも、どうやって…あんな…」
「見ただろ。普通じゃない」
「だから余計に怖いんだってば!」
冴子の声はわずかに上ずる。
すぐ隣の席で聞いていた花森あゆが、パンをちぎりながら首を傾げた。
「大丈夫だよ。あれは、人間じゃできないことだもん」
「…何それ、余計怖いんだけど」
「だって人間じゃないなら、恨まれたり狙われたりしないでしょ。……たぶん」
花森はそう言って微笑んだが、その笑みが「冗談なのか本気なのか」誰にもわからなかった。
* * *
一方その頃、男子部屋。
ドアを閉めた途端、空気が重くなる。
数人が集まって、囁くように話し始めた。
「なあ…あの茉莉香って子、変じゃなかったか?」
「変っていうか…急に喋り方も目つきも違ってたよな。あれ、完全に別人だったろ」
「探偵とか言ってたしな…やべーよ、あれ」
陰口に近い会話。でも、疑惑の矛先は明らかに莉理香=茉莉香へ向かっていた。
「もしあいつが犯人だったら?」
「できるだろ。あの部屋の鍵だって…」
「でもさ、あんな死に方…」
「知らねえよ。けど、あいつ見た目普通なのに、中身やべーやつって感じするじゃん」
不安は、すぐに疑いへと姿を変える。
「異常」を一番近くで見た者は、「異常」を持ち込んだ人間を探したがる。
* * *
午後、本郷が全員を娯楽室に集めた。
窓際の椅子、中央のソファ、床に座り込む者。
部屋の中はざわつき、全員の視線は落ち着かない。
「えー…今朝の件だが…」
その声が震えているのは、本郷自身が現場を見てしまったからだ。
教師としての立場より、人間としての動揺が勝っている。
「外部との連絡は、施設の電話が不通でできない。…おそらく天候のせいだ。スマホも圏外だ」
ざわっ、と空気が揺れた。
「え、じゃあ…」
「警察とか…」
「どうすんだよ…」
本郷は手を上げて制した。
「全員、この施設から出ないように。夜は必ず施錠する。…不安だろうが、今はこれしかできない」
その言葉は「安全を守るため」というより、「自分の管理下から外に出さないため」に聞こえた。
* * *
莉理香─いや、今は茉莉香─は、その場でじっと俯いていた。
心臓が早くなる。
自分の中の“もう一人”が、再び顔を出そうとしているのがわかった。
(まだ…出てきちゃ、だめ…)
でも、声は耳の奥で笑っていた。
「出番はすぐよ、茉莉香。恐怖は観客を作る。観客が揃えば、舞台が動く」
* * *
夕方、班ごとの打ち合わせ。
探索予定を決めるだけのはずが、話はすぐに脱線した。
「本当に全員無事なの?」
「昨日の夜、廊下で誰かの足音がした」
「それ、犯人じゃない?」
「犯人はまだこの中にいるんだろ?」
口々に飛び交う噂は、もはや事実確認ではなく「怪談」になりかけていた。
そして─不意に、全員の視線が茉莉香へ集まった。
「…ねえ、あんた、あのとき現場で何してたの?」
冴子の声は、明らかに疑いを含んでいた。
「…何って」
「だって、急に仕切りだしたじゃない。あんた、何者?」
その瞬間、茉莉香の胸の奥がピキリと割れる。
視界が切り替わる。
呼吸が深くなる。
口角が上がる。
─莉理香が、また出てきた。
「わたしは探偵です。今はね」
「は?」
「犯人は、この中にいます。…少なくとも、飛鳥真を殺せる位置にいた人間が」
部屋が一瞬で静まり返った。
「そんな言い方…」
「事実です。今夜、誰かがもう一人殺されるでしょう。もしそれを防ぎたいなら、わたしの言うことに従ってください」
莉理香の声は冷たく、刺すようだった。
恐怖は、疑惑と同じくらい感染力がある。
その場にいた全員が、今や「次の犠牲者は自分かもしれない」と感じていた。
* * *
その夜。
外は風が強く、建物全体が低く唸っている。
廊下を歩く足音が、やけに響く。
各部屋では、明かりを落としたあとも小声での会話が続いた。
「お前、廊下出るなよ」
「トイレも一人で行くな」
「もし犯人が部屋に来たら…」
恐怖は人を団結させるようでいて、同時に分断もする。
「あの人は怪しい」という囁きは、暗闇で増幅していく。
そして─また、床が微かに揺れた。
建物が、呼吸していた。
* * *
その揺れの中で、莉理香はベッドに横たわり、目を開けていた。
彼女の中では、すでに推理が進んでいた。
─空間の捻れは、ランダムではない。
─一定の間隔で、部屋の構造が変化する。
─それを知っている者は、その瞬間を凶器にできる。
「恐怖は、証人を黙らせる。…次は、もっと派手に来るわね」
莉理香の口元が、薄く笑った。