第一の殺人
第二章:密室の捻れ
一 第一の殺人
朝の空気は冷たかった。
吐く息が白く見えるほどではないけれど、皮膚に触れる空気が一枚薄い氷の膜を通しているみたいで、妙に感覚が遠い。
林間学校二日目。普通なら、これからの予定を聞いてワクワクする時間のはずだった。
─なのに、その場にいる全員の動きが、ひどく遅い。
まるで時間が引き延ばされているみたいに。
* * *
「先生!…だ、だれか、早く…!」
最初の悲鳴は、女子の甲高い声だった。
次いで廊下を駆ける足音。机を倒す音。
その音の全部が茉莉香の耳には“水中の音”みたいにくぐもって届く。
叫び声が上がった場所は、二階の端の教室─普段は物置として使われている部屋だ。
昨夜は鍵が閉まっていて、クラスの誰も近寄らなかったはず。
ドアの前にはもう人だかりができていた。
本郷が「下がれ!下がれって!」と怒鳴りながら群衆を押し返している。
その背中の隙間から、茉莉香は中を覗き込んだ。
─そこに、“飛鳥真だったもの”があった。
首から下、いや足のつま先まで、すべてが均等に、ねじられていた。
太ももと胴体は同じ方向に、胸と肩は逆方向に。
服の布地すら巻き込まれるように捻じれ、ボタンがはじけ飛び、シャツが糸のように裂けている。
皮膚は不自然に張り詰め、筋肉が内部で螺旋状に引き延ばされていた。
─それなのに、顔だけは穏やかだった。
まるで悪い夢から醒めた直後のような、安らかな表情。
その“異様な矛盾”が、見ている者の心を削った。
* * *
「…なに、これ…」
誰かが呟いた。
冴子だったかもしれない。声は震えていた。
「おい…鍵が…」
影山がドアの内側を指差した。
窓も、ドアも、全部内側から施錠されている。
外から開けることはできない。窓の鍵はしっかりかかり、外側には鉄柵。
つまり─密室だ。
「割れたガラスもない。侵入経路ゼロ」
影山の言葉に、皆が凍りつく。
そんなことが本当にあるのか。
でも現実に、ここに“捻じれた死体”がある。
「…事故、なの?」
誰かのか細い声。
本郷は即座に首を振った。
「事故でこんな…あるわけないだろ」
* * *
その瞬間だった。
茉莉香の中で、脳の奥がカチリと音を立てた。
視界の色が変わる。
音が鮮明になる。
思考が研ぎ澄まされ、呼吸が落ち着く。
─莉理香が、出てきた。
「皆さん、少し下がってくれますか」
その声は茉莉香のものじゃなかった。
低く、落ち着いていて、どこか命令口調。
教室の入口に立った莉理香は、現場を舐めるように見渡す。
「死体に触らないでください。鍵と窓の確認はあとで私がやります。……本郷先生、全員を廊下に出してください」
「お、おい、君は…」
「類巣茉莉香、です。ただし今は、トランキライザー莉理香」
教室の空気が一瞬で変わった。
全員が何が起きているのかわからない顔をしている。
でも莉理香は迷わず部屋に入り、死体の周囲をゆっくり歩く。
* * *
「この捻じれ方…面白いですね」
その言葉に、冴子が息を呑む。
「面白い…って、あなた正気?」
「ええ。こういう死体は見たことがありません。物理的な暴行ではなく、空間的な歪みによってねじれた形跡です。筋肉や皮膚が外部の力で引っ張られたのではなく、位置そのものが回転した」
「そんな…」
「つまり、殺害はここで起きたわけではない」
「でも密室じゃ…」
「密室は“作られた”ものです。鍵がかかっているのは事件後。凶器はこの空間そのもの」
莉理香は死体の足元にしゃがみ、床の板目をなぞった。
「ここ、歪んでますね。ほら」
皆が覗き込むと、床の板の線が一枚だけ斜めにずれていた。
目の錯覚ではない。そこだけが“ねじれて”いる。
「この施設は、空間そのものが変形している。夜の間に部屋の位置や構造が微妙に変わる。そのタイミングを計れば、“空間の隙間”に人間を挟み込むことができるんです」
ゾクリと背筋を撫でるような沈黙が落ちた。
* * *
「…じゃあ、犯人は?」
「まだわかりません。ただ、この空間の“呼吸”を知っていて、かつ被害者をその位置に誘導できる人物です」
「誘導…」
「ええ。夜のうちに密かにこの部屋へ連れ込み、空間がズレる瞬間を待つ。そして、境界が交差したとき─犠牲者はねじ切られる」
「そんな…そんなこと、本当に…?」
「本当に起こっているでしょう?」
莉理香は、死体を指差した。
* * *
本郷が深く息を吐いた。
「…警察に連絡する」
「それは得策ではありません」
「なんだと?」
「この現象は外部に説明できません。警察が来ても理解できず、むしろ現場を混乱させるだけ。…そして、この空間は動いています。次の犠牲者が出る前に、内部で解決するしかない」
「内部で…?」
「そう。だから、全員ここに留まってもらう」
「何様のつもりだ」
「探偵です。もっとも─一時的な、ですけど」
その笑みは、茉莉香の顔でありながら、茉莉香ではなかった。
* * *
外では、山の風が強く吹き始めていた。
施設全体がきしみ、まるで何か巨大な獣がゆっくりと寝返りを打っているような音が響く。
莉理香は窓の外を見た。
風景が、ほんの僅かに“スライド”していくのを、彼女だけが見ていた。
「これは始まりにすぎない。捻じれは、まだ深くなる」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。