誰かの記憶
五 誰かの記憶
飛鳥真の死は、朝の光の中で異様に静かだった。
悲鳴は確かにあったのに、それすら音を吸い取られたような、薄く、遠い響きにしかならなかった。
「…なんだ、これ…」
誰かが呟いた。声は震えていた。
現場は二階の教室──昨夜は空き部屋として鍵がかけられていたはずの場所だ。
窓は内側から施錠され、ドアにも鍵がかかっていた。
だが、その中央に、飛鳥真はいた。いや、“飛鳥真だったもの”が。
首から下が、異様なほど均一に、螺旋状に捻じれていた。
皮膚も骨も内臓も、一本の縄のようにまとめて捻られている。
それは人間の身体というより、ねじり飴か何かの見本のようだった。
そして顔だけは、なぜか無傷で、穏やかに眠っているようだった。
* * *
茉莉香は、部屋の入口で立ち尽くしていた。
他のクラスメイトたちの喚き声、教師の慌てた声、影山が低く何かをつぶやくのも、全部遠かった。
足元が軽く揺れる。いや、揺れているのは自分の中身だけかもしれない。
─この光景、知っている。
そう思った瞬間、脳の奥で何かが“開いた”。
* * *
暗闇。
どこかの廊下。
非常灯の緑色の光。
その奥に、捻じれた人間が立っている。いや、立ってはいない。浮いている。
空間の真ん中で、身体だけが回転し続けている。首から上は静止したまま。
そして、その横に“彼女”がいた。
ツインテールの少女。白いワンピース。笑っている。
名前は─トランキライザー莉理香。
「これが、ねじれ殺しの仕組み。空間と空間の境界が交差するとき、その間に挟まれた物体は、物理的な連続性を失う」
「…どういうこと?」
「あなたの世界で言うなら、“二枚の世界”が少しだけズレて重なった瞬間に、挟まれたものが引き裂かれたり、ねじられたりする。紙をずらして裁断機にかけるようなもの」
「じゃあ、これは事故?」
「事故じゃない。これを“利用”できる人間がいる。しかも、正確にその時間を狙える者だ」
莉理香は一歩近づき、捻じれた人間の肩に手を置いた。
「殺し方としては効率的じゃない。だが、美しい」
「美しい…?」
「ねじれは痕跡を残さない。刃物や銃弾のような“犯行の形”がない。証拠は消え、死体だけが物語る。だからこそ、わたしは美しいと思う」
そう言ったとき、莉理香の瞳は異様に輝いていた。
* * *
「茉莉香!」
花森あゆの声で、現実に引き戻された。
気づけば自分は床に膝をついていた。
汗で髪が額に張りついている。呼吸が浅く、心臓がうるさい。
「大丈夫? 顔真っ青だよ」
「…平気」
そう言ったが、口の中が砂のように乾いていた。
視界の端で、影山漣がこちらを見ていた。
あの目は、何かを知っている目だった。
* * *
本郷が教師らしからぬ低い声で指示を出していた。
「…いいか、これは事故かもしれないが、外部への連絡は俺がする。それまでは全員、この場を離れるな」
「先生、警察は…」
「後でだ。まずは施設の管理人と…」
そのとき、花森が唐突に言った。
「ねえ先生、この部屋、昨日とちょっと違くないですか?」
「は?」
「窓の位置。昨日、廊下側から見たら右寄りだったのに、今日は中央にある」
「そんなわけ─」
「あるよ」
影山が口を挟んだ。
「昨日の地図と、今日の実際の位置を比べたら、窓も扉もずれてる。…この施設、動いてるんですよ」
冴子が顔をしかめた。
「何それ、幽霊屋敷?」
「違う。これは構造の問題だ。物理的な空間が、何らかの理由で回転、あるいは反転してる」
「そんなこと、あるわけ─」
言いかけた冴子の声が、急に途切れた。
─ドン。
床が、軽く揺れた。
全員が無意識に息を呑んだ。
揺れはすぐに収まったが、その一瞬、窓から見える景色がスライドするようにずれたのを、茉莉香は確かに見た。
* * *
その夜、茉莉香は再び夢を見た。
夢の中で、彼女は見知らぬ廊下に立っていた。
壁はコンクリート、床は古びた木材。奥には一枚のドア。
その向こうに、誰かがいる。
ドアを開けると、そこは─自分の部屋だった。
でも家具の位置が逆で、窓から見える景色は昼間。
机の上に、ノートが置いてあった。
ページをめくると、文字がびっしりと書き込まれていた。
「この空間は二重になっている。昼と夜で形が変わる。境界が交差する瞬間に、人はねじ切られる」
そこに、署名のように一行。
─トランキライザー莉理香
その名前を見た瞬間、夢が反転し、茉莉香は暗闇に落ちた。
* * *
目を覚ますと、深夜二時だった。
カーテンが、風もないのに膨らんでいた。
そして、耳元で囁きがした。
「わたしを呼びなさい、茉莉香。そうすれば、あなたはわたしになる」
その声は、眠気をすべて吹き飛ばした。
茉莉香は、自分がすでに“事件の中”にいることを理解していた。
─もう逃げられない。
* * *
翌朝、飛鳥の遺体は管理室へ移され、部屋は封鎖された。
だが、それで終わるはずがないことを、茉莉香は知っていた。
建物は今も、かすかに“呼吸”している。
空間は形を変え、境界はずれ続けている。
そして、次の犠牲者を待っている。
心の奥で、莉理香が笑った。
「始まったね。これはまだ、序章にすぎない」