茉莉香の不調
三 茉莉香の不調
人はね、壊れる前に、必ず何かを見落とす。
それは予兆とか、気配とか、直感とか、名前のつかないもの。
それを見過ごした者だけが、後で「まさか」と言う。
でも、茉莉香は最初から知っていた。
あれは“まさか”じゃない。“やっぱり”だった。
* * *
「茉莉香ちゃん、また食べてないじゃん。パン残すともったいないよ」
花森あゆが眉をひそめて言った。パン。レーズン入り。牛乳。粉ふいたハムカツ。食べられるものは、ない。
「…お腹、いっぱい」
「朝からなにも食べてないのに?」
「うん」
口の中が、紙みたいだった。味もしない。そもそも食べ物って、こんなに冷たかったっけ。
目の前で、飛鳥がパンをちぎって、冴子に放っている。
「ちょ、やめて!髪にくっつく!」
「パンの妖精が朝のあいさつしてるんだよ~」
「バカじゃないの?」
笑い声が弾ける。カフェテリアの中は朝のざわめきに満ちていた。
だけど、茉莉香にはそれが遠くのノイズにしか聞こえなかった。耳の奥で音が逆流してる。誰かの声が“逆再生”されているみたいだった。
─「さか…うしろ…みて」
ふっと、寒気が走った。誰かが、誰かじゃないものが、今、自分のすぐ後ろにいる気がした。
「茉莉香、なんかさー、顔色悪いっていうか、色がないよ?」
「色…?」
「うん、昨日の茉莉香は“くすんだ灰”だったけど、今朝は“うすい青”って感じ」
「花森、お前は人をカラーチャートで見るのか」
影山の低い声が、向かいの席から飛んできた。
「え?普通そうじゃない?色が見えない人って、すごく不便だと思う」
真顔で言ってる。たぶん、冗談じゃない。
* * *
朝の点呼が終わり、全体レクリエーションの時間になった。山道をハイキング。空気は涼しく、天気も上々。でも、茉莉香の足は重かった。意識が、身体の外側にあるような感覚。
「おーい、茉莉香ー! 遅いぞー!」
飛鳥が振り返って手を振る。でも、それが遠い。まるで映画をスローで観てるみたいだ。
不意に、地面がぐらっと揺れた気がした。
「…え?」
目の前の土が、蠢いているように見えた。否、ずれていた。斜面の木々が左右に引き裂かれるように、微かに、ずれた。まるで“二枚重なった透明フィルム”が、時間差でずれて動いたように。
「やばっ…」
茉莉香はよろけて膝をついた。
「おい、大丈夫か!?」
本郷が駆け寄ってくる。後ろで冴子が「貧血?」と小声で言ったのが聞こえた。
「…気のせい、です」
そう言って立ち上がる。けど、身体が冷たい。骨の中が空洞みたいにスカスカだった。
* * *
午後の自由時間。宿泊棟の廊下。
茉莉香は誰にも言わず、一人で階段を降りていた。理由はわからない。足が勝手に動いた。ただ、どこかで呼ばれている気がした。
─カン、カン…
何かが階下で鳴っている。金属音。規則性がある。リズムは、妙に心地よくて、不穏だった。
地下に続く階段。鉄の扉。鍵はかかっていない。
(入ってはいけない)
心が言った。でも足が止まらない。
茉莉香は、その扉を開けた。
空気が変わった。
ここは、施設じゃない。世界の裏側だ。床のタイルが僅かに波打ち、壁の模様が左右で違う。見えない「歪み」がそこかしこにあった。
そして、奥の部屋。格子窓の向こうに、何かが立っていた。
─それは、茉莉香だった。
いや、“似ているけれど違う”誰か。
ツインテールの少女。白いワンピース。片目にかかった前髪。そして──薄く笑っている。
「…誰?」
その声に、少女は小さく首を傾げた。
「わたしは、あなたの一部。あなたが忘れた“理性”。」
「…!」
「あなたは見るでしょう、この世界のねじれ。あなたは気づいてる、この現実の継ぎ目。そのすべてを、わたしは解ける」
少女は言った。
「覚えておいて。名前は─トランキライザー莉理香」
その瞬間、世界が反転した。
目の前がぐるんと回り、身体が宙に浮くような感覚。
茉莉香は叫ぼうとしたが、声が出なかった。
* * *
目を開けると、ベッドの上だった。
「わっ、気がついた!」
花森がのぞき込む。目が潤んでいる。
「ごめんね…廊下で倒れてて、本郷先生呼んだんだよ。救急車呼ぶかどうかってなって…」
「だいじょうぶ」
それしか言えなかった。
夢だったのか? 違う。あれは、記憶だ。
どこか別の世界で、“わたし”はもう目覚めていた。いや、“彼女”が。
* * *
その日の夜。眠りの淵、まどろみの中で、茉莉香は再び“彼女”と向き合っていた。
「今はまだ、わたしが出る必要はない」
「でも、すぐに事件が起きる」
「あなたは見ることになる。壊れた身体。ねじれた空間。重なった時間」
「わたしは、そのために存在している」
「あなたの中の“盾”として。“推理する凶器”として」
茉莉香は訊いた。
「どうして…そんな風に笑えるの?」
莉理香は答えた。
「だって、これは“謎”でしょう?謎は美しい。だから、わたしは笑うの」
夜の静寂の中、カーテンが風もないのに揺れた。
“誰か”が通り過ぎていった気配がした。
そして、遠くで、メリーゴーランドのような音が、かすかに響いた。
─最初の死が、近づいていた。