一 出発と違和感
第一章 夜へ向かうバス
一 出発と違和感
ぐわんぐわんとタイヤが地面を蹴っている。揺れているのはバスだけじゃなくて、茉莉香の頭の中もだ。きしむ背もたれ。吐きそうになる匂い。やたらテンションの高いクラスメイトたち。車内はまるで、ヘラヘラした猿の檻だ。いや、ここはこれから地獄に向かう特別車両か?
「まーりかっ、アイス買ったら半分こなー」
隣の席の花森あゆが、笑顔で囁いた。声が妙に遠く、金魚鉢の外から話しかけられてるみたいに聞こえる。
この子はいい子だ。でも、うるさい。
茉莉香はうなずく代わりに、ちいさく目を閉じた。さっきから脳の裏側がチリチリしてる。電波が入ってるんじゃないかと思うくらい。おかしいのは周り?それとも自分?
─ぐにゃっ。
金属音が、しなった。耳の奥で、だけど確かに何かが“折れた”。
バスの窓に、妙な影が映った。茉莉香の顔。…いや、ちがう。あれは、誰?
ツインテール。異様に大人びた目つき。口元には冷笑。そして──あれは、笑ってた。
「…あなた、だれ?」
思わず、声に出してしまった。隣のあゆがきょとんとする。
「なになに?誰って、あたし?」
「…ううん、なんでもない」
茉莉香は視線を逸らし、窓を見直した。けれど、そこにはもう、自分の顔しか映っていなかった。
空は灰色。雲が流れていくのが早い。バスのワイパーがリズムを刻んでいた。
* * *
「ほーら着いたーっ、みんな降りてねー、忘れ物すんなよー」
引率教師の本郷が、バスの前方で叫んだ。茶髪でラフなジャージ姿、やる気はあるのかないのかよくわからない、だが笑顔だけは無駄に爽やか。
バスを降りた茉莉香は、濡れた山道に足を下ろした。ぬかるみ。冷えた空気が肺に刺さる。
目の前にそびえるのは、「山霧少年自然の家」。鉄とコンクリの塊だが、どこか校舎というより研究所っぽい。四角い建物、窓は小さく、塔のような部分が突き出している。
「すごー、え、なにこれ塔?見張り台?」
「やばっ、なんか監禁されそう~!」
騒ぐ女子たちの声を背に、茉莉香は一歩、施設の入口へと踏み込んだ。
* * *
廊下は無機質だった。蛍光灯の白い光が、足元を照らす。靴音が響く。すこし湿っている。かすかに消毒液の匂いがする。
「…ここ、昔は病院だったとか?」
ふと漏らした茉莉香の声に、隣の影山が反応した。
「いや、違うと思う。ここは旧国立空間工学研究施設“第六棟”の再利用。内部構造は一部非公開。地図も不完全らしい」
「…詳しいね」
「気になるから、調べた」
それだけ言って、影山はスッと茉莉香の前を歩いていった。相変わらず感情が見えないやつだ。でも、こういうやつの言うことは意外と当たってる。
* * *
「まーりかー、あたしのベッド隣でいい?」
「うん」
「あとでお菓子パーティしよーねっ」
女子の部屋は八人部屋。上下二段ベッドが並ぶ。修学旅行のにぎやか版という感じで、みんな興奮してる。パジャマのままスマホを見たり、音楽を流したり、記念写真を撮ったり。
でも、茉莉香は違和感が消えなかった。
─さっきより、窓の位置がずれている。
─テーブルの下の隙間が、妙に深い。
─あのドア、さっき右開きじゃなかった?
ちがうのか?気のせいか?眠気か?
「ねえ、花森。今日、変な夢見なかった?」
「ううん、ぜーんぜん。楽しい夢だった。…あ、でも変かも」
「どんな?」
「なんかね、ドアを開けたらもう一個の“こっち”があったの。鏡じゃないんだけど、世界が重なってて。あゆが二人いたの」
「………」
「もう一人のあゆはすっごく冷たくて、あたしのことじーって見て、ひとことだけ言ったの。“あなたは、どっちの世界の子?”って」
「それ…」
ぞわっと背中に寒気が走った。あの窓に映った少女。自分じゃない、でも自分としか思えない“何か”。
「…なんでもない、ありがと」
* * *
夜、廊下を歩く茉莉香。眠れなかった。カーテンが風もないのに揺れていたのだ。誰かの気配。誰かの、視線。
トイレへ行くふりをして、廊下に出た。足音を立てないように、ゆっくりと。懐中電灯を持っていたが、点けるのが怖かった。
─カン。
階段の奥で、何かが落ちた。
そちらへ一歩、進む。
─ギィ…。
ドアが勝手に開いた。
部屋の中には、誰もいない。
でも、そこは明らかにおかしかった。
部屋が…傾いていた。空間が、ゆっくりと“ずれて”いる。視界の端に映る棚が、さっきより低い。天井が広がっているように見える。だが部屋の寸法は変わっていない。
“誰か”が呟いた。頭の中で。
─ここは、裏側だよ。
茉莉香の視界が、ぐるんと回った。右と左が反転した。前にあったはずの壁が、後ろに。
そして、目の前に“あの子”が立っていた。
ツインテール。大人びた冷たい目。まるで異世界の住人みたいな風貌。
「初めまして。あたしの名前は…」
そこで、声はふっと消えた。
茉莉香は、気を失った。
* * *
翌朝。目を覚ましたベッドの上。花森が覗き込んでいた。
「茉莉香、だいじょーぶ?廊下で倒れてたんだよ?本郷先生が運んでくれたんだから」
「………」
「なんか、顔つきちがうよ。寝ぐせのせいかな? …あ、もしかして…もう一人の、あたし?」
冗談で言ったはずの花森の言葉が、茉莉香の胸に刺さった。
─もう一人の、わたし。
─そして、もう一つの世界。
ここで何かが起こる。誰かが、殺される。自分が“誰かになる”。
その予感だけが、なぜか鮮明だった。