再生
旧校舎の裏手にある、あの録音室は、まだそこにあった。
瓦屋根の古びた建物。外壁にはツタが絡まり、木の扉は少し傾いていた。
それでも、扉を押せば、懐かしい音がした――ギィ、と、木が軋む音。
陽日と、あの日来た場所。
記憶の中では、もっと広かった気がした。
でも、今こうして立ってみると、ずいぶん狭く感じる。
「立月くん……」
後ろから、キョウの声が届く。
彼女の姿は、もうほとんど光でできていた。
輪郭は曖昧で、まるで空気と混ざり合いながら、そこにいる。
それでも、彼女の目は変わらない。
やさしくて、まっすぐで、僕の心を見透かしているような瞳。
録音室の奥に置かれていた古いレコーダー。
そのカセット差込口に、僕はあの日のテープを差し込む。
カチリ、と乾いた音がして、僕の指が再生ボタンを押した。
――テープが、回り始める。
その瞬間、空気がゆっくりと変わった。
風が止み、外の音が遠ざかり、音楽だけが世界を満たしていく。
流れ出したのは、あの日の旋律だった。
子どもの僕が奏でた、少し不器用なピアノ。
陽日の明るくてのびやかな伴奏。
そして――未完成のまま、ふっと音が消える。
でも、そこで終わらなかった。
キョウが、そっと目を閉じる。
彼女の胸から、透き通るような音が、ふたたび流れ出す。
陽日の演奏をなぞるように、キョウの“音”が優しく響く。
そこには、ふたりの記憶が、確かに息づいていた。
「さあ、立月くん。続きを――あなたの音を、重ねて」
キョウの声に、僕は深く息を吸い込む。
用意していた譜面を開き、鍵盤に指を置いた。
一音。
二音。
ゆっくりと、僕の音が混ざっていく。
それは、陽日の音に対する返事だった。
あの頃言えなかった言葉。
もう一度会いたいと願った想い。
すべてを、旋律に込めて。
涙が、音と一緒にこぼれていく。
だけど止まらない。指先は確かに、過去と今を繋ごうとしていた。
キョウの目元も、やわらかく揺れていた。
「きれいだよ……」
彼女が、そっと言った。
録音テープは、最後の数センチに差し掛かっていた。
もうすぐ、すべての音が出尽くす。
でも、僕の中には、いままでにない静けさが広がっていた。
完成した曲は、完璧ではなかった。
ところどころ震えていたし、強く弾きすぎた音もあった。
だけど、それが“今の僕”の音だった。
痛みも、後悔も、全部を抱えたうえで――立月という人間が奏でた、たったひとつのしらべ。
最後の一音が、ゆっくりと響き、空気の中に消えていく。
テープが止まった。
録音室に、静けさが戻る。
そして、キョウが――そっと微笑んだ。
「あなたの音は……ずっと、きれいだったよ」
その声を最後に、キョウの姿が、光となって崩れはじめた。
ふわり、と。
風に舞うように、粉雪のように、やさしい粒が宙に溶けていく。
僕は、何も言えなかった。
ありがとうも、ごめんねも、声にならなかった。
ただ、胸の中で、確かに感じていた。
僕の音が、誰かの心に届いたのだと。
あのときの音が、いまここに再生されたのだと。
光はやがて、消えた。
録音室には、もう誰もいない。
でも――不思議と、寂しさはなかった。
プレーヤーを抱えて、旧校舎を出ると、空には夜が降りてきていた。
星がいくつか、瞬いていた。
その間を、風が通り過ぎていく。どこか、旋律のように。
僕は、そっと目を閉じた。
「ただいま」
そして――「いってくる」
僕は、音楽をもう一度はじめようと思った。