早送り
夕暮れが、僕の部屋を赤く染める。
机の上には、開かれた譜面。
そして、その隣には、静かに眠るカセットプレーヤーが置かれている。
あれから数日が経った。
キョウは毎晩のように現れ、少しずつ、僕の記憶を辿る手伝いをしてくれていた。
陽日と過ごした日々。
どんな音を重ね、どんな言葉を交わし、どんな夢を語っていたか。
まるで、一枚ずつアルバムのページをめくるように。
でも――それと同時に、ひとつの変化が起きていた。
キョウの姿が、だんだんと薄くなってきていた。
「気づいてるんでしょ?」
僕は、ある晩、彼女にそう問いかけた。
キョウは微笑むだけで、何も言わなかった。
でも、その笑みの奥に、言葉にできない別れの気配があった。
彼女の肩は、すでにほのかに透けていた。
髪の先は、触れれば霧のように溶けてしまいそうだった。
「わたしの中の“音”が、少しずつ減ってきてるの」
ぽつりと、キョウが言う。
「テープってね、何度も再生すると、すり減っちゃうの。記憶も、同じなのかもしれないね」
その言葉に、僕の胸が締めつけられた。
「……まだ何もできてないのに」
僕は、目を伏せた。
ピアノに向かっても、指が止まってしまう。
譜面に向かっても、音が浮かばない。
何度もペンを走らせては、ぐしゃぐしゃにして、投げ捨てた。
音楽は、僕の中で、やっぱり遠すぎた。
あの続きを奏でたい――そう思ったのに、心の奥にある痛みが、何度もそれを拒んだ。
陽日のいない世界で音を鳴らすことが、まるで裏切りのように感じた。
でも、そのとき。キョウがそっと言った。
「立月くん。……わたしね、最初は“記録”として生まれたの」
「記録?」
「そう。音の記録。あなたと陽日くんが録った、最後のテープ。
そこに宿った想いが、わたしを生んだの。妖としてじゃなくて、“音”そのものとして」
キョウは静かに、手を胸に当てる。
「でもね。あなたと話すうちに、記録じゃなくなっていった。……今のわたしは、あなたの音に、心をもらったの」
僕は、息をのんだ。
キョウの声は、揺れていた。でも、確かに届いてきた。
「あなたの音は、優しかった。ふたりで奏でた音も、あなたがひとりで悩みながら作った音も。
……全部、ちゃんと“誰か”に届いてたんだよ」
その“誰か”の中に、キョウがいる。
それはつまり、僕の音が、ずっと残っていたということだ。
過去は過ぎていくものだと思っていた。
けれど、あの音は、時間を超えて、こうして“声”になっていた。
その夜、僕はひとり、ピアノの前に座った。
埃を払って、鍵盤をそっとなぞる。
白鍵が、冷たい。
目を閉じる。思い出す。
陽日の横顔。笑いながら、僕に言った言葉。
「ピアノってさ、打楽器なんだぜ?」
そう言って、何でもない音を、リズムに乗せて叩いていた。
僕が渋い顔をすると、陽日は笑っていた。
「理屈なんかいいんだよ。音が生きてるって感じられれば、それでいいじゃん」
陽日らしい言葉だった。
自由で、明るくて、僕よりずっと音を愛していた。
指を置く。
一音、弾く。
その瞬間、身体の奥が、かすかに震えた。
小さな音だった。でも、間違いなく“今”の僕の音だった。
もう一度、弾く。
ふたたび、心が反応する。
(……ああ、まだ、僕の中に音はある)
涙が、頬を伝った。
キョウは、その姿を見ながら、そっと言った。
「ね、やっぱり……あなたの音は、やさしい」
僕は、ピアノに額を預けて、しばらく動けなかった。
でも、心は確かに前を向いていた。
陽日と作った旋律の続きを、今の僕で完成させよう。
それが、音を託してくれたふたり――陽日とキョウへの、答えになる気がした。
プレーヤーが机の上で、かすかに音を立てる。
中のテープは、もうすりきれかけている。
でも、その一周が、最後の再生になるのなら――その一音を、僕は全力で奏でよう。
「キョウ。お願いがある」
「うん?」
「録音室に、行きたいんだ。……あの日、僕と陽日が、最後に演奏した場所へ」
キョウは、目を細めて微笑んだ。
少し霞んでいた肩が、ふと、あたたかく輝いた気がした。
「わたしも、ずっとそこに行きたかったの。
あの録音室で、最後の“しらべ”を聴きたかった」
決意が、胸の奥に灯る。
次は、もう逃げない。
過去と向き合うことが、痛みだけじゃないことを、キョウが教えてくれたから。
録音テープの最後の回転が、もうすぐ始まる。
僕は、歩き出す。あの日、音が止まった場所へ。