巻き戻し
次の日から、僕はプレーヤーを手放せなくなった。
キョウが、またあの淡い光とともに姿を見せるのではないかと、ずっと期待していたからだ。
でも、朝になっても彼女は現れなかった。
何事もなかったように日常が進んでいくことに、少しだけがっかりしている自分がいた。
放課後、机の中で眠っていた古い譜面を取り出してみる。
表紙には、小さな文字で「そらのしらべ」と書かれていた。
陽日とふたりで作った、未完成の曲――たしか、そんなタイトルをつけた。
教室を出たあと、校舎裏のベンチに腰かけて、それを眺めていると、風の音に混じって、かすかな声が聞こえた。
「……懐かしいね、それ」
顔を上げると、光の粒が集まって、キョウが現れていた。
昨日と同じ、ふわりとしたワンピース姿。手足は少し透けていて、触れれば溶けてしまいそうだった。
「これ、まだ残ってたんだね」
キョウは僕の手元を覗き込みながら、目を細める。
「陽日くんと、よく作ってたよね。旋律は立月くん、和音は陽日くん担当だったっけ」
「ああ……そうだった」
思い出すたび、胸が詰まる。
それでも、語らずにはいられなかった。
「僕と陽日は、小学校の音楽教室で出会ったんだ。
最初はただ、ピアノの練習が面倒で仕方なかった。でも、あいつがいて、変わったんだ」
陽日は、無邪気で、音楽が大好きだった。
いつも笑っていて、どんな音でも楽しもうとしていた。
「楽譜通りに弾かないんだよ、あいつ。いっつも勝手に伴奏をつけて……先生に怒られてた」
「でも、それが面白かったんでしょ?」
キョウがくすっと笑う。
「うん、楽しかった。悔しいけど、楽しかった」
僕はゆっくりと、譜面をめくる。
そこには陽日の書いた、子どもらしい五線譜が残っていた。
字が汚くて、でも、音が生きていた。
「それで、気がついたら僕たち、毎週のように曲を作ってて。将来はユニットでも組もうって……そんなことも話した」
ふたりの夢。
いつか自分たちの音楽を、もっと多くの人に聴かせたい。
音で誰かを笑顔にできたら、って――。
「でも、陽日は、いなくなった」
あの冬の日のことは、今でも思い出せる。
雨上がりの帰り道、信号を渡ろうとしたとき、車が――。
事故だった。突然だった。
あっという間に、僕の隣から陽日がいなくなっていた。
あの日から、僕の中の音楽は止まった。
ピアノに触れるのが怖くなった。
楽譜も、メトロノームの音も、全部、遠ざけてしまった。
「……それでも、音は、なくなってなかったんだね」
僕の言葉に、キョウが頷く。
「うん。あなたが忘れても、音は覚えてる。
あなたの指先に宿ってた想いとか、ふたりで笑いながら弾いた時間とか――全部、テープに残ってる」
そう言って、キョウは小さなカセットテープを手に取り出す。
それは、僕と陽日が最後に録音したテープだった。
「この中に、あの曲の“途中”がある。……ねぇ、聴いてみる?」
僕は、迷った。
それを再生すれば、きっと、いろんなものが押し寄せてくる。
陽日の声、笑い方、音のかけら、未完成の旋律。
でも、僕は、キョウの手からテープを受け取った。
そして、自室のプレーヤーにセットする。
カセットの蓋が閉まり、再生ボタンをゆっくり押した。
――キュル、カタ。
テープが回りはじめる音がして、次の瞬間、
部屋の空気が、少しだけ震えた。
流れてきたのは、懐かしい旋律だった。
僕のピアノと、陽日の伴奏。
ふたりの音が、たしかにそこにあった。
でも、途中で、音が止まる。
唐突に、ふっと音が途切れて――そこからは無音だった。
「ここまでしか録音されてないの」
キョウがそっと言う。
「でも、曲は終わってないよ。まだ“続き”がある。……立月くんの中に」
僕は、じっとプレーヤーを見つめた。
あの頃の僕が、陽日と一緒に、奏でようとしていた続きを――今なら、弾けるのだろうか。
「……これを完成させたら、どうなる?」
「わたしは、いなくなると思う」
キョウの声が少しだけ震えていた。
「このプレーヤーは、あの音を宿して、ずっとあなたを待ってた。
でも、音がすべて再生されたとき――わたしの役目は、終わるから」
それでも、キョウは笑った。
すこし、さみしそうに。でも、あたたかく。
「でもね、わたしはそれでいい。
あの音が、ふたたびあなたの手で完成するなら、それが一番、しあわせ」
僕は黙って頷いた。
いなくなるとわかっていても、それでも――この音を、完成させたい。
陽日が、あの日、心から笑っていたように。
あの笑顔を、もう一度、音で描き出したい。
「もう一度、あの続きを……」
僕は、そうつぶやいた。
キョウの姿が、淡く揺らぐ。
音の記憶が、少しずつ、僕の中でよみがえっていく。