停止
音楽が好きです。妖はもっと好きです。
始まりは、放課後の風だった。
夏が遠ざかる頃、蝉の声が夕空に溶けてゆく。
僕――立月は、いつものように、通学路を自転車で下っていた。
坂道の途中、ペダルを踏み込む足がふと止まる。路肩に、ひとつの箱が転がっていた。
あれは、カセットプレーヤーだった。
銀色のボディに、すこし錆びたイヤホンジャック。
どこかで見たことのある形だった。
(……同じだ)
僕は、そっとそのプレーヤーを拾い上げる。指先が少し熱をもつ。
昔、音楽教室で使っていたものと――まったく同じ型だった。
小学生の頃、僕は友達と一緒に、毎週のように通っていた音楽教室でこのプレーヤーを使っていた。
録音用の赤いボタン、再生ボタンの押し心地、テープを巻き戻す音までも、今でも耳に残っている。
それなのに、僕の中の音楽は、ある時から止まったままだ。
家に帰ると、プレーヤーを机の上に置いた。
夕暮れの光がカーテン越しに射して、部屋の中を淡く染めている。
コンセントを探す必要はなかった。これは乾電池式だ。古い電池を取り出し、新しいのに交換する。
再生ボタンを押してみた。
……音は、鳴らなかった。
イヤホンを挿しても、スピーカーに耳を近づけても、何も聞こえない。
だけど、僕はなぜだか、その無音の時間が、すごく懐かしく思えた。
その夜だった。
ベッドに横になり、眠れずに天井を見つめていた僕の目に、ふいに光が差した。
机の上――あのプレーヤーが、淡い青白い光を放っていたのだ。
目を凝らす。光はふわりと膨らみ、やがて、女の子の姿をかたどった。
中学生くらいに見える。白いワンピースに、黒い髪。瞳は、どこか透明で、ふしぎな色をしていた。
「こんばんは」
彼女が、やさしい声で言った。
「え……?」
「お久しぶり、かな。覚えてる? わたしは“妖”。名前はキョウ。“かなでびと”って呼ばれてるの」
「妖……?」
幻覚か夢か、判断がつかない。でも、彼女は確かにそこにいた。
僕の目の前で、光をまといながら、ふわりと微笑んでいる。
「このプレーヤーは、あなたの音を憶えてるよ。だから、わたしもここにいられるの」
僕は、何も言えなかった。
彼女の声に、どこか懐かしい響きがあった。まるで、遠い昔に聞いたことのあるメロディみたいに。
キョウは、ふわりと宙に浮かぶように、部屋を見渡した。
「この部屋、変わってないね。机の位置も、カーテンも。……ただ、ちょっと寂しくなったかな」
「……見たことがあるの?」
「うん。あなたが、まだ音楽を――たくさん奏でていた頃にね」
僕は喉の奥が詰まるような気がした。
音楽をやめたのは、陽日を失ったからだ。
あの日から、ピアノにも、譜面にも、触れられなくなった。
「……でも、音は鳴らなかった」
僕は、プレーヤーを見つめながら言った。
「電池を入れて、再生ボタンを押した。でも、なにも聴こえなかったんだ」
キョウはそっと首を横に振る。
「まだ、“そのとき”じゃなかったから」
「そのとき?」
「うん。再生ってね、ただ音を鳴らすことじゃないの。聴く人の心が、ちゃんと“向き合う”準備ができていないと――音は、流れないんだよ」
その言葉に、胸がざわついた。
向き合う? 僕が、過去と? あの曲と……陽日と?
「ねぇ、立月」
キョウは名前を呼んだ。僕の中の時間が、少しだけ巻き戻る。
「あなたが最後に録音した“あの音”。わたしの中に、まだ残ってるよ」
「……未完成の曲?」
「そう。陽日くんと、ふたりで録った最後のテープ」
あのときの情景が、ぼんやりと脳裏に蘇る。
薄暗い録音室。ふたりで笑いながら録った、未完成の演奏。
テープは回っていた。だけど、曲は途中で途切れていた。
そしてその直後に――陽日は、いなくなった。
「もう一度だけ再生できる。でも、その一回きり」
キョウの声は静かだった。
「その再生で、わたしの“音”は終わるの。……姿も、消えてしまうと思う」
僕は、言葉を失った。
「でもね、あなたがもし、あの続きを――あの“しらべ”を完成させたいと思ったとき。わたしは、その最後の一度をあなたに託すよ」
そう言って、キョウはベッドの脇にふわりと腰を下ろした。
光の粒が、彼女の輪郭をやさしく包んでいる。
「急がなくていい。あなたの音が、あなたの心が、もう一度前を向いたとき。……そのときが、再生の瞬間」
その夜、僕は眠れなかった。
天井を見上げながら、耳の奥に、鳴らないはずの“音”を探していた。