試練の始まり
【影の試練】
《黒水の間》での儀式を終えた翌朝、ナオは庁舎からの再召喚を受けた。
通達にはこうあった――『影の都の“民”としての資格を得るには、対話の儀だけでなく《試練》を受ける必要がある』と。
ミュアに案内され、ナオは広場を抜けた先にある“試練の門”へと向かっていた。石造りの回廊は徐々に下へと続き、やがて湿った地下空間に辿り着く。
「ここが……?」
「うん。影の都の正規市民として認められるには、この《影の試練》を通過しなきゃいけないの」
ミュアの声には、少しだけ緊張が滲んでいた。
試練を監督するのは、四大種族から選ばれた“監視者”たち。そして試練場――それは第50階の防衛用外縁部、魔物の侵入口として知られる《黒壁の縫道》だった。
「ここには、外部からの魔物が流入することがある。試練内容は、その“迎撃と生存”」
と説明を受け、ナオは深く息を吐いた。
やがて、試練が開始される。
黒壁の縫道は、薄暗い岩肌と時折ゆらめく魔光に包まれた広大な洞窟だった。
足元には亀裂が走り、頭上では水滴が不規則に落ちる。剣を握るナオの手には、微かな汗が滲んでいた。
(相手は……一体か? それとも群れで来るか)
空気が動いた――ナオは跳ねるように後方へ。
直後、闇からぬるりと這い出したのは、甲殻に覆われた四脚の魔物。
赤黒い目が無数に煌き、唸り声のような音を発しながら近づいてくる。
「くる……!」
ナオは地を蹴った。
動きは速い。
だが、“読める”。
身体が勝手に反応する。
今までの訓練、そして忍の血が呼び覚まされていく感覚。
一閃。
魔物の甲殻を跳ねる刃――しかし、その動きの隙を突いて脚を狙い、バランスを崩させた。
転倒した隙に横から踏み込んで、首元に一撃。
――魔物は痙攣し、沈黙した。
(……一体目、撃破)
だが、すぐに奥から音が響く。
岩肌を引っ掻くような無数の足音。
群れ、だ。
「っ、来るか……!」
ナオは足場を確認し、壁際へと退いた。
追い詰められる前に、撃ち落とすしかない。
手のひらに魔力を集中。
《影縫い》――影を操り、魔物の動きを一瞬止める術。
数秒の隙。
そこに走り込み、跳躍、急所を断ち切る。
闇のなか、ナオの動きはまるで舞のように滑らかだった。
数分後。
息を切らせながらも、ナオは立っていた。
足元には動かぬ魔物の群れ。
「……終わった、のか」
闇の中に足音が響く。
試練を監視していた者たちが近づいてきた。
「見事な動きだった」
と、鬼族のガルド。
「ただの“通過者”じゃないな。お前は、ここに“馴染む”素質がある」
ミスラも頷く。
「これより“ナオ”を、影の都フィル=ノワの仮市民として認定する」
魔法陣が淡く光り、認証の儀式が執り行われた。
正式な“民”としての第一歩。
ナオは深く頭を下げる。
(これで……俺は、この場所に“居場所”を得た)
その後、庁舎の別室で正式な通達が下された。
「影の都における“正規市民”としての登録を望むならば、さらに《七つの試練》を通過する必要があります」
応対したのは、文官らしき精霊族の女性だった。冷静で穏やかな語り口ながら、その目はナオの内側を測るような静謐さを湛えていた。
「七つの試練……?」
「ええ。通過条件はひとつひとつ異なります。あなたの現時点の“評価”をもとに、次の課題が決定されます」
ナオは短く息を飲む。
「難易度が変動する……?」
「その通り。戦闘、交渉、支援、選択など形式も多様。必要な力が異なる試練です。そして一つ終えたら、庁舎に報告してください。その際、次の試練の内容と条件が開示されます」
ミュアが小声で付け加えた。
「この七つの試練をすべて終えると、本当に“ここの人”になれる……市民権がもらえるの」
「試練には……報酬もあるのか?」
文官は頷いた。
「はい。各試練は庁舎の依頼として正式に登録され、完了すれば報酬や褒賞が支払われます。あなたは今、“仮市民”ですから、冒険者登録や市民特典の一部も利用できます」
ナオは深く頷いた。
「……わかりました。やってみます。ひとつずつ、全部」
ミュアがそっと笑った。
「ナオなら、大丈夫。あたし、そう思う」
ナオはその言葉を胸に刻みながら、新たな“挑戦”の始まりを静かに受け入れた。
――自らの足で未来を切り拓くために――
◇◇
──影の都《フィル=ノワ》、庁舎・黒水の間。
壁一面に黒曜石が張られた、異様な静けさの漂う議事の空間。かすかな水音だけが反響し、気を緩めれば心まで吸い込まれてしまいそうな重苦しさが漂っていた。
ナオとミュアは、その中央に立っていた。闇のなかでもよく見える魔光の下で、二人の影が床に長く伸びている。
正面には、猫耳族の長老、鬼族の族長、夜妖の語り部エナ、そして他の幹部たちが揃って着座していた。
「……第一の試練は、“探索隊の捜索”だ」
ミスラが低く、しかしはっきりとした声で告げた。背後に揺れる尾が、わずかに不安を語っている。
「昨日、地下47階層へと向かった調査探索隊が、連絡を絶った。メンバーは3名。獣人2名と夜妖1名。全員がこの街の住民で、経験もあった」
ミュアの耳がぴくりと動いた。視線を床に落とし、なにかを思い出すように沈黙した。
「帰還予定時刻を6刻以上過ぎても反応がない。通常なら、連絡符か足跡の残響術が反応するはずだが……何も残されていない」
ガルドが重々しく言葉を継ぐ。
「問題なのは場所だ。47階は“音の乱層”だ。魔素の濃度が音波の伝達を歪める。足音、声、反響、あらゆる“音”が迷いとなり、聞く者の感覚を狂わせる」
「まるで……聴覚の迷宮だな」
ナオが呟くように言った。かつて任務で潜入した“音紗ビル”という構造物を思い出していた。あの時と似ている――感覚の遮断は、命取りだ。
「通常の捜索隊では太刀打ちできん。だが、“忍”ならば話は別だ」
ミスラの目が細められた。これは「試されている」視線だ。
ナオは一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「……行きます。できる限り早く、無事に連れ戻します」
「ふん、意気だけは悪くないな」
ガルドが腕を組んで唸った後、皮肉を混ぜるように続けた。
「だが、“魔物”が相手とは限らんぞ。……中には、帰らない方が“都合がいい”奴もいる」
その一言に、空気が一瞬、重く沈んだ。
ナオはその言葉の意味をすぐに理解した。
(……探索隊の一員に“裏切り者”がいた可能性がある。あるいは、何か重大な“秘密”に触れてしまった……?)
疑念の霧が、試練の難しさをさらに際立たせる。
庁舎を出る直前、ミュアが小声でナオにささやいた。
「……47階って、昔崩落しかけた階層なの。壁も天井も不安定だし、魔素が偏って濃い。幻覚とか、錯覚の症例も多いって……」
「なら余計に、俺の“忍”としての感覚が試される場所ってわけだな」
ナオは腰の忍具袋の紐を締め直した。細心の注意を要する任務だが、むしろ“相性がいい”とさえ思えた。目ではなく、音と気配で索敵する術――“忍の感覚”に頼る時だ。
ミュアはしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやくように言った。
「……気をつけて。探索隊の中に知り合いがいたの。あの人たちがそんな裏切りをするなんて、信じたくないけど……」
「俺は、決めつけるつもりはない。でも、どんな可能性も排除しない。それが“任務”ってものだから」
ナオの言葉は冷静でありながら、どこか優しさを含んでいた。
「ごめん……私、怖いのかも」
「何が?」
「真実を知るのが」
その一言に、ナオはふと足を止め、振り返ってミュアを見た。
「……じゃあ、俺が見る。ミュアの代わりに。真実がどうであっても、必要なら伝えるよ」
ミュアは少しだけ目を見開き、それから小さく頷いた。
「……ありがとう......」
任務は夜明けとともに開始される。
ナオは、宿舎で最低限の荷を整えた。
腰の忍具袋には、煙玉、音感知符、影移動用の糸道具、光を遮断する布。
視界を頼りにできない状況を想定し、嗅覚と気配察知用の霊香粉も選別した。
剣はあえて軽めのものを選んだ。音の中で身軽に動く必要がある。
(“迷い”があると、感覚は鈍る……今は、それだけが敵だ)
庁舎に戻ったナオを、静かな空気が出迎えた。
黒水の間の中央には、すでに空間転移陣が展開されていた。
魔力を押し込めるような緊張感。
「準備が整ったなら、送ろう。幸運を祈るよ」
ミスラがそう言ったとき、ナオは小さく息を整えた。
──影の試練、第一章。
《闇に消えた者たち》
それは、“真実”の入り口だった。