異種族対話
《フィル=ノワ》の街並みを見下ろすように位置する高台に、ミュアの家はあった。
岩肌を利用して築かれたその家屋は、石材と黒木で半円形に組まれており、どこか洞窟を思わせる構造だった。屋根には魔光石が埋め込まれ、夜になれば薄紫の光が優しく家を照らす。
ナオが足を踏み入れた瞬間、どこか懐かしい匂いが鼻をかすめた。
木と焚き火と、獣毛とスパイスの混ざった香り。地上のそれとは異なる、しかし不思議と温かい空気だった。
「ここが、私の家。ちょっと……散らかってるかもだけど……まあ、気にしないで」
ミュアは照れたようにそう言い、扉を押し開ける。ナオの胸がふと緩んだ。
「ただいまー! お客さん連れてきたよ!」
彼女の声が家中に響いたかと思うと、どこからか軽快な足音が聞こえ、次の瞬間、小柄な少女がナオの足元に飛び込んできた。
「にゃにゃっ!? 本物の人間!? お姉ちゃん、すごーい!」
しっぽを振りながらナオの周囲を跳ね回るその少女は、ミュアの妹だった。猫耳がぴくぴくと忙しく動いている。
「リリ、失礼だよ!」
「だって、しっぽないし、耳も違うし、細いし、へんなのー!」
ミュアが慌ててリリを止めようとするが、ナオは笑って首を振った。
「大丈夫。元気でいいね」
「うんっ! お兄ちゃん、今日からうちに住むの?」
「それは、まだ……どうかな」
やがて、家の奥から現れたのは、ミュアの母だった。獣人らしい長い尻尾と、包み込むような目元。
「あなたがナオさんね。ようこそ、影の家へ」
静かな声には、厳しさと優しさが同居していた。
「昔、魔王様が言った予言があるの。『光の下より来たりて、影に住まう者と手を結ぶ』……その“彼”が、あなただと噂されてるわ」
ナオは驚きながらも、何も言えなかった。ただ、自分が呼ばれたような気がした。
「……信じるかどうかは、あなた次第。でも、客人には“家族の分”の食事を出すのが、うちの掟なの」
ミュアの母が差し出した食卓には、焼いた根菜、香草を煮込んだスープ、薬膳パンのような香りのする食べ物が並んでいた。
ナオは静かに座り、手を合わせた。
「いただきます」
食事中、リリはナオの耳や手に興味津々で、彼の動きに合わせてちょこちょこと質問を投げかける。ミュアはそのたびに「やめなさいってば!」と怒るが、どこか嬉しそうだった。
ふと、ミュアの母が真剣な表情になった。
「ナオさん。この街に長くいるつもりなら、避けては通れない儀式があるわ」
ナオが箸を止める。
「“異種族対話の儀”……ね」
その言葉が落ちた瞬間、家の戸を軽く叩く音がした。
ミュアが立ち上がり、扉を開けると、庁舎の使者が無言でナオに封書を差し出した。
ナオが封を切ると、そこには、漆黒の紋章と共に儀式の詳細が記されていた。
「やっぱり……来た。明日、“黒水の間”で行われるって」
ナオはその言葉を静かに聞き、ひとつ息を吐いた。
「……分かった。受けるよ」
家の空気が、少しだけ張り詰めた。
それでも、ミュアはまっすぐナオを見つめ、うなずいた。
「なら、私もついてく」
「……ありがとう」
夜が更けても、窓の外には魔光石の淡い光が揺れていた。
その光に照らされながら、ナオは眠れぬ夜を迎えていた。
(俺は、ここで何を見つけるんだろう)
温かな家と、これから試される自分の境界線。
その狭間で、彼はまどろみへと落ちていった。
ー翌日
影の都《フィル=ノワ》の庁舎は、魔王時代の遺構を改装して使われていた。黒曜石と白大理石が幾何学模様を描き出し、天井からは無数の魔光石が星のように瞬いている。
庁舎の最奥、《黒水の間》と呼ばれる儀礼室には、静寂と威厳が満ちていた。
黒く鏡のように滑らかな床。その中央に、魔力を帯びた水が円を描いて流れている。その内側に一段高く設けられた台座には、たった一人、ナオが立っていた。
周囲を囲むのは、この街を束ねる四大種族の代表たち。
赤黒い角と刺々しい鎧をまとった《鬼族》の族長ガルド。
長く波打つ漆黒の羽を背負い、淡い光を宿した瞳で沈黙する《夜妖》の語り部エナ。
長耳と布で覆われた眼を持ち、澄んだ声を響かせる《精霊族》の使者シルア。
そして、白銀の毛並みと猫耳を揺らす《獣人族》の長老ミスラが、議長として儀を取り仕切っていた。
「人の子よ。名を名乗りなさい」
ミスラの穏やかだが通る声に、ナオは一瞬ためらい、そして静かに答えた。
「……ナオです。俺は……このダンジョンの下層、気がついたらここにいて……」
「なぜ、影の都に来た?」
ガルドが重々しく問いかける。声が空間に反響し、重圧となってナオの胸に圧し掛かる。
ナオは深く息を吸い、自分の中にある恐れと戸惑いを押し込めるようにして言葉を探した。
「理由は……分からない。でも、たどり着いたのは事実です。そして……この街に暮らす皆さんの姿を見て、俺は……ここで何かを知りたい、学びたいと思った」
エナの瞳がきらりと光る。
「何を学びたい?」
「……違い、です。種族が違っても、生き方がある。考え方がある。怖くても、分かり合えるかもしれないって……そう思っています」
その言葉に、場の空気がかすかに動いた。
四大代表者たちは顔を見合わせたあと、順番に問いを重ねていく。
「人の社会には、異種族との共存の歴史があるか?」
ミスラの問いに、ナオはしばらく考えてから答えた。
「……一部ではあります。けど、偏見や衝突もあります。俺自身、それを間近で見てきました。だからこそ、同じことを繰り返したくない」
「戦わなければならないとき、君はどうする?」ガルドが問う。
「……守るためなら戦います。でも、できるだけ避けたい」
「“傷つけた相手”を、君は赦せるか?」と、エナ。
「……正直、簡単じゃないと思います。でも……話せるなら、話したい」
「“この地で生きたい”という意思はあるのか?」と、シルア。
ナオはまっすぐ頷いた。
「ある。俺は、生きる場所を……ここで見つけたい」
一つひとつの質問は、簡単に答えられるものではなかった。
だがナオは、飾らず、嘘をつかず、自分の言葉で向き合っていった。
四者の眼差しに、警戒が徐々に薄れ、観察へ、そして評価へと変わっていく。
しばしの静寂ののち、ミスラが口を開いた。
「――“異種族対話の儀”は、これにて完了とする」
水の輪の向こう側で、エナが音もなく立ち上がった。
「まだ完全に信じたわけではない。けれど……君の“言葉”は確かだった」
ガルドも頷く。
「軟弱に見えるが、嘘を言う目ではなかった。筋は通っている」
シルアは、柔らかな微笑を浮かべて言った。
「あなたの名が、“違い”の架け橋になることを、祈っています」
ナオは頭を下げた。
額にかいた汗が、黒水の間の冷気に冷やされていく。
こうして“影の都”での第一関門――《影の儀》は終わった。
扉の外で待っていたミュアの姿を見つけたとき、ナオの胸に、不思議な安心が広がった。
「……お疲れさま、ナオ。どうだった?」
「うん……なんとか、ね。でも、まだ始まったばかりだ」
その答えに、ミュアはふっと微笑んだ。
「うん、そうだね。……でも、よかった。あなたの言葉、ちゃんと届いたよ」
ほんの少し、二人の距離が近づいた気がした。
その夜。庁舎から帰る道すがら、ナオは街の灯りを見つめながら思った。
(ここで、生きる。ここで、始める)
自分の意思で選んだこの道が、やがて大きな運命を呼び寄せることを、彼はまだ知らなかった。
ミュアは正式に庁舎から依頼され、ナオの面倒を見ることになったらしい。
報酬も出るから!と嬉しそうに尻尾が揺れた。
当面はミュアの家に居候させてもらうことになる。
(もふもふに癒されるなんて恥ずかしくて言えないけど......)
ダンジョンの50階、ここにきて初めてナオは笑顔を見せた。