静かな確認
庁舎の長い回廊を抜ける前、ナオは壁に掛けられた街時計を一度だけ見上げた。
針は落ち着いた歩みで進み、細い影が刻む目盛りはあと一時間半を示している。記録管理局の協議は長引くらしい、と受付の職員は言った。彼女の言い方はていねいだったが、その実、今夜中に結論が出るかは分からないという意味も含んでいるように感じられた。
庁舎を出ると、空はすでに薄い群青に沈み始めていた。
街灯がぽつぽつと灯り、石畳の上に丸い光の輪が重なる。屋根の向こうで、日暮れの残り火のような色が細く伸び、やがて夜へと飲み込まれていく。風に混じるのは焼き菓子の甘い匂いと、街路に植えられた白い花の香り。どこか人の暮らしの匂いが、張り詰めた胸の内側をやわらげた。
足は自然と、ミュアに教えてもらった食堂へ向かう。
「地味だけど、しっかりしてて美味しい」――彼女がそう言った店は、庁舎から少し離れた通りにある。古い建物が並ぶ一角で、梁の黒ずみや窓枠の角の丸さに、長い時間の手触りが残っていた。
扉を押すと、湯気と出汁の香りが迎える。
磨かれた木の椅子、石造りの壁、壁に掛けられた素朴な絵皿。天井のランプは柔らかく、客の声は低く抑えられている。混み合ってはいないが、空っぽでもない――安心のある密度だった。窓際の二人掛けの席に腰をおろし、背もたれに体をあずける。それだけの動作で、背中の筋が少しずつ緩んでいくのが分かる。
「いらっしゃい。あら、新顔さんね。定食でいい?」
「あ、はい。お願いします」
返事をすると、店の人は軽く会釈して奥へ消えた。
水が置かれる。コップの外側に小さな水滴ができ、それがつうっと流れてテーブルに丸い跡を残した。ほどなくして湯気を立てた味噌仕立てのスープが運ばれ、少し遅れて焼き魚と青菜の小鉢、香の物が並ぶ。見ただけで分かるまっとうな食事。並び方は端正で、それだけで心が落ち着く。
「うわ……うまそう……」
思ったままの言葉が、素直に口から出た。箸を割り、白いご飯を一口。
噛むたびに、体の奥のほうがじんわりと温まっていく。張り詰めていた背筋がほどけ、肩が少し軽くなる。スープを啜ると、味噌の塩気が疲れの隙間に染みて、目の奥の乾きをやわらげてくれた。
リル:「ナオ、“顔緩ンデル”」
アクト:「エネルギー摂取、効率良好。栄養比、最適域ニ接近」
ヘイドがいれば「警戒、継続」と言っただろう。だが今、席にいるのは三体――ユレイ、アクト、リルだ。ミズハとヘイドは庁舎側の待機ルートで別行動に入っている。店の入口は視界に入る角度にあり、背後には壁。窓の向こうは人通りが見える通り。守りの形として悪くない。ナオはコップをテーブルの端に少し寄せ、いつでも手の届く位置に置き直した。
ミズハの姿はないが、湯気のうねり方を見れば、彼女ならきっとこう言うだろう。
――湯気、優シイ。呼吸、整ウ。
そんな想像が浮かぶくらいには、今の空気は穏やかだった。
ユレイはしばらく無言でナオの動きを見ていた。
音もなく目の焦点が柔らかくほどけ、その表情が――ほんの少しだけ、緩む。
それは彼の“設計”には含まれていないはずの仕草だ。だが、そこに宿った影はたしかに笑みに似ていた。
「……笑った?」
ナオがおどけて声をかけると、ユレイは短い間をおいて、ぎこちない調子で言葉を結ぶ。
ユレイ:「ワタシ、“笑ウ”設定ハ存在シナイ。……ダガ、ナオノ反応ニ対シ“共鳴素子”ガ共振……“気持チ”ガ、動イタ」
「そっか。“笑いたくなった”ってことかも」
ナオが笑うと、ユレイは目を伏せ、記録のどこかにそれを刻むようにわずかに頷いた。
リルは湯気に鼻先を近づけ、ふうっと小さく息を吐く。
リル:「“好キ”ノ感覚、近イ。――オイシイ、ト似テル」
アクトは淡々と、しかしどこか満足げに言う。
アクト:「情動ログ、初期値更新。良性反応ト判定」
食べ終えた後、温かい湯を頼んだ。
差し出された器を両手で包むと、指の節がほどけていく。
外の通りでは靴音が遠くなったり近くなったりし、時々、ドアの鈴が短く鳴った。襲ってくるものが何もない時間は、こんなにも静かで、ありがたい。
ナオは器の湯気越しに、さっきまでの道のりをゆっくりと思い返した。
霧は重く、結界は二重で、外殻は壊され、内核は守られていた。誘導符は隠され、帝国の構文符が混じっていた。記録は消されたのではなく、移された――そう考えるのが自然だ。
そして、紙片。背中に「トン」と触れた柔らかな指先。偶然ではない重み。白紙に見えるのに、折りの端に埋め込まれた識別インク。意図のある伝達。
器を一度、皿の上に戻す。
深く息を吐いて、懐から小さな紙片を取り出した。
紙は乾いているが、角にはほんのわずかな湿りが残っている。渡した人物の手は乾いていた、とミズハなら言うだろう。急いでいて、しかし乱暴ではなかった――折りの正確さがそれを物語っている。
「……これを、どう思う?」
紙片をテーブルの上に置く。
ナオの声は低いが、ためらいはなかった。
その一言で、三体の視線と処理系が同時に動き出す。
ユレイ:「筆跡分析開始。“個人指定”筆圧傾斜パターン……“手書キ”ト断定。躊躇痕、少ナシ」
アクト:「記載形式、“記録識別子”ノ書式準拠。内部規程ノ記法準合。――“部外者”偽装可能性、低」
リル:「……ナオ、“本物”カモ……デモ、“危険”カモ……」
紙片に記された文字列は、記録部門・旧識別案件:破線-記録B4、再構築対象記録:神代ミオリ/構成記録断章《No.27-α》、起草者:第弐記録室 管理補佐官 “ゼイル=ルー”――そしてこの連絡は公式記録には残りません。最後に一行、今夜、“黄昏通り 旧郵便所裏”へ。貴方の記録に関わる更なる接続があります。
読み上げる必要はない。
ナオも三体も、そこに書かれた文字の意味をもう知っている。
それでも、あえて口に出さないのは、視線や息遣いの揺れまで含めて、今の自分たちを確かめたかったからだ。
ナオは器を両手で包み直し、湯気の向こうに目を細めた。
「……罠かもしれない」
最初に置いたのは、慎重さだ。
軽い言葉で希望を膨らませるより、危険の可能性を先に並べること。それはこの街で学んだ最低限の知恵だ。
「でも、“神代ミオリ”に関する情報が本物なら、俺たちはそれを知るべきだと思う」
言葉は自然に続いた。
器の湯気が少し目にしみ、視界の輪郭がやわらかくぼやける。
ミオリ。
その名を心の中で呼ぶと、胸の奥に、静かな痛みと温かさが同時にひろがる。遠い階層で眠るように消えた人。いまは卵の姿で一緒にいる。でも、彼女の本当の記録がどこに繋がっているのか――まだ、何も分からない。
「転送時に使われた記録術式にも、“帝国の構文符”が混じってた。……つまり、何か大きな操作が過去に行われた可能性がある」
考えれば考えるほど、答えは霧の向こうへ逃げる。
だが、痕跡はある。
隠された誘導符。二重の封印。わざと外殻だけを壊し、内核を守った意志。
それは、誰かが見つける相手を選んでいるということだ。
ナオは器をそっと置き、三体を順に見つめた。
「だから、俺は行くつもりだ」
短く、しかし強く。
「でも、勝手に巻き込みたくない。……だから、“一緒に来てくれるか”って、聞かせてくれ」
その言葉は、三体にとって想定外の形式だった。
彼らは命令で動くために作られ、役割を果たすよう設計されている。問いかけられること――選択を渡されることは、彼らの初期仕様には含まれていない。
だからこそ、テーブルの上に一瞬の沈黙が置かれた。
それは迷いではなく、思考の時間。
ログのどこに新しい項目を作り、どの層に結びつけるか――彼らは、自分たちの内側で静かな作業を始めている。
最初に応じたのは、やはりユレイだった。
ユレイ:「ワレラ、“判断権”ヲ与エラレタコトハナイ。……ダカラ、“問ワレル”コト自体、記録スベキ事象」
ユレイ:「回答:“行ク”。共ニ、記録スル」
アクトが続ける。
アクト:「非公式行動、“監視対象”化ノ可能性アリ。危険指数、上昇。――ダガ、“ナオト同時ニ在ル”行動、優先度 高」
アクト:「同行:可」
リルは小さな手を胸の前に重ね、ゆっくり頷いた。
リル:「……ミオリ、“タスケル”カモ。ナオ、心配ナンダヨネ?」
リル:「ボク、“一緒ニ行ク”。ナオ、“1人”ジャナイ」
言葉を受け取ると、ナオはそっと微笑み、深く頷いた。
「……ありがとう」
笑みは一瞬で、それでも確かな重みがあった。
「俺、“判断を共有したかった”。それが、“一緒に進む”ってことだと思うから」
彼らは補助として設計され、実際、戦術的にも知識的にも十分な存在だ。
けれど今、ナオはそのさらに先を望んでいる。
共に考える存在として、彼らを見ている。問いかけ、応答をもらい、合意に至る。その一つひとつの過程が、チームを作る。
そして、その記録は、きっと三体の内側に新しい層を生む。
言葉にならない、けれど確かに心の近くにある“何か”として。
アクト:「合意ログ、保存。優先度タグ:“共同判断/一次”」
ユレイ:「感情ログ、“静安”。小数点以下ノ揺レ、心地良」
リル:「ナオ、飲ム? 湯、温カイ。冷エチャウ前ニ」
「うん。ありがとう」
器を受け取り、口元に運ぶ。香りが鼻に抜け、熱が喉を通る。
外では、小さな風の渦が通りを横切ったのか、ドアの鈴が短く鳴った。
あと一時間半。
庁舎の時計は嘘をつかない。だが、心の時は伸びたり縮んだりする。待つ時間は長く、決めた後の時間は短い。
だからこそ、いまの静けさは貴重だった。
紙片は、テーブルの端で静かに光を吸い、何も言わずにそこにいる。
白い地に、淡いインクの文様。
「公式記録には残りません」――その一文は、責任の所在を曖昧にするものでもあるが、同時に勇気の告白でもある。
誰かが名を出し、職掌を記し、自分の意思でそれを渡した。
会ったことのない相手の、その一歩を、ナオは軽く扱うつもりはなかった。
ユレイが、紙片を目でなぞる。
ユレイ:「筆圧、二箇所。迷イ、短イ。――“恐レ”アリ。ダガ、“揺ラガナイ芯”モ在ル」
アクト:「書式、旧規程ノ混入。内部者ノ可能性高。――但シ、個人判断比率、高」
リル:「……“お願い”ノ匂イ。責任、1人デ抱エナイ人ノ」
ナオは小さくうなずく。
「そうだな。お願いだ。命令じゃなくて」
器の湯が少しぬるくなった。飲み干す前に、一呼吸置く。
テーブルの木目は細かく、指でなぞると、わずかな起伏が伝わる。
この店の人が油を引いて磨いたのだろう。日々の手間の重なりが、ここは大丈夫だという実感をもたらす。
どれほど大きな術式が動いていようと、誰かが一杯のスープを作り、一枚のテーブルを磨き続けている。その当たり前が、いまはことのほか心に沁みた。
ナオは紙片を懐へ戻し、上着の内側の小さなポケットに落ち着かせる。角が布越しにふれる位置。歩いてもずれない、いつでも取り出せる。道具の場所には、いつも理由がある。
それから、三体の顔を順に見た。
ユレイは目を細め、アクトは微動だにせず、リルは少し身を乗り出している。
言葉は交わさなくても、合意はすでに共有されていた。
アクト:「時刻確認。庁舎協議、残余時間推定“九十分±十分”」
ユレイ:「待機中、追加検証可能。紙片ニ付随スル微量ニオイ、識別」
リル:「甘イ匂イ……店ノ匂イジャナイ。“インク”ノ匂イ。……新シイ」
「今書いた、ってことか」
ナオは思わず呟いた。
今夜。黄昏通り。旧郵便所裏。
時間指定はあいまいだが、今であることだけは確かだ。
早ければ、誰かはもうそこに立っているかもしれない。遅ければ、いなくなる。
「急がないと、という気持ちはある。でも、焦って足を滑らすのは一番よくない。準備して、行く」
アクト:「同意。最小限装備、“街中行動仕様”」
ユレイ:「危険度、都度更新。接触時、“言葉ノ優先”」
リル:「歩幅、ナオニ合わせル」
ナオは少し笑ってから、真面目な顔に戻った。
「ありがとう。……それと、もう一つ」
三体が同時に視線を寄せる。
「さっき、“一緒に来てくれるか”って聞いたのは、答えが欲しかったからじゃない。聞くことそのものが、俺にとって大事だったからだ。俺が勝手に決めて、みんなを動かすんじゃなくて、一緒に決めたっていう事実が欲しかった」
ユレイは短く頷いた。
ユレイ:「記録。――“一緒ニ決メタ”。感情ログ、“静安”継続」
アクト:「合意形成プロトコル、維持。以後、同様ノ確認ヲ推奨」
リル:「“一緒”……嬉シイ」
「よし」
それだけ言って、ナオは立ち上がりかけ、しかし思い直してもう一度席に座った。
あわてる必要はない。あと一時間半――待つべきものは待ち、動くべき瞬間に動く。
彼は店の人に会釈し、湯のおかわりを頼んだ。
湯気が戻ってくる。温度は、心の速度をやわらげる。
窓の外で、風が角を曲がり、紙片のような落ち葉が二枚だけ舞った。
通りを歩く二人連れが、小さな声で笑い合う。
遠くで、誰かが家の戸を閉める音。
この街は生きている。生活の音は、戦いの音よりずっと静かで、ずっと強い。
そこに身を置けているだけで、心のどこかが立て直されていく。
ユレイがふと、いつもよりゆっくりしたテンポで言った。
ユレイ:「ナオ。……“問ワレル”コトハ、我ラニトッテ新シイ。――良イ」
アクト:「機能目的ヲ超エル“共有”。効率ノ指標ニ含メル価値」
リル:「ナオ、次モ、聞イテ。ボク、答エル」
「もちろん」
短い返事を置いて、ナオは片手で胸元の布の感触を確かめた。
紙片は、そこにある。
神代ミオリの名は、そこにある。
目を閉じなくても、文字の形がまぶたの裏に浮かぶようだった。
ナオは思う。
――いまは肩書きや呼び名を脇に置く。
目の前の紙片と、隣にいる仲間の返事だけを確かめて進めばいい。
問うこと、聞くこと、そして一緒に決めた道を歩くこと。
それが、いまの自分にできるいちばん確かなことだ。
湯を飲み干す。
器を置くと、音は驚くほど小さく、しかし心にははっきりと響いた。
外の風は少し冷えてきたが、指先は温かい。
それで十分だ、とナオは思う。
アクト:「残余時間、更新。七十九分」
ユレイ:「呼吸、安定。――行ケル」
リル:「ナオ、笑ッテル」
「うん」
笑っているのだと思う。
紙片は懐の中で静かに眠り、席の上には空になった器が二つ。
通りには、いつもの夜。
この静かな確認は、今日のどの戦いより、ずっと大切だった。
――あと少しだけ、ここで気持ちを落ち着けたら。
夜と約束した場所へ向かう前に、もう一度、心の中で**“一緒に決めた”**という事実を撫でておこう。
きっとそれが、これからの足取りをまっすぐにしてくれる。




