霧の地へ
その朝は、静かに始まった。
ナオの住む家の上空には厚い雲が覆い、太陽の輪郭は曖昧なままだった。けれどその淡い光は、霧封ノ狭路へ向かう旅支度を終えた彼の背に、ひそやかな気配のように降り注いでいた。
台所には、すでに誰の気配もない。昨夜のうちに炊かれた小さな食事の名残と、湯を沸かした鍋のぬくもりだけが残っている。家の中心に据えられた机の上には、ナオが手書きで残した一枚の紙――「行ってくる」とだけ記された短い文が風に揺れていた。
彼は玄関の扉に手をかける前に、ふと足を止めた。
目線の先――棚の一角、そこにあるのは、あの卵だった。
ミオリの卵。未だ孵らず、けれど確かに“生きている”存在。
ほんのわずかに、それが――淡く、光っていた。
ぼうっと青白く灯る光。声ではない。動きでもない。
けれどそれは、確かに“反応”だった。
「……霧を、感じたのか」
誰に問うでもなく、ナオは呟いた。
その言葉に応えるように、卵の光が一度だけ明滅する。まるで“気をつけて”とでも言うかのように。
「位相波、共鳴確認済。卵形態ノ魔素感知機能、活性化状態」
傍に立ったユレイが短く報告する。その声は相変わらず感情の抑揚に乏しいが、言葉の内側には何かを“見守る”響きがあった。
「ミオリ……霧封の向こうにある“何か”に、呼ばれてるのかもしれないな」
ナオはそう言いながら、そっと卵の表面に触れた。
冷たくも、熱くもない。その感触は不思議なほど“中庸”で、けれど確かに“命の気配”がある。
「……行ってくるよ。また帰ってくる。だから、そのとき――」
最後まで言葉にはしなかった。
けれど卵は、まるでそれに頷くように、再び淡く光を宿した。
《出発:霧の地へ》
庁舎前の転送台には、すでに設置と詠唱準備が整っていた。
北域へと通じる霧封ノ狭路――この街でも最も“古い境界”のひとつ。過去の記録によれば、そこはかつて《記憶封鎖実験区域》と呼ばれていた。
今ではその名称すら忘れられ、公式には“調査困難地帯”とされている。
ナオは転送陣の中心に立ち、周囲を見渡した。アクトが装備の最終確認をし、リルが軽く深呼吸している。ユレイはすでに精神集中を始めていた。
「登録三名、確認。霧封ノ狭路・前段区域への転送を開始します」
転送係が粛々と手続きを進める。
「現地は霧濃度が高く、転送誤差のリスクがあるため、帰還時は庁舎固定座標からのみとなります。ご留意ください」
「了解しました」
ナオは静かに頷いた。
「……大丈夫、だよな?」
小さく呟いた言葉に、リルが振り向いて応える。
「ナオが行くなら、ボクも行くよ。怖くないもん」
その言葉に、ナオは苦笑した。怖くないはずはない。だが、その“気持ち”が今は力になる。
「霧封ノ狭路――記録再探索任務、進行開始」
アクトが背後で記録装置を展開し、ユレイが転送用術式を補助する。
ナオは、足元に淡く浮かび上がる転送陣の文様を見つめた。
(霧の中に、何があるのか。俺たちは、何を見つけるのか)
息を一つ、整える。
そして、背後を振り返る。
遠く、自宅の方角にある“あの部屋”を、思い出す。
ミオリの卵が、今も光っているだろうか。
彼女の眠りが、あの霧と――何かで繋がっていないだろうか。
「……行こう」
ナオがそう言った瞬間、転送陣が起動した。
青白い光が地面から立ち上がり、彼ら三人を包み込む。
次の瞬間、光は収束し、彼らの姿は消えた。
残されたのは、風の音と、かすかな残響。
そして、遠く離れた部屋――
ミオリの卵が、再び淡く、ほんの少しだけ強く、光った。
霧は、音を呑み込む。
靴底が湿った地面を踏むたび、確かに感触はあるのに、耳には何の音も届かない。木々の葉擦れも、仲間の足音も――すべてが霧に溶け、飲み込まれていく。
ナオたちは、北域へと延びる古道――《霧封ノ狭路》を進んでいた。
封鎖境界線に沿ったこの道は、かつては巡視や資材運搬に使われていたという記録が残っている。だが、十数年前の“境界崩壊”以降、完全に封鎖された。現在では「通行不能」「探索困難」の二重指定が課されており、庁舎からの派遣記録も数えるほどしかない。
ナオ:「……空気が、重いな」
思わず漏れた声に、ユレイが静かに応じる。
> ユレイ:「霧中ノ位相密度、通常空間ノ約五倍。音波拡散率、低下傾向」
> アクト:「魔素濃度、常時変動中。構造波ノ反響多数。……前方、異常アリ」
リルがピタリと足を止め、ナオの袖を引く。
> リル:「ナオ、左……なんか、空間……ズレテル、みたい」
《記録にない“構造”》
ナオは視線を巡らせ、左の斜面へと目を向けた。
霧に覆われたそこには、朧げに“直線”があった。自然のものとは思えない規則性。ゆっくりと歩を進め、手を伸ばす。
指先に触れたのは、苔に覆われた“石”。
ナオ:「……これは、壁……?」
少し霧を払うと、そこには半ば崩れかけた石壁の断面が現れた。人工的な積層、金属留めの痕跡、そして表面の一部にはかすれた符号のような線刻が残っている。
だが、庁舎から与えられた構造図には、この地点に“建造物”の記録は存在しない。
> ユレイ:「記録照合中……該当構造、地図ナシ。登録履歴、存在セズ」
> アクト:「材質分析開始。“霧避構造素子”ヲ検出。……霧ノ遮断目的カ」
ナオ:「……つまり、“隠されていた”ってことか」
リルが少し前へ出て、ぼそりと呟く。
> リル:「……誰カ、ここ……“思イ出ごと”、隠したんだ……」
その言葉に、ナオは無意識に指を動かした。文様が語る“意図”を読む訓練は、忍術よりも深い感覚が求められる。石の継ぎ目に沿って、幾何学的な刻印がかすかに残っていた。
まるでそれは、“記録されることを拒んだ者たち”の痕跡だった。
《不可視の気配》
ふと、背筋に冷たいものが走る。
ナオは反射的に振り向いた。
誰も、いない。
けれど“視線”のような気配――見られている感覚だけが、肌を撫でるように残っていた。
霧が揺れる。それは風ではない。気温でも、気流でもない。
あれは、“意志”だ。
> ユレイ:「魔素流動、突発的逆流ヲ検知。共鳴位相ニ“外部干渉”ノ痕跡アリ」
> アクト:「残留記録、微量反応中。“視覚干渉型幻影”ノ兆候確認」
ナオ:「幻じゃない。“記録にない誰か”が、ここにいる……?」
腰元から、布に包まれた小さな護符を取り出す。《神代印符》――位相の歪みや干渉波を視覚化するため、神代家がかつて使っていた道具の一つ。
ナオがそっと魔力を流すと、印符がじわりと青白く発光し、霧の中に紋のような光の筋を描いた。
そして――
霧の一角が、微かに色づいた。
そこに“誰か”がいた。
輪郭は曖昧。人影のようでありながら、煙のようでもある。“誰か”がこちらを見ていたようにさえ感じられるが、すぐにまたその姿は霧の中へと消えていった。
ナオ:「……誰だ……?」
答えは、返らない。
霧はすべてを呑み込み、再び沈黙を取り戻した。
《神代印符》
ナオは印符を見つめ、わずかに眉をひそめた。
(……反応した。“あれ”は、霧の中に残された……何だ?)
神代印符は“血統に反応する”道具だ。神代家に縁ある者が近くにいるとき、またはその遺構に接触したとき――それは必ず反応する。
つまり、いま見えた“影”は――
(……俺と、同じ系譜に連なる何か?)
確証はない。ただ、感じたのだ。
霧の中に残された“記憶”が、今なお“誰か”を待っていることを。
《続く足取り》
> リル:「……ナオ、今の……ボクも、見えたよ」
> ユレイ:「情報断片、捕捉中。“交信信号ナシ”。存在ノ定着、困難」
> アクト:「この区域、“記録再構築不可”。従来マップ、使用不能」
ナオは一度大きく息を吸い、足を前に出した。
「行こう。“あるはずじゃない何か”があるなら……それを確かめる義務がある」
それは命令ではなく、選択だった。
ナオが歩を進める。
その背に、仲間たちの足音が続く。
霧は深く、世界の縁を覆い隠していた。
けれど彼らの足取りは、確かに“見えない真実”へと近づいていた。




