ナオの独白
夜の静けさに包まれた部屋で、ナオはひとり、灯りも落とさずに窓辺に座っていた。
外では風が木々をなでている。けれど、この静けさの奥には、もうすぐ訪れる“霧封ノ狭路”の影が、確かに潜んでいた。
棚の上では、卵形態のミオリが微かに光を瞬いている。彼女の意識が目覚めたとき、また何かが変わるのだろう――そんな予感もあった。
(……こんなふうに、仲間と過ごす夜が来るなんて、昔の俺は思いもしなかった)
ふと、思考が“あの時”に還る。
目覚めた場所は、崩れた石畳の上だった。
見知らぬ空、見知らぬ風、そして誰の声もない空間――
ただ、“目が覚めたらそこにいた”。
記憶の断絶はなかった。
だからこそ、なおさら異常だった。
昨日までの世界と、今日の世界が繋がっていない。
そんな事実を、ゆっくりと身体の芯が理解していった。
(最初は、俺も“通報者”と変わらない存在だった)
ナオは目を閉じた。
あのとき、庁舎の審査官に言われた言葉が、今も脳裏を離れない。
『あなたは記録上、正式な来訪者とは扱えません。ですが、保留として、観察対象に分類されます』
冷たい言葉ではなかった。ただ、淡々と事実を告げられた。
あの街で“住む”ことは簡単ではないと、最初から知っていた。
仮市民権を得るまでの時間は、思った以上に長かった。
何も知らない異物として扱われた日々。
声をかけても返されないこと、目を逸らされること、拒絶まではされないが、受け入れられないという空気。
(だから、あの言葉が、今でも胸に残っている)
『あなたは、この街で“生きていくこと”を選んだのです』
それは、誇りでもあり、責任でもあった。
“入ること”よりも、“居続けること”の方が難しい街で――
ナオは、居場所をつくるために選び続けたのだ。
試練。
それはただの課題ではなかった。
“この世界で生きていく覚悟”を問われる、選択の連続だった。
時に命をかけ、時に心を揺らし、
仲間を信じ、支え、時に頼って。
ひとつ、またひとつと進む中で、気づけば“仲間”がいた。
ユレイの冷静な視線。
アクトの鋭さの奥にある温かさ。
ミズハのまっすぐさ、ヘイドの沈黙に潜む信頼。
そして――リルの無垢な言葉。
「ナオ、そういうところ……ボク、すき」
あの一言は、不意打ちのように胸に刺さった。
リルはただの小さな存在ではない。
不思議な感性と高い能力を持つ、かけがえのない仲間だ。
けれど、“好き”と言われたとき、ナオの中で何かが柔らかく崩れた。
(俺は、誰かを守りたいと思ってここにいる)
(でも同時に、誰かにそう言ってもらえるような自分で、ありたいとも思ってるんだろうな)
迷うのは、そのせいだ。
誰もを大切に思っているから。
誰もを、選ばなかったことで傷つけたくないから。
でも今は、少しだけ分かる。
(選んだことの意味を、ちゃんと伝えていけばいい)
(誰かと生きるって、きっとそういうことだ)
ナオはゆっくりと目を開けた。
空には雲が流れ、月がその隙間から顔を出している。
ミオリの卵が、静かに淡光を放つ。
明日、ナオは霧封ノ狭路に向かう。
過去の封印と、今の揺らぎが交差する地へ。
けれど、その背には確かに“仲間”がいる。
この街で生きていくと決めた自分と、
その選択を信じてくれる者たちと。
――きっと、まだ行ける。
この先の問いにも、答えられると信じて。
夜は深まっていた。
霧封ノ狭路への出立を翌日に控え、ナオは自室の机に向かっていた。
窓の外には静かに月が浮かび、街の灯りもまばらになっている。
それでも、自分の中にだけは、夜の静けさが降りてこなかった。
目の前に広げた古い文書と、転写された記録端末の情報。
指先は止まっているのに、思考だけが止まってくれない。
――《神代》という名が、脳裏から離れなかった。
それはいつからだろう。
誰かに教えられた記憶があるわけでもない。
文献で読んだ記録も、誰かの証言も、きちんとした“出所”があるわけではない。
けれど、自分の奥深くにずっと、引っかかっている。
まるで過去の夢の中にだけあったような、朧げな感覚。
「神代家」――
その名を冠する一族が、かつて存在していたことは確かだ。
そして、気付けば自分も、その末裔とされる「神代 玄」の直径の血を引いているという。
だけど、自分は何も知らされてこなかった。
現世ではずっと、「目立つな」「出過ぎるな」と言われて育った。
まるで、“在るもの”としてではなく、“あってはならないもの”として。
能力は隠され、素性は伏され、ただ「普通であれ」とだけ言われ続けてきた。
なのに今、この街で、数々の偶然のような符合が、何かを指し示している。
■ナオが理解していること
整理してみると、少なくとも以下の点は確かだった。
1.《神代家》は街の成立以前から存在する、極めて古い血筋。
ノワール=フィルの旧記録、特に“影の時代”と呼ばれる混乱期に、一度だけ“神代”の名が記録されている。
それは“位相干渉術”や“封印構築”に関わる古術に通じた一派だった可能性が高い。
2.X12――あの地下深層で遭遇した《干渉者》が、その分家筋を名乗った。
記録上に存在しない彼らが、封印の中に現れたこと。
彼らが持つ知識と技術は、現代の術士を遥かに凌駕していた。
3.《神代家》は、“外”からこの街に情報を送ってきていた。
X12内部の記録装置に痕跡を残し、時を超えた情報の橋渡しを行っていたようだった。
干渉者たちは“歴史の揺らぎ”を注視し、何かを探っていた。
4.霧封ノ狭路やX12の構造も、神代家の術式を基盤としている可能性がある。
つまり、今も街の根幹に“その痕跡”が残っている。
そして、自分――ナオ自身が、それに反応している。
霧の封鎖区画に近づいた時、ほんのわずかにだが、魔力反応が“共鳴”した。
それは、個としての能力とは別の、血の奥に眠る“何か”の反応だった。
■ナオがまだ分からないこと
けれど、見えてきたのは“真実”ではなく“空白”だった。
1.神代家は何を恐れ、何を守っていたのか。
封印構造を構築し、外界から隔絶しようとした意志。
同時に、《X12》の情報回路には“自己記録の抹消指令”が残されていた。
なぜ自らの痕跡を消そうとしたのか。
それは“遺産”ではなく、“負の遺言”だったのか。
2.干渉者たちが自分たちに接触した理由。
X12に入った瞬間、彼らは現れた。
まるでそれを“待っていた”かのように。
「戻るべきものが戻った」
「選ばれしもの」
そんな言葉を残して去った彼らの真意は、いまだに分からない。
3.ナオ自身の系譜について。
自分は記録上、“外部から現れた仮市民”として登録されている。
けれど、X12の映像記録には、自分の幼い姿と、神代の印章が一瞬重なった。
もしそれが事実なら、自分は“偶然ここに来た”のではない。
“もとから、ここに還るべきだった”のかもしれない。
ナオは深く息を吐き、手のひらを見つめた。
そこには何の紋章も、力の気配もない。
けれど、その内側に、微かに――確かに、“何か”が残っている気がしてならなかった。
(……もし、俺が“選ばれる側”だったのなら)
けれど、今は違う。
自分は“選ばれる”のを待っているわけではない。
“選ぶ側”に立とうとしている。
仲間を選び、道を選び、何を守るかを自分で決める。
だからこそ――
「霧の中で、何が見えるのか。行って確かめるしかないな」
静かな部屋に、独り言が響いた。
それは、自分への宣言であり、過去への問いかけでもあった。




