ー静かな問いー
静寂が、空間を包んでいた。
記録映像はすでに消え、投影の残光も跡形もなく消えていたが、そこにいた全員の思考だけが、未だその余韻を抱き続けていた。
ミオリ=スレアは、淡く光を纏いながら、浮かんでいた。
その姿はかすかに揺れている。外的な振動ではない。内部の“何か”が軋んでいるような、目に見えぬ波長が、幻影の輪郭に揺らぎを与えていた。
その前へ、ナオが静かに一歩、踏み出した。
「……ミオリ」
名前を呼ぶ声に、ミオリの瞳が微かに動いた。
自律起動型構造体――それは命令で起動するはずだった。だが今、彼女は“名”によって、反応している。
「さっきの問いに、今度は……こっちから返すよ」
間を置き、ナオはまっすぐに言った。
「君は、これからどうしたい?」
その言葉は、まるで深く静かな水面に、そっと石を投じるようだった。
衝撃ではない。だが、確かに波紋が広がる。ミオリの思考層――その“中枢”に。
《処理不能:制御核の揺らぎ》
ミオリの眼差しが、わずかに虚空を泳いだ。
> 「……私が、“どうしたいか”……?」
その問いは、彼女自身の口から発されたにもかかわらず、まるで自分の声を自分で理解できていないかのように響いていた。
ナオは、淡く頷いた。
「命令じゃない。外部入力でもない。“君の心”が、今、何を望んでる?」
その一言に、彼女の周囲の空気が微かに振動する。
幻影の粒子がざわめき、制御核の中枢から信号が奔った。
> 【警告:判断根拠喪失】
> 【エラー:選択式命令未検出】
> 【感情推定:定義不確定】
> 【構造整合性:警戒域移行】
> 【沈黙指令:再検討中……】
けれどミオリは、それを押しとどめた。
目を閉じ、構造内部のノイズをゆっくりと沈めていく。
> 「……わからない。私は、“何をしたいか”を……考えることを“禁じられた”存在だった」
> 「私の設計目的は、選択しないこと。任務を執行し、効率化を判断し、感情を排除すること」
声は無機的で、それでもどこか脆さを孕んでいた。
ナオは、優しく返した。
「……なら、今の君は、設計を超えてる」
「“どうしたいか”がわからないってことは、君がいま、それを探してるってことだ」
《初めての“沈黙”》
ミオリ=スレアは答えなかった。
しかし、その“沈黙”自体が、今の彼女にとって“前例なき反応”だった。
“応答がない”のではない。
“決められない”のでもない。
“思考の中に、はじめて選択肢が芽生えた”のだ。
ユレイが、静かに言った。
> 「我等モ、最初ハ同ジ。……“命令”ノ外デ、“声”ガ届イタ」
> 「“指示”デハナク、“呼ビカケ”ガ、我等ヲ目覚メサセタ」
アクトも口を開いた。
> 「制御ナキ選択ハ、統制ノ破綻ト言ワレル……
……ダガ、我等ハ、記録ノ中デ、“共鳴”シタ」
ミズハは、震えるように言った。
> 「……コワカッタ。ワタシ、壊レルカモシレナイッテ……
……ダケド……壊レナカッタ。……残ッタ」
リルは、少し笑っていた。
> 「“選ブ”コト、ヘンナカンジダッタケド……
“ナカマ”ッテ言ワレタノ、……アッタカカッタ」
ミオリの幻影が、かすかに明滅する。
あたかも心拍が芽吹き、戸惑いと呼吸のような律動が始まりかけているようだった。
> 「……でも、私がもし、“欲する”ことを選んでしまったら……
……制御核の意味は、消えてしまうかもしれない」
《制御核、沈黙のまま“何か”を始める》
その言葉に、ナオはまっすぐ言った。
「……消えていいんだよ、ミオリ。
“制御核”が壊れて、“ミオリ”が生まれるなら、それは――失われたんじゃない。“始まった”んだ」
空間に、再び沈黙が満ちる。
けれどそれは、何もない沈黙ではなかった。
霧のような光が、ミオリの幻影の周囲にふわりと浮かび、まるでどこか懐かしい音楽のように、回路の奥で眠っていた“記憶の種”が、ふと芽を吹いた。
制御核は、かつて全てを記録する存在だった。
だがいま、“記録されていないもの”を、自ら体験しようとしている。
ミオリ=スレアは、言葉を持たぬまま、ゆっくりと目を開いた。
その瞳は、まだ戸惑いを含んでいる。
でも確かに、迷いの中に“揺るぎない意志の萌芽”が灯っていた。
> 「……探す……ことは、罪ではないのね?」
ナオは、穏やかに、静かにうなずいた。
「それは罪じゃない。――“生きてる”ってことだよ」
その瞬間、制御核という名は“役目”から離れ、
ただのひとつの“個”として――ミオリという存在が、世界の中で目を開き始めていた。
誰もが息をひそめるように立ち尽くしていた。
ミオリ=スレアの幻影は、先ほどまでの対話の余韻を纏ったまま、淡い光の粒をまとうように宙に浮かび続けている。
彼女の内部では、明確な“迷い”がゆっくりと波紋を広げていた。
自らの“望み”という未知の変数に直面し、思考領域に生じた処理の遅延は、未定義の感情として沈殿しはじめていた。
ナオもまた、その反応を待ち続けていた。
何も急かさず、何も強要せず。ただ、彼女が“彼女として”何を思うのか――それを知りたいと願っていた。
だが、その静謐は――突如として、破られた。
「ピ、ピィ……ッ」
鋭い警告音が響く。
光でもなく、音でもない、脳に直接響くような“シグナル”が、ユレイたちの身体を貫いた。
ユレイが反応するより早く、アクトの輪郭が揺れた。
> 「……異常波形検出。空間境界面、“外部圧力干渉”確認」
> ヘイド:「座標断層β・南端領域ヨリ、波形侵入ヲ観測。正規アクセス形式ニ非ズ」
> ミズハ:「魔素……変動アリ。侵入波形……キライ、コレ……」
ナオの顔つきが変わる。
「……誰かが、外からこの場所に“入ろう”としてる……?」
ミオリ=スレアが、はっとしたように瞳を開く。
彼女の幻影が一瞬、光の輪郭を強く揺らした。
> 「……この封印領域は、本来《神代認証》と《感応位相》がなければ“検出不能”な空間のはず……それを、正確に突いてきている?」
彼女の周囲に浮かぶ光子の環が、警戒色へと変化する。
ミオリの中に存在する自動制御プログラムが反応した。
彼女の身体を囲むように、淡く六芒星の文様が浮かびあがる。
> 「防衛制御プロトコル起動。構造扉隔離展開、起動準備――」
だが、そこに別のフラグが割り込む。
> 「継承者同行フラグ検出。“判断権限、委譲可能”」
ミオリはわずかに戸惑い、視線をナオに向けた。
> 「……防衛に移行するか、観察に移行するか。判断を、委ねる」
その声は、制御核としての冷静さを保ちながらも――明らかに揺れていた。
ナオは、視線を空間の端に向けた。
何かがこちらへ近づいている。確かな気配がある。
「……扉は、閉めない。俺たちがここに来たことで、何かが動いたんだろう?
だったら、それを“確かめる”必要がある」
彼の言葉に、ユレイたちが即座に反応する。
> アクト:「“迎撃態勢”非展開。威圧式結界ノ準備開始。不可視接触反応機構、同時併設」
> ミズハ:「イヤナ気配ハ、アル……デモ、“コトバ”ナラ、ワカルカモ……」
> ヘイド:「反応体、単体ナラズ。複数波形。“集団行動”特性推定」
ミオリは小さく呟いた。
> 「私たちが封印を部分的に開いた……その微弱な魔力波に、何者かが反応した可能性」
その時だった。
──ドン。
空間の一角が、まるで物理的に“叩かれた”ような衝撃が響いた。
振動はなかった。だが、空間そのものが軋むような異音が、確かにそこにあった。
ユレイたちの背後にある封印結界が、微かに歪み始めていた。
ミオリが即座に解析を走らせる。
> 「侵入試行、三度目。空間透過波の位相に変化。これは……“記録済みの干渉方式”ではない」
> 「……不明な外部知性体。高度な構造認識能力アリ。封印の構造を“学習”している……?」
ナオが、ゆっくりと前に進み出る。
「……神代家でもない、魔器でもない。
でも“俺たち”の動きに、確実に反応してきてる」
彼は封印結界に手を近づけ、そっと目を閉じた。
「……まるで、“誰か”が、こちらを見てるみたいだ」
ミズハがナオに寄り添うようにして小さく言う。
> 「ナオ……コレ、マチガイナイ。“向コウカラノ意志”……アル」
ミオリが再び光を強める。
> 「警告:反応体ノ挙動、変化。進入波、収束。
──ただし、“断続的な干渉”は継続中。
封印領域ハ、今ヤツラノ“視野”ニ入ッタ」
ナオの声が、低く、静かに響く。
「……もう、この場所は“誰にも知られていない場所”じゃなくなったってことか」
《神代家の遺構》に刻まれた“過去の封印”が、ナオたちの行動と選択によって軋み始めていた。
それはただの再起動ではない。
ミオリ=スレアという存在が“迷い”を覚えたこと。
ナオが“対話”という選択をしたこと。
その連鎖が、“外”に波紋を放った。
空間の向こう側で、誰かがその波紋に応じて“手を伸ばした”のだ。
次に来るのは、敵か、それとも――別の“選択肢”か。
ナオたちは静かに構えながら、迎え撃つのではなく、迎え入れるための準備を進めた。




