踏み出す先に
《出発直前の朝:まだ淡い光のなかで》
──出発の朝が訪れた。
街を包む空気にはまだ夜の余韻が残っていた。建物の影が深く長く、石畳には露がきらめいている。東の空だけがわずかに朱を帯び、夜と朝の境目が静かに移ろっていく――まるで世界がまだ目を覚ましきれていないような、そんな時間だった。
ナオの家の前では、出発の支度がすでに整えられていた。荷物は玄関先にきちんと並べられ、必要最小限の魔道具や食料、予備の薬包、魔素遮断布などが詰められている。
ユレイは周囲の気流と魔素の流れを読み取りながら、最終的な防御結界の維持状況を確認していた。アクトとヘイドは道具袋の重量バランスを調整し、耐圧封印の劣化がないかを黙々と点検している。リルは保存菓と簡易飲料の残量を再確認し、補給品の整備を終えたらしい。
ナオは伸びをひとつして深く息を吸い込んだ。
胸の内に積もった緊張が、吐息と共にわずかに抜けていく。今日から始まるのは、次の“試練”。ただの任務ではない。自分が“どう在るか”を問われる場だと、ナオは静かに理解していた。
ふと空を見上げる。雲の切れ間から、まだ白い月が浮かんでいた。
かつて別の世界で見上げていた月とは違うはずなのに、不思議と、同じものに見える瞬間がある。それはきっと、見る者の内面が反映されているからだ――ナオは、そんな気がしていた。
そのとき、不意に声がかかる。
「ナオ……」
呼ばれて振り向くと、ミズハが控えていた。
彼女は女性型の魔器であり、人型のような姿はとっていない。装甲と魔導回路を備えた、その“核”は淡い青白い輝きを中心に持ち、静かな存在感を放っている。
ミズハは一歩だけ進み、ナオのすぐ傍に近づくと、変わらぬ声音で問いかけた。
「……アナタノ“見ル月”ッテ、ドンナノ?」
唐突な質問だった。
けれど、その声に込められた響きは、冷たい機械音ではなかった。彼女は確かに魔器だ。だが、何度もともに過ごすうちに、そこには“問いかける意思”が宿っていると、ナオは感じていた。
ナオは小さく息を吐いて、空を見上げたまま答えた。
「……俺にとって、月は“鏡”みたいなもんだよ」
「カガミ……?」
「そう。……普段は気づかない、気づきたくない、そういう感情とか……思い出が、月を見てると浮かんでくる」
ミズハは静かに応答する。彼女は感情を表情で示すことはない。けれど、声の間の取り方や、微細な魔素反応の揺れが、彼女が“聴いている”ことを伝えていた。
「……月ハ、ソレヲ責メナイ?」
「うん。ただそこにあって、照らしてる。俺がどう思おうが、何を抱えていようが……月は否定しない。むしろ、“それでもいい”って、言ってくれてるような気がするんだ」
しばしの沈黙のあと、ミズハがぽつりと呟いた。
「……ヤサシイ、ナ」
「え?」
「月ガヤサシイノデハナク……アナタガ、“月ヲソウ見ル者”ナノデス。……月モ、アナタヲ見返シテイル」
ナオは一瞬、言葉を失い、小さく笑った。
「……なんだよ、それ。ちょっと……くすぐったいな」
「事実ヲ述ベタマデ」
「でも……ありがとな。ミズハにそう言ってもらえると、何か、ちゃんと自分のことを見てくれてる気がする」
「感知反応ハ通常ノ会話ト異ナル。ナオニ“変化ノ兆候”アリ。……本試練ニ入ル前ノ精神ノ安定、ヨリ良好ト推測」
「……そっか。俺の状態、全部見られてるんだな……」
ナオは少し苦笑しながらも、心のどこかが温かくなった気がしていた。
「でもさ。やっとわかったんだ。俺、“月を眺めよ”って言葉、ただの教えだと思ってた。でも違った。……あれは、“どう生きるか”の指針だったんだよな」
「……承認。月ハ“在リ方”ノ象徴。……ナオノ進化ヲ確認」
そこに、リルがひょこっと姿を現した。
「ナオ、準備できた? みんな集まってるよ!」
「ああ。行こうか」
ミズハはそれに静かに続いた。
ミズハ:「全系統機能、稼働率95%維持。魔素環境、出発条件内」
ユレイ:「補正起動完了。転移座標、固定完了」
アクト:「戦闘想定区域、誤差範囲内」
ヘイド:「通信妨害対策、完了」
確認の声が次々に上がる。全員が、これから始まる試練の準備を整えていた。
ナオはもう一度、空を仰いだ。
月は、もうほとんど朝の光にかき消されていた。
けれど、その場所を、心の奥で確かに記憶していた。
「……行くか。次の月影へ」
そして、ナオとその仲間たちは、試練へと向けて静かに歩き出した。
──街の朝は、冷たい澄んだ空気に包まれていた。
まだ太陽は高くない。石畳には昨日の残り香のような霧が薄く漂い、建物の陰に静かな影を落としていた。その中を、ナオはひとり歩く。目的地は、街の中心部に位置する庁舎――探索者たちが試練の開始と終了を報告する場所だ。
ノワール=フィル地下区画β。断層座標X12。記録端末が示した“封印断層の裏側”。
そこへ向かう前に、ナオには“どうしても伝えておきたい言葉”があった。
扉の前で足を止める。庁舎は朝の光を受けて重厚な存在感を放ち、ナオの影を長く引いていた。
「……よし」
深く呼吸を整え、ナオは扉をノックした。
受付は、すでに業務を始めていた。
石板端末を操作していた試練管理官が、ナオの姿に気づく。
「おや、ナオ=カミシロ殿。第六試練の申請かい?」
ナオは首を横に振る。
「……いえ。今日は、その試練には向かいません。別の場所に行くことにしました」
担当官の手が止まる。目線がナオの瞳を探るように動いた。
「……詳細を聞かせてもらえるかね?」
「はい。目的地は、50階層――断層構造帯のX12座標です。記録端末が提示した“封印断層の裏側”……そこに、進むべき意味があると判断しました」
「第六試練の正式任務とは別だが、それをもって“探索の延長”とする、と?」
「違います」
ナオは、一拍の沈黙を置いて、静かに言った。
「……これは“俺自身の意思”です。形式のためじゃなくて、自分が納得できるために。試練とは別に、自分の目で確かめたいものがある。それが今の俺の、進む理由です」
庁舎の管理官はしばし黙し、ナオの言葉を反芻するように考え込んだ。そしてやがて、小さく笑みを漏らした。
「……そうか。形式よりも、意思。ならば、これは“次の試練”と見なそう」
「記録としては“試練継続調査”として処理する。だが、君たちの行動の意味が、どこにあったかは――報告より、結果が物語るだろう」
ナオは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
管理官は厳しさの残る声で言い添える。
「気をつけるんだ、ナオ君。選んだ先に待っているのは、“誰かの答え”ではなく“自分で選ぶ問い”だ」
「はい。……それを受け止めに、行きます」
庁舎を出ると、広場の石畳の先に、仲間たちが揃っていた。
ユレイは黙って頷き、アクトは端末のエネルギー確認を終えていた。リルとヘイドは軽く背伸びをし、ミズハはナオを見て、ふわりと笑った。
それは、“行ってくると知っていた”者たちの表情だった。
「……お待たせ」
ナオはそう言って、小さく伸びをするように肩を回した。
「じゃあ、行こうか。“封印の裏側”へ」
誰も言葉では応えなかったが、それぞれが足を踏み出す。
光の射す道を、影を携えたまま進む者たちがいた。
それは、試練ではなく“選んだ行動”として。
継承ではなく、“意志の出発”として。
そして――彼らはそのまま、ノワール=フィル地下区画βの入口へと、静かに歩み出していった。




