深きたる夜
戦いが終わったあとの、拠点の裏手。
源水のほとり、小高い岩の陰には、焚火の灯がゆらゆらと揺れていた。風は冷たく、空気にはわずかに湿気が混じっていた。だがこの一角には、編集的な静けさがあった。
ナオはそっと空を見上げ、思わず息を吐いた。
「……ほんとに、陽が沈むんだな。ダンジョンの中なのに」
天井は岩で覆われているはずなのに、なぜか天蓋の向こうには、豊かな茜色の空があった。それは明らかに外界ではない。だが、その夕焼けは確かに「本物」のように世界を染めていた。
「うん、階層によっては“時刻”の概念があるの。ここは“第十一層・セリノの源水帯”。魔力の波が周期を持ってるから、昼と夜が何となく交互に来る感じかな」
そう答えたのは、焚火のそばにしゃがんでいたミュアだった。濡れたしっぽを手で拭いながら、ぽつりと呟くように語る。
「不思議な場所だな……外とは全然違う。まるでゲームのセーフポイントみたいだ」
ナオが周囲を見渡すと、岩陰には簡易テントが二張り、小さな寝床のように丸めた毛布が散らされていた。その周囲を囲うように地面に不規則に並べられた黒い石――それらからは、どこか魔力を拒むような嫌な振動が漂っていた。
「この石、何だ?」
「“アゾ=ルーン”っていう魔物避けの鉱石。魔物の感覚に干渉して、ここに近づくと違和感で進めなくなるの。正式な拠点には必ずあるんだよ。……少なくとも、この範囲は、今夜は安全」
そう言って、ミュアは焚火に小枝をくべた。ぱちり、と弾ける音が響いた。
ナオはふぅ、と安堵の息を漏らした。背負っていた緊張が少しずつ溶けていくのがわかる。微かに灯る火と水音、それだけで心がゆるむのを感じていた。
その夜。ミュアは眠りに就いたが、ナオは一人、焚火のそばでうずくまっていた。火の揺らぎを見つめるその眼は、どこか遠くを見ていた。
(……戦いは、終わった。でも、これからが本番だ)
そう思いながら目を閉じたとき、不意に胸の奥にざらりとした感覚が広がった。言葉にできない違和感。熱のようで、冷気のようなものが脳裏を駆ける。
次の瞬間。
──水の流れる音が消えた。
代わりに、耳に届いたのは砂の擦れる音。静寂の中、何かが動く音がする。目を開くと、そこには焚火も、岩の天井も、ミュアの寝息もなかった。
代わりに広がっていたのは、暗い竹林のような空間。朧げな月明かりが揺れるなか、黒装束の者たちが、無言のまま身体を動かしていた。
(……夢、じゃない。これは……)
誰かの記憶。もしくは、血に刻まれた“記録”。
ナオは自分の手を見た。そこにあるのは、見慣れた自分の手ではなかった。指先に黒布が巻かれ、呼吸は鼻の奥で抑えられていた。
──《無音》の術。
空間の呼吸に合わせて動く。その所作は研ぎ澄まされ、誰一人、声を発することなく、任務を遂行する。
その中心にいる一人の老人。白髪だが背はしゃんと伸び、眼光鋭く、周囲に命じることなく統率していた。
「……誰だ、この人」
ナオの口が動くよりも早く、老人の視線がこちらを向いた。
「……名を、忘れるな」
その言葉と同時に、風景は崩れ落ちた。
再び目を開けたとき、ナオは焚火のそばに戻っていた。手は震えていたが、妙に冷静だった。心の奥に刻み込まれた何かが、微かに明確になっていた。
(……あれは、俺の記憶? いや、先祖……“忍の血”が見せた記憶か)
呆然としながらも、ナオはゆっくりと息を整えた。
そのとき、小さな気配が背後から近づいた。
「……ナオ? 大丈夫?」
ミュアだった。寝起きなのか、しっぽが少し跳ねていた。だが、その目はしっかりと彼を見つめていた。
「……ああ。ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。なんか、変な夢見て起きちゃった。……ナオこそ、なんかあった?」
ナオはしばし黙ったあと、ぽつりと答えた。
「少しだけ……前の自分の“始まり”を思い出した気がするんだ」
ミュアは焚火の前に腰を下ろし、しばらく黙ってナオの横顔を見ていた。
「ねえ、ナオ。私、強くなりたい。君みたいに、誰かを守れるように」
その言葉に、ナオは驚きと、そして小さな嬉しさを覚えた。
「……いいよ。教える。忍びの技も、呼吸も、動きも。君になら、きっと合う」
ミュアは少し目を見開き、それから恥ずかしそうに笑った。
「……じゃあ、お願いね、先生」
その夜、ふたりは静かに焚火の前に並んで座った。
ナオの中で目覚めた“忍の記憶”。
ミュアの中に芽生えた“強さへの願い”。
ふたりの歩む道が、少しだけ交わった夜だった。
陽はすでに落ち、岩の天井に模された疑似空の月が、ほのかに辺りを照らしていた。
その夜の光は冷たく、沈黙の帳を世界に落とし込むようだった。湧き水のせせらぎが遠くでかすかに響き、風は岩壁を抜けて微かに肌を撫でた。焚き火の明かりも届かないその奥――闇と静寂が支配する空間に、ひとつの影が立っていた。
ミュア。細身の体に簡素な布装束。耳はぴんと立っているが、その尻尾はかすかに震えていた。
目の前に広がるのは、崩れた迷路の遺構。かつて何かの儀式や試練に使われていたのか、不規則に並ぶ石柱や倒れた壁が複雑な陰影を作っている。
「……ほんとに、ここでやるの?」
月明かりの下、ミュアは不安げに声を漏らした。
「大丈夫。敵は俺じゃなくて、“環境”だよ」
少し離れた岩陰で、ナオが巻物を巻き直しながらそう答えた。彼の声には余計な感情がなく、まるで呼吸するように自然だった。
「これは、自分の足で歩くための訓練だから」
その一言に、ミュアは唇を引き結び、こくりと頷いた。
訓練内容は、単純で、だからこそ難しかった。
──五分以内に、指定された“光る石”を三つ見つけて戻ってくる。
──音を立てれば「失格」。罠を一つでも踏めば「即終了」。
魔物に狩られる前に、自分の足で“生き抜く”術を知る。そのための忍びの初歩、基礎訓練。
だがそれは、ミュアにとっては想像以上に過酷だった。
最初の挑戦。石を探そうとするあまり足元の瓦礫に気を取られ、視界を塞がれたまま頭を打ち、あっさり脱落。二分で終わった。
二回目。石は手に取ったものの、出口へ急ぐあまり、走ってしまったその一歩で、床板がきしむ音。直後に仕掛けの縄が動き、失格。
三回目。迷路の入り口に立った彼女は、一歩も動けなかった。胸の奥から込み上げるものが喉を塞ぎ、視界が滲んだ。
(……悔しい)
(ナオは、異世界から突然来たのに、もう一人であんなふうに戦ってる)
(私は、この世界で生まれ育ったのに……)
瓦礫の影で、拳を握った。
そのとき、腰のポーチから何かが落ちかけた。ナオから借りた、使い古された小さな巻物だった。
端をそっと広げると、墨で綴られた一文が目に入る。
《無音とは、耳を殺すにあらず。己が心の揺らぎを、沈めること。》
それは技術の教えであると同時に、精神への戒めのようにも読めた。
(心の揺らぎ……)
ミュアは、そっと目を閉じた。
深く、静かに、呼吸する。胸に宿った焦りや悔しさを、吐息と共にゆっくりと手放していく。
耳が研ぎ澄まされていく。風の流れが、空気の動きが、聞こえる。身体の芯が静かになっていくのが分かる。
──四回目。
彼女の足取りは、まるで空気を踏むように静かだった。
呼吸は浅く、だが確実に体を巡る。肩の力は抜け、尻尾も低く自然に揺れる。岩の隙間にできた影に身を重ねながら、迷路の中を進んでいく。
ひとつめの石。ひっそりと水たまりの奥に輝いていた。
罠は仕掛けられていたが、床のわずかな傾きと風の流れから、ミュアは“異物”の存在を察知した。
(ここ、回り道できる……)
身体を横に滑らせる。罠を踏まずに通り抜け、次の角へ。
ふたつ目の石。高い棚状の岩の上。飛びつくのではなく、自然なステップで登りきり、無音のまま掌に納めた。
最後の石――三つ目を見つけたとき、彼女の顔に浮かんでいたのは恐怖ではなく、静かな決意だった。
──五分以内、成功。
戻ってきた彼女の姿を見て、ナオは目を細め、言葉を噛みしめるように言った。
「……もう、立派な“忍猫”だな」
「……うるさい」
小さく吐き捨てながらも、ミュアの頬はほんのりと赤くなっていた。
目には光が宿っていた。
それは自信と、手に入れた“覚悟”の光。
彼女はもう、“守られるだけの存在”ではなかった。
■結果:ミュアの新スキル習得
・《気配抑制・初級》:敵の索敵範囲を30%減少させる
・《軽足》:罠感知力と回避力が微上昇
→後に《罠誘導》《忍走》へと進化可能
ナオは静かに微笑んだ。
(もう、“守る”だけじゃないな)
彼のなかでも、ひとつの境界が音もなく越えられていた。
ミュアが努力し、自分で戦う力を手に入れた今、「守る」ではなく「信じて任せる」ことができる。
「なあ、ミュア」
「なに?」
「……今日の君、すごくカッコよかった」
ミュアは一瞬呆けたように目を見開き、それからぷいと顔を背けた。
「……ありがと。でも、まだまだ。もっと強くなりたいから」
その声は、確かだった。
この夜、ミュアは覚醒した。
自らの弱さと向き合い、乗り越えるという“初めての一歩”を、自分の力で踏み出したのだ。