試練⑤ー異階層
──《第50階 下層区画・未登録構造》
そこは、まるで音も光も拒絶するような空間だった。
天井は低く、通路は狭く、壁は均質な灰色で、わずかな陰影すら浮かばない。
ナオたちは互いの魔素発光を頼りに、ゆっくりと奥へと進んでいた。
足音さえ、何かに吸い込まれるかのように響かない。
言葉を発しても、反響はなく、ただ自分の内側に返ってくるだけだった。
「音……ヤッパリ、反射シナイ」
リルが小さく呟く。耳に届いたその声も、どこか輪郭が曖昧だった。
「……呼吸音、私ノ中デ響ク」
ミズハもまた、己の感覚に戸惑いを見せる。
「地磁気、魔素流、両方共“断絶領域”ノ波形」
アクトが淡々と解析結果を読み上げる。
「不自然ナ“無”ノ密度。……奥ニナニカ、アリ」
ユレイの言葉に、ナオは頷いた。
「……わかった。行ってみよう」
通路の奥に進むにつれ、闇の密度は一層増していく。
ナオは無意識に手を壁へ添えながら、一歩一歩を慎重に踏みしめた。
すると――ふと、右手に微かな“凹み”を感じた。
その場所だけ、わずかに風の通りが違った。
「ユレイ、そこ……何か埋まってないか?」
「反応アリ。構造金属ト思ワレル外殻、腐食率7%。“記録媒体”ノ外装構造ニ酷似」
ナオは立ち止まり、手で壁に積もった砂塵を払い落とす。
その下から姿を現したのは、掌サイズの円柱状装置――古びた記録端末だった。
魔素でかすかに浮かび上がる意匠と、中央に備えられた《観測視》用の窓。
だが、どこかが壊れているわけでもなく、まるで“時間”そのものが停止したように、端末は沈黙していた。
ナオは試しに魔素を注ぎ込んでみた。
だが、装置はぴくりとも反応しない。
「……駄目か。電源も、反応も、何もない」
「……記録ハ在ル。……ダガ、“読ミ出シ”不可」
ユレイの声に、ナオは眉を寄せた。
「“記録抹消”デハナイ。“再生抑止ノ封印”」
アクトが補足する。
「ワザト、見レナクサレテイル?」
ミズハの問いかけに、ナオはしばし思考を巡らせた。
ここに記録が“ある”。それを知っていながら、あえて誰かが見せないように封じた。
その行為に込められた意図は、単なる隠蔽ではなく、“警告”にも似た気配を纏っていた。
──ナオたちは沈黙の通路の奥へと足を踏み入れていった。無音の世界が続くなか、魔素の微光だけが彼らの進路を照らしていた。
リル:「……ナオ……“空気”ノ中ニ、“感情”ガ混ジッテル……気ガスル」
ナオは立ち止まり、辺りの空間を見渡した。確かに、ただの静寂ではない。どこか“誰かの意図”が染み込んだような気配がある。
ユレイ:「通路、中央部ニ異常。“空間ノ歪ミ”アリ。確認スル」
通路の中腹、左右対称に見える構造の片方が、微かに揺れていた。歪んだ鏡のように空間が波打ち、奥に何かを隠している。
ナオ:「……また、“扉”か?」
彼は慎重に近づき、歪みの中に手を差し出す。ぬるりとした魔素の膜が手に触れ、彼の感覚を撹乱させた。
ヘイド:「侵入可能。圧力差小。接触ノ影響、ナシ」
ナオは手を引き、仲間に指示を出す。
ナオ:「行こう。全員、接近陣形。リル、左に」
リル:「ウン……ナオ、怖クナイ?」
ナオ:「……怖いさ。でも、進まなきゃ」
彼の言葉に、魔器たちは一様に頷く。
──そして彼らは、“歪み”を越えた。
そこにあったのは、古代構造と思しき祭壇のような広間。
中央には、巨大な石柱が立ち、その周囲には無数の断片化した装置が散らばっていた。
アクト:「破損率、72%。記録可能ナ断片、検出中……」
ミズハ:「“コエ”ノ残滓……微カニ在ル。“誰カ”ノ、ナゲキ」
ナオはそっと膝を折り、石柱の根元に残された彫刻文字を指先でなぞった。
『……目覚めよ、かつて問いた者たち。』
彼の胸の内に、不意に浮かび上がる記憶のかけら。
(──なぜ俺は、問い続けるのか)
それは幼い日、カミシロの家系の中で生き延びる術として植え付けられた“観察と沈黙”、そして“決して口に出せない疑問”の数々だった。
ナオ:(……あの頃は、感情を持つ余裕なんてなかった)
だが今、自分のそばには言葉を交わす仲間がいる。
問いかけに応じ、沈黙の中で寄り添ってくれる存在がいる。
ナオ:(それなら、もう一度……俺は“聞いて”みたい)
そのときだった。
リル:「……ナオ、奥ニ、ナニカ来ル」
ナオはしばし通路の静寂に耳を澄ませていた。だが、この階層にあって“耳を澄ます”という行為は、ほとんど意味を成さないのだと気づく。音という概念が希薄な空間。まるで空間そのものが“音”という存在を忌避しているかのような拒絶感があった。
――沈黙の中の沈黙。
「……この静けさに、何か意味がある気がする」
ナオの呟きに、ユレイが反応する。
> ユレイ:「音響情報、遮断率97%。自然現象トシテハ異常数値。……“意図的操作”ノ可能性、高」
> ミズハ:「音、消ス……意味。記録ノ妨害、交信妨害、恐怖誘導……用途、多数」
> アクト:「敵対的環境。防衛施設ノ可能性アリ。旧設計ト類似点、多」
> ヘイド:「敵性反応、今ノ所、確認ナシ。ダガ、油断禁物」
> リル:「ナオ……手、ニギッテテ……?」
リルの言葉に、ナオは自然と微笑んだ。彼女の小さな手をもう一度握る。彼女が感じている恐れは、ナオ自身の中にある不安の鏡だった。
彼はかつて“音のない空間”を体験していた。
それは幼少期、カミシロ家の“沈黙訓練”と呼ばれた過酷な訓練室。狭く、暗く、そして音の反響すら存在しない密閉空間で、何時間も座り続けるという試練。
泣いても、叫んでも、誰も来ない。
空気の流れひとつ感じられず、やがて思考すら鈍くなる。
その中で、自分の心だけが響き続ける。
――お前は誰だ。
――ここに居る意味は?
その時の体験が、今まさにこの空間で蘇っていた。
「……あの時と、似てるな」
ナオの声は、自分に向けたものだったが、魔器たちはそれを正確に受け取った。
> ユレイ:「カミシロ訓練記録、照合完了。沈黙室ノ感覚、再現度92%。……ナオ、“平気”?」
> ナオ:「ああ、大丈夫。慣れてる……いや、慣れさせられた」
> ミズハ:「ソレ、訓練、トイウ名ノ……強制。記録ニハ、苦痛反応ノ多サ……残ッテル」
> ナオ:「でも、おかげで今ここに立ててるってのも事実さ。皮肉な話だけど」
ナオは苦笑し、そして思った。
――どこまでが感謝で、どこまでが呪いなのか、わからない。けれど俺は、その“境界”に立ってる。
そんな彼の想いを知ってか知らずか、リルがそっと腕に顔を寄せてくる。
> リル:「ナオ……温カイ。……落チ着ク」
> ユレイ:「前方通路、構造変化アリ。“開閉機構”ノ痕跡、確認」
> アクト:「反応源、20m先。静止物体ノ魔素反応……小型構造物」
ナオは目を細め、空間の奥を見据える。
「……何かある。行こう」
進んだ先、通路の先端はわずかに開かれていた。まるで“こちらを誘うように”。
ナオたちがその先に足を踏み入れたとき――
空気の感触が変わった。
乾いた鉄の匂いと、わずかに焦げた魔力の痕跡。
空間の魔素密度が急激に上昇する。
> ヘイド:「魔力圧、急上昇。戦闘警戒、推奨」
> アクト:「構造物、起動シカケテイル。トマッタ時間、今、再開」
ナオが次の一歩を踏み出そうとした、その瞬間――
空間の中央に、淡い光の柱が現れた。
その中に、“何か”が立っていた。
それは、かつてナオたちが記録で見た、“旧時代の魔器”によく似た構造体だった。
ただし、それは“起動していない”。完全なる静止。だが、その“視線”だけがこちらを捉えていた。
ナオは息を呑み、魔器たちと共に陣形を組む。
「……次が来たな。これが、“この場所を守る者”か――」
──ナオと魔器たちの視線の先に立つ影、それはまるで時間から取り残された“かつての守護者”だった。
全高およそ二メートル。関節は滑らかな金属で覆われ、その隙間からは微弱な魔素の光が漏れている。頭部は仮面のような意匠を持ち、表情は存在しない。だが、その“眼”――魔素によって模られた双眼だけが、確かに彼らを見つめていた。
《旧設計魔器・番外型モデル:“ナナシ”》
> アクト:「旧型識別完了。“番外設計”カテゴリ。登録名ナシ、製造者記録モ未登録」
> ヘイド:「攻撃反応ナシ。但シ、臨界魔素レベル接近中。抑制限界、突破スル可能性アリ」
> ミズハ:「……目、逸ラサナイ。“確カメテイル”。ワタシタチ、誰カヲ」
> リル:「ナオ……声、掛ケテ……? ナンカ……話セル気、スル」
> ユレイ:「対象、沈黙継続。通信試行ノ許容範囲内。試行ヲ推奨」
ナオは息を整え、一歩前に出た。
「……聞こえるか? 俺たちは敵じゃない。この階層の情報を、少しでも知りたくて来た」
静寂。
だが、その直後、“番外型”の眼がわずかに明滅した。
音も言葉もなかった。ただ、直接脳に響くような、微細な振動。
ナオの中で、“誰かの記憶”が流れ込む感覚が走った。
──《記録断片・流入》──
(古代語。名も無き造り手の言葉)
『我らハ、“声ヲ失ッタ者”』
『記録ノ破片トナリテ、永久ノ沈黙ノ中ニ在ル』
『汝等ニ、試練ヲ課ス。答エヲ得ルハ、“刃”ニ非ズ、“想イ”ニヨル』
──流れは一瞬で終わり、空間に再び沈黙が戻った。
ナオは額に汗を浮かべながら、短く息を吐いた。
「……“対話の試練”……か。あんたたちが、待ってたのは“言葉”なんだな」
> アクト:「敵対意志、消失。通信記録、一時開放」
> ユレイ:「接続開始。“沈黙ノ記録”、解析可能ナ領域、限定的ナガラ存在」
> ミズハ:「記録、読ム? ナニカ、残ッテル……人ノ、声」
> リル:「コワクナイ……今ノ音、優シカッタ」
> ヘイド:「領域内、安全。ナオ、解析ヲ」
ナオは深く頷き、再び“番外型”に向かって手をかざす。
「――あなたの、記憶を……見せてくれ」
──《解析開始:記録断層F-01-Λ/沈黙領域》──
闇の中に、無数の声が浮かび上がる。
かつて、この場所に集められた“造られし者たち”。
使用されず、捨てられ、封印された兵器たち。
彼らは戦うために生まれながら、戦いを与えられず、ただ存在することすら許されなかった。
それでも、誰かに使ってほしかった。
誰かの手で、意味を得たかった。
それがたとえ、“戦い”でなくても――
──音も、言葉もなかった。
ただ、“想い”だけが、今もこの場所に残り続けていた。
ナオは静かに、記録装置を閉じた。すべての声を、受け止めるように、胸の奥で。
「……お前たちの気持ち、わかったよ。だからもう、“沈黙のまま”にはさせない」
その瞬間、“番外型”の目が微かに光を放ち、静かに頭を垂れた。
──《試練完了:対話記録、継承完了》──
> アクト:「沈黙領域、封鎖解除。転移座標、復帰」
> ユレイ:「対象、“記憶ノ番人”ト認定。同行資格、取得」
> ミズハ:「一緒、帰レル……?」
> リル:「……名前、ナイノ? 付ケテ、イイ?」
> ナオ:「そうだな……名前、つけよう。ここから一緒に行こう」
それが何を語るのか。
まだ、わからない。
だが、今確かにここに“過去と未来を繋ぐ鍵”がある。
ナオは通路の奥を見やり、目を細めた。
その先に広がる更なる未知に向けて、再び足を踏み出す。
新たな謎が、彼らを待っていた。




