影を走る刃
──魔物の群れは止まらない。
一体を斬り伏せた直後、血の臭いに引き寄せられたように、周囲の“侵蝕種”たちはいっせいに咆哮を上げた。その吠え声は、まるで個体ではなく“群れ”として意志を持ったかのような連携を感じさせる。硬い爪音が石畳を叩き、獣の体毛が舞い、異形の影が次々と押し寄せてきた。
「数が多すぎる……囲まれる!」
ミュアの声が上ずる。彼女はナオのすぐ後ろに控えていた。足音の響き、唸り声、石壁に反響する蹄音が彼女の小さな肩を震わせていた。顔は恐怖に引きつり、手には細い短杖を握っているが、それが役立つとは到底思えなかった。
ナオは、その細い体をかばうように一歩前へ出る。だが、その胸も大きく上下し、呼吸は未だ整っていない。
(落ち着け……焦るな。父さんが言ってた。“型は思考を止めるためにあるんじゃない。思考を続けるための道筋だ”って……!)
足元には血の滴りが残っている。空気には鉄の匂いと、野獣のような獣臭。そして、今なお石壁の向こうから続々と迫る気配。
ナオの手には一枚の手裏剣があった。指に吸い付くようなその鋼の冷たさを感じた瞬間、脳裏に一つの言葉がよぎった。
《空巻ノ書》──第四巻 “影の導き”より
――回転は軌道、影は術にて導く。
ナオはすぐさま周囲を見渡した。風の流れ。壁面の角度。群れの密度。石の跳ね返り角と、敵の位置関係。
数秒で“戦場”を構築する。
「影走手裏剣……!」
静かに息を吐き、手首をわずかに返す。次の瞬間、ナオの手から放たれた手裏剣は風を裂いて飛び出した。直進──ではなく、空間を“走った”。
一度壁に当たり、硬質な音を立てて角度を変える。そして二度目の反射で、魔物の死角へと滑り込むように跳び、こめかみを正確に貫いた。
「!?」
仲間の死を認識した他の魔物たちが吠えたが、反応するよりも早く、ナオの姿はもうそこにはいなかった。
「──零重歩、起動」
その声と共に、ナオは地面を蹴った。
音が、なかった。
風も、揺れなかった。
まるで重さが存在しないかのように、彼の身体はふわりと空中を渡った。足場のないはずの空間に、一瞬だけ影が浮かぶ。その影を足がかりにするように、彼は魔物たちの頭上を滑るように駆け抜けた。
「──瞬身、閃移!」
背後へ降り立つ。次の瞬間、ナイフの刃が影のなかから現れ、魔物の首筋を一閃した。
悲鳴すら上げさせず、魔物は崩れ落ち、やがて黒い霧とともにその存在を消す。
静寂。その一瞬。
そのとき、ナオの視界に青白いウィンドウが浮かび上がった。
《スキル進化:条件達成》
▶ 手裏剣術 → 《影走手裏剣》
▶ 無音歩行 → 《零重歩》
▶ 瞬身術 → 《閃移》
「……なるほどな」
ナオはゆっくりと手を握りしめた。冷えた汗が背を伝う。だがそれ以上に、内に燃え上がる確信があった。
(これは……“理屈”だ。魔法じゃない。奇跡でもない)
呼吸を整えながら、彼は心の奥にあった“問い”に、静かに答えを出していく。
(父さんが残した“空巻ノ書”。あれは単なる修行メモじゃない。記録だ。生き残るための術の“論理”なんだ)
鍛えられた身体。磨いた技。直感と状況判断。それらが今、戦場という“現実”の中で、有機的に繋がり始めていた。
忍としての血。知識としての継承。生き残るための直感。
その三つが、ようやく“ひとつ”に結びついた。
そのとき。
残る魔物たちが威嚇するように吠えた。だが、先ほどの勢いはもうない。一歩踏み出すナオの気配に怯えたように、数体が距離を取り始める。
「ナオ……いまの、あれ、全部……あなたが?」
背後から、かすれた声が聞こえた。
ミュアだった。恐怖で膝が震えていた。けれど、その目はしっかりとナオの背を見ていた。
「……違うさ」
ナオは息を吐き、静かに笑った。
「俺じゃなくて……“神代の忍者”たちが教えてくれた」
それは、自嘲ではない。誇りでもない。ただ事実だった。彼が今ここに立てているのは、自分ひとりの力ではなく、遥か昔から続いてきた“知”の積み重ねがあるからだ。
「でも……それを使ったのは、君だよね」
ミュアが、そう言った。声は震えていたが、強くて、優しかった。
ナオは少し驚き、そして頷いた。
「……ああ。だから、たぶん……これからも俺が使うんだ」
その瞬間、どこかで“始まった”気がした。
名もなき地下層の戦い。だが、この日、この場所で、ナオは初めて「忍者」としての自分を認めた。
影を走る刃は、まだほんの序章に過ぎない。